写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】熊谷聖司「EACH LITTLE THING」@ solaris(大阪・心斎橋)

【写真展】熊谷聖司「EACH LITTLE THING」@ solaris(大阪・心斎橋)

 「それぞれの、ささいなこと」とでも訳せばよいだろうか。大いなる反語だ。ひとつひとつの事柄が、日常の流れから切り出されて、唯一無二の「何か」となって立ち上がってくる。些細かもしれないが、稀有な断篇だ。これらを繋ぎ合わせたら、どんな物語が生まれるだろうか?

 

【展示】熊谷聖司『EACH LITTLE THING』  

【期間】2019.1/15(火)~1/27(日)11:00ー19:00

 

本展示は、2011年から2018年の間に刊行されてきた#1~#10まで10冊のミニ写真集シリーズの完結にあたって開催されたもので、そのうちの17点を作家のオリジナルプリントで展示するものである。

プリントの暗室作業は作家自身が行うものの、写真集の編集に当たっては、熊谷氏はデザイナー(高橋健介)に作品を渡すのみで、後の工程にはあえて関与しない仕組みをとっている。高度な画面構成力、編集力、プリントの力量を持つ作家であるから、その意図の枠組みを超えた偶然性や「予期せぬこと」を招き入れるために不可欠な試みだったのだろう。

その効果として、会場で隣り合う写真、写真集で並び合う写真らは、「関係がありそうで、ないような」、「関係がなさそうで、関連しているような」の間を行きつ戻りつしている。読者はその映像の中を恣意的に泳ぎながら、言わば読者個々人が、自分の物語を編み出すことが許されている、ようにも見える。

作品は日常生活で出くわしたであろう、無数の光景、モノが捉えられている。

これら日常の肖像を、もし日常生活という流れの中で見たとしたら、いくつかの意味、シーンに大まかに分類できるだろう。自宅内のなにそれ、移動中のなにそれ、友人仲間とのなにそれ、etc、etc。だが本作品では、1枚ずつの写真は周囲との文脈が巧みに切断されているらしく、1枚ずつを見ていると、唐突な詩の断片を眺めているようなもので、全く意味が解らない。そして隣り合う写真の流れから文脈を読み取ろうとしても、イメージ同士に相関があるように思いきや、必ずしもそうではない気配がする。

それらの間にリンクを張るためには、鑑賞者が言葉を盛り込んで繋ぎ合わせることを要されるだろう。鑑賞者の自由に小さな物語が生みだせるというコンセプトなのだ、と思いきや、容易にはリンクされ得ない。中には隣り合う写真が相当にかけ離れた頁もあり、読み手の小さな物語として味わう試みは、実は極めてシュールなSF短編作と化す恐れがある。

例えば写真集#7の冒頭からその困難に直面する。①雪の降りしきる林の中で、木に留まって佇む2羽のふくろうの像。②妖艶な映画のシーンのような妖艶な女性の背中、黒い服が首もとから空いていて、肌が蝶の羽の先のように伸びている。③街の景色を反射するガラスに貼られたハサミのアイコンが残像のように振り下ろされ、④「時」の一文字だけが浮かび上がる自動ドア。以下略。こうした日常の断片が連鎖してゆき、物語化しようとすればより、切り出された「日常」という時間景そのものがオブジェとして、より存在感を示すだけなのである。一見、私小説めいた物語のような雰囲気を宿しているが、その実、切り立った彫刻のようだ。

 

だが、美しい。プリントを覆う、褪せたブルーや光が、ノスタルジーともフォトジェニックとも異なる情感をもたらす。薄い水の中にいるようだ。目を開け切らない胎児の、世界に初めて触れた時のみずみずしい視界と言えば良いだろうか。熊谷氏の視座は常に新しい。まるで今日、朝起きたことが、今生まれたばかりのように、静かな鮮やかさに満ちている。

ある種の、悟りの視界かもしれない。ビビッドとは言え「若い」写真ではないのだ。写されている被写体らは笑顔だったり、若者だったり、ビビッドだったり、表情豊かである。だが、確実に時間の流れは停止、凍結されている。周囲の、日常という時間軸から、停止されて切り出されていて、この世の、私的な感傷、個人の「生」から突き放したところから、「日常」を捉えている。

通常、n秒、n+1秒、n+2秒、…そうして時間は流れ、「日常」は構成されていて、時の流れは「私」という川のかたちを成す。日常の事物を撮るということは、必然的に私情という川の流れの中から水や石を拾い上げることだ、そうした写真は「私」の生の流れに属するものとして、ある種の思い入れ、主観、記憶で濡れたものとなる。しかし熊谷作品では、通常ならn秒、n+1秒、n+2秒…となる時間が、「等価に」異なる・不連続な数としてカウントされており、私情に濡れてはいない。だからと言って、単に撮り溜めた写真をランダムにセレクトしただけではない。これらの写真は撮られた瞬間から既に、センチメンタルな繋がりーー「私」を留保して、誰のものでもないところから撮られている。シャッターの切られたその瞬間は、その時間そのものにしか所属していないのだ。

これらのことを踏まえると、身近な日常をシュールリアリズムの文法、デペイズマンの技法から切り取り、浮かび上がらせた東松照明、更にラディカルな批評から写真の意味性、詩を否定した中平卓馬の仕事などをどこか思い浮かべてしまう。作者の引用ではなく、現代日本の写真家の根底に通ずる源流として。昭和の先人らの取り組みは当時先鋭的であり、「戦後」というゼロにリセットされた世界での「日常」を問い直した。我々の現在形はどうだろうか。言うまでもなくあの2011年に、深いリセットボタンが押されてしまっている。「3.11」移行、「日常」はこれまでと同様には語れなくなった。もう3.11以前の暮らしには戻れないし、「日常」が一瞬で別の何かに転じることを身を以て知ったところだ。

 

写真はよく俳句に例えられる。日常の光景を、眼で捉え、一枚の平面に託す。言語で表すか、映像で表すかの違いはあれど、両者は文法上、類似しているとされてきた。岩宮武二などモダニズムの時代においてはそうだったのだろう。しかし写真はその後、時代の移り変わりの中で問い直しを続け、社会やメディアに合わせて改良されてきた。写真における意味性、語り・意味性からの脱却や否定、あるいは演出、私性の復権。デジタル化による存在意義の問い直し、等々。

そうして辿り着いた現在の写真の形態の一つとして、作家の意図を排し、観る側に語り・意味性を委ねる、という姿勢が挙げられる(写真の現代アート化)。更にそれを押し進めたところとして「意味の生成を回避する」文体へ辿り着いたと考えられる。いわば反・俳句の形態である。

本作は、写真として成立するために必要な画面構成はきっちり行われているが、その映像が帰属する決定的な時間軸や地理は宙吊り(凍結)となっているというものだ。言わば、俳句としての五七五のフォーマットはあるが、フォームに代入できる数値が一つしか許されない、季語が入れられない、述語が入れられない、といった、メタのレベルで何らかのロックが掛かっているようで、取り上げた事物のみをさらけ出すような文体をしている。この「日常」が何から出来ているのかを、私情を挿し挟まずに見るという視座が与えられている。

 

日常生活を送りながら、意味から身を置いて「日常」を見ることは困難だ。

私達は意味に曝され続けている。日々、意味、意義に強迫されているとも言える。より分かりやすく、よりロジカルに、より効率的に情報を扱えるよう、より的確なコミュニケーションをとれるよう、社会からの要請は止むことがない。少しでも面白そうな、少しでも有意義そうなRTに触れ、更にRTすることが暗黙のタスクとなっている。無意味や意味不明というものは駆逐される。もうそろそろ「3.11」が何だったのか、あれ以前の日常がどうだったのかは思い出せない。

 

熊谷作品は、高度な反・俳句の文体によって、私たちに自由に想像を巡らせる誘惑を与えつつも、その先にて、意味の停止した「日常」の姿を見せつける。こんなに優しい映像なのに、なんと前衛的な写真だろうか。だが作品群は青く澄んだ光にうっすらと覆われていて、生まれて間もない眼で見たときの朧な美しさが流れている。ただソリッドに切り出すだけではない。この現世を深いところから肯定する、静かに悟ったような力を感じるものであった。

写真集はバラ売りもされている。お買い求めやすく、お買い求めました。良い◎

 

( ´ - ` ) 完。