nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】R2.6/12_「1枚の写真展「ONE」」@ ギャラリー・ソラリス

【会期】2020.6/9(火)~6/21(日)

「1人1枚が作品を飾る」企画展。30名の出品者が集まった。まず「作品」を作って、人前に見せようというイベントです。

 

f:id:MAREOSIEV:20200613000547j:plain

 

 

f:id:MAREOSIEV:20200613000526j:plain

f:id:MAREOSIEV:20200613000444j:plain

f:id:MAREOSIEV:20200613000607j:plain

 

楽しそうだ。 

 

「写真」のハードルを程好く下げる取り組みは重要だと痛感する昨今です。痛感します。してます。だってさ。だってさあああ。アサカメが紙媒体やめちゃう時代なんですよ。(※2020.6/19発売の7月号を以て休刊) どうかしてます。くるってゐる。写真、時代の波に呑まれすぎて、溺死寸前ではと不安になる。

 

写真の場に人が立ち寄れることが、重要。

 

でないと誰も「写真」という少々面倒で近代的な、やや古風な表現を手にしなくなってしまうだろう、などと思ったりもします。実際どうなんかな? 何より、「写真」には労力に対する見返りが、ない。YouTubeがウケているのは、見返りとしての経済的幻想(=個人の収益化)が今まさに真っ盛りだからだ。

写真関連であるとしたら、instagram界隈の「個人の趣味で始めたら、〇〇社/〇〇誌から仕事の依頼が来ました!」「モデルで活躍中の/プロフォトグラファーの/何たらかんたらの、カリスマ的な◯◯さんからフォローされました!」的な成功談ぐらいですか。あれ実際どうなんですかね。天からの声はユーザーの何割ぐらいが経験するものなのか・・・ 

それに大体、「自分の好きな表現」と、企業・メディア側の「宣伝・広告・ファッション」の意図とがマッチするかは別次元の話なので、無理して受注狙いに行っても健康によくない気がする。やってて楽しい写真と、ウケる写真は違うわけです。まあそこは「商業」と「表現」の永遠のテーマ。

商業的成功とは別の次元で、写真を楽しむことの面白さを、万人はもっと知ってよいと思いますね!(ダーン!)(つくえをたたく音)

 

しかし「写真」はまず、人に見せないと「作品」にならない。

instagramFacebookで写真を「作品」として人前にさらす機会は飛躍的に増大したものの、写真をモノとして取り扱うのは別次元の体験であり、液晶画面ではその手間や難しさと、やりがいや面白みは全てショートカットされている。「何が違うのか」「Webで何が悪い」と訝る方も多いかと思いますが、いやもう。全然ちゃいます。ちゃうんです。やってみなはれ。

 

ブツで展示するのはいいですよ。モノとして確固とした存在感が出ることで、作者の手から「写真」が、自立した存在になるんです。

手離して自立させる。この意味に目覚めると、創作活動が充実していくはずです。 

 

 

さて本展示に戻ってきまして。

本企画は、出品者めいめいが自分の「これ」と思う「1枚」を出す。審査なし。なので好き勝手にやり散らかして良いわけだが、面白いことに会場の雰囲気はまとまっていた。場違いに暴れたり破綻しているものはなく、それぞれの個性を発揮しつつ、調和があった。

 

新型コロナの休業要請以降、ギャラリーの発信の試みとして、展示会場の様子をWebから3Dで見ることが出来るようになった。個々の作品のディテールや奥行き、ツヤ感などはさすがに分からないものの、会場に立った時の視座はうまく再現されていると思う。

 

mpembed.com

 

作品では、穏やかな風景や家族、街の情景、クローズアップされた小物などが並ぶ。色調やフレーミング、サイズはまちまちだ。

 

なにぶん、「1枚」での出展なので、個別の作家や作品について取り沙汰するのは避けようと思う。写真の恐ろしい特性は、1枚のときと、組にしたとき、群になったとき、物語として流れを伴ったときで、見えてくるものが全く変わってくるためだ。よってこの場では、企画全体を見て楽しんだ。

 

とはいえ、

ツルタマサヤ『2020』はひしめき合う群衆の頭が不気味なドット絵のようで、いい意味で気持ち悪くて良かった。群衆は色調の点なのか。雪嶋大『Graffity 落書き』は作者の主観を超えたところで織り成される幾何学の造形美とノイズが捉えられていて面白く、似た作家がいたようで思い出せずにいる。先行する著名な作家の系譜を感じるというのは重要なことです。上条悠加『あいだ』は、相対する2者(斃れて動かない蜂と、ボロボロになりながら寄り添っている黒い蝶)の関係という、1枚の画の中に最も物語性を盛り込んでいた。

平穏そうに見えて最も奇特だったのはフォトハンター氏『忽焉』、巨大な丘のような雪山の斜面とそれを登っている小さな人物を撮っているのだが、人間の影はヒトに見えず、立ち込める霧と空の色がおかしな具合に色を帯びてこの世ではないように見えるし、空の奥の方にもたぶん山の稜線が続いているのだと思うが、雪の白さで空と同化しているためなのか、ネガのヨレや折れを焼き付けたように奇妙なヒビ割れた線が画面に走っている。そして額装は手作りでテープがヨレヨレと写真を取り巻いている、観ていてずっと割り切れないところが多くて、面白かった。

 

 

もし自分が「写真1枚だけで勝負しろ」と言われたら、これは結構怖い。1枚で「これは”あの人”の世界だ」と、一発で示さないといけないし、隣近所に来る作品によっては打ち消されて沈んでしまう。かと言っていつもと全く違うものを出して茶化すのもよろしくない。私は何をすべきなのか?

 

段々と鎌首をもたげもたげ始めるものがある。

あれだ。あれです。

「作家性」とかいう、ヒドラのような、呪わしいあれです。

 

私はどうしても、ある個人が背負った宿痾のごとき作家性とかいうもの――呪いの力を、見たくて仕方がないらしい。 

 

願わくば皆さんが、1枚出展に飽き足りなくなって、沼に足を踏み入れてゆくような、そんな感じで、健やかに写真生活を、送られますよう(祈)。

 

f:id:MAREOSIEV:20200613000505j:plain

f:id:MAREOSIEV:20200613000426j:plain

f:id:MAREOSIEV:20200613000409j:plain

f:id:MAREOSIEV:20200613000349j:plain

 

( ´ - ` ) 完。