nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【写真展】R3.4/23ー5/3_坂東正沙子「Aerial」@gallery 176

タイトル「Arial」とは「air」の形容詞で「空気の、大気中の」といった意味を持つ。ステートメントでは『確かに在ったという空気感だけを、私は握りしめているようだ。』と綴られている。スナップ写真群から、「私」=作者が何を掴もうとしていたのかを辿ってみる。

  

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【会期】2021.4/23(金)~5/3(月)

 

 

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単体の作品が16枚、普通の紙に印刷されテープで直貼りされたL版の作品群が、縦6列×横11列=66枚。2017年から現在まで撮り溜められてきた。フィルム版「GR」を使い、自然体で横位置で撮るスタイルだが、数を多く撮るタイプではないという。

人の輪や喧騒から身を置いて、日常の縁から時間の流れを見つめ直すようなスナップ写真だ。スナップと言っても静的で、ひとつひとつの時間を、人の顔を撮るようにシャッターが切られている。

だが瞬発力が活かされていて、路上の他人が多く写されている。写り込んでいるのではなく明確に被写体として照準が付いていて、老若男女、路上生活者もいる。夜道でフラッシュを背後から焚いた写真が印象的だ。時には正面からも光を浴びせている。

 

人々は単独で写っていて、「個」としてそこに佇んでいる。

腰を落ち着けていたり足を止めたり、フラッシュで凍結されている。人は写っていなくてもその痕跡が撮られていたりする。それらは「ストリートスナップ」から一般的に連想される擦れ違い、森山大道の言うところの「擦過傷」としての像ではない。それぞれに集団や組織から離れたところで、独りの人間となった姿が写っている。本作は、普段はマジョリティ側に何となく大別される人たちが、「個」に還ったところの「居場所」を捉えているのではないか。何かの属性で再括りするには、個人的な姿で、マイノリティでもない。寂しさや孤立ではなく、「居場所」としての孤独を認めているように感じた。

そこが、作者自身の居場所や現実感の確認と通じてゆくのだろう。

 

ラストは遺体となった祖母との別れで結ばれる。その一つ手前のカットは、人が少なくなった新宿・歌舞伎町のシネシティ広場に佇む初老の男性の後ろ姿で、奥に写り込む人々がマスクを着けているから新型コロナ禍以降の状況だろう。「日常」と「生死」をテーマにした作品であればクライマックスとなるシーンだ。しかし本作では逆に「日常」の普遍的な流れの中に、それもまた一つの「日常」として溶け込んでいるように見えた。

そう思わせたのは3枚の写真の流れだった。ギャラリー正面の壁に掲げられた2枚の大伸ばしのうち、左側の1枚と、そこから続く左側壁面の2枚に、私は強いものを見て、そこにクライマックスを感じた。

 

 

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1枚目は、ホテルの室内、ベッド脇の窓から外を見やる若い男性の後ろ姿のカット。外からの陽光で陰影が強い。男性は耳と頬と肩、腕のラインまでしか見えない。身近にいる親密な人としての確かさと、永遠に触れられない記憶の中の象徴でもあるような、そう反するイメージをもたらす。

2枚目は、霞んだセピアが全面を覆う中で佇む、ウェディングドレス姿の背中から腰回りにかけてのカット。大きく背が開いていて、肩から腕と背中まで肌が露出しているが、ツヤッとしていて、若い女性を象ったマネキンと思われる。結婚や女性の強い象徴であり、ガラス面の反射光は手が物理的には届かないことを暗喩する。

3枚目は重ねた両足のアップ。フラッシュ光により白い壁と、白い肌と、影が画面を占める。肌色に黒く乗るマニキュアに加えて、親指の付け根から甲にかけてが、影が体に直接宿ったように黒ずんでいて、不思議なニュアンスを持っていた。画角から、作者の自撮りと思われるが、単純な「私」の肯定、単一の「私」や「裸」といった意味に還元できないものがあった。

 

単一のものへ還元できない「私」や「日常」の写真は、よくある「何気ない日常の生を肯定する」写真と、似ているようで大きく異なる。後者では作者の属性などの前提が揺るがず、作品を通じて概ね肯定される。自己肯定に失敗してもその試み自体は肯定される。そのようなことが作者自身によっても期待されているだろう。だが前者の場合は、元々の作者の所属する世界線が、意識的にせよ無意識的にせよ、問われているのではないか。 

 

単なる日常やセルフポートレイトと捉えてよいのかを躊躇わせたこの3枚の連続は、私にとってクライマックス的な迫力を持っていた。

 

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壁にテープで直貼りされた66枚の写真群も、発見が色々とあって興味深い。作者が掴もうとしていた「空気感」と、その発信源である他者の居場所、そして作者自身の存在感について、眼を迷い込ませてゆくのが面白かった。

 

( ´ - ` ) 完。