写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】「0546 神戸」Yas+ @KOBE 819 GALLERY(神戸三宮)

【写真展】「0546 神戸」Yas+ @KOBE 819 GALLERY(神戸三宮)

作者Yas+氏は阪神・淡路大震災を直接体験していない。本作は2つの行為――撮影行為および展示行為において、その未体験の空白部分を埋め合わせる試みとなっている。

 

関西人、特に兵庫県南部と大阪府の市民にとって、1995.1.17 阪神・淡路大震災は、一つの大きな公共の場――公的に共有された記憶の場となっているのではないだろうか。先日もTwitterで新聞記者の人が、被災当時は地震発生時にどこに居たかが共通語というか、通じ合う挨拶であって、直接に被災に居合わせていなかった自分は外様扱いだったと述懐していた。広範に亘って甚大な被害をもたらしたM7.3、最大震度7を観測した史上稀に見る巨大地震は、高度に発達した現代都市のインフラ機能を寸断、壊滅させたことが社会に大きな衝撃を与え、見慣れた駅や高架、スーパーなどの日常景が崩れ落ちた光景は、一般市民の記憶に傷を遺すものとなった。

それまで日本の都市は不滅、自己増殖のイメージが伴い、『AKIRA』に代表されるようにサブカルチャーの世界の中では尽く破壊の対象となっていた。その伝説が完璧なまでに崩れ去った瞬間だった。都市はこんなにも簡単に壊れるものだったのかと。直接の被害を被らなかった地域でも、交通インフラの障害の影響はあった(JRは74日で全線復旧し、非常に速かった)し、大阪から神戸方面へ移動する際には、尼崎、西宮を越えたあたりから車窓には破壊の爪痕や仮設住宅群が見え、外様の自分がじろじろと見てはいけないものに直面させられ、他人事であるが他人事ならぬ複雑な思いを抱いたものでもあった。そしてもちろん、近しい人を亡くした方も多い。

 

作者は神戸で生まれ育ったにも関わらず、偶然にも1995年1月のその時は、関西に居なかった。ゆえに「1/17」や「05:46」という震災の日時は、関西圏では半ば公共の場ならぬ公共の記憶となっているが、作者個人にとっては空白地帯なのである。

 

実は私自身も、直接の「震災」を体験をしていない。震災の周辺にいたというべきか。早朝5:46、大きな揺れに飛び起きて恐怖はしたが、その後は普通に中学校へ部活の朝練に行き、体育館でドリブルシュートをしていたのだった。そして帰宅後のTVで、宮根誠司だか誰かが緊張した面持ちで世紀末的な映像をバックに緊急番組で報道をしているのを見て、初めて「震災」を知った。

公的な記憶として語られるときの「阪神・淡路大震災」は、まさにそのような、高速道路が横倒しになり、取り残された高速バスが宙ぶらりんになり、線路がうねり、市街地で火災の煙が立ち上っている、といったイメージだろう。お茶の間にTVによって繰り返し震災関連の映像が報道、ACの広告などの形で流され、イメージの一定の共有が為されたと思う。

本作は、作者が早朝から神戸の町で職場に向かったり散策する中で、震災の発生と同時刻の「5:46」にシャッターを切り、それを約1年間撮り溜めたものだ。撮影行為によって作者は、公共の記憶としての「震災」を掴もうとし、自らの体に引き寄せる。これが第一の行為だ。

そうして得られた無数の都市景は、震災から20年以上が経過した後の姿であり、再生が行き届き、完全に新たな日常と化した後の景色である。復興後という、別の枠組みの「日常」に移行した後の世界であり、写真には震災の記憶や痕跡は一切示されない。ドキュメントではなく、むしろ反ドキュメント、アクションとしての写真と言うべきか。空白を抱えた作者は、眼前の光景からは絶対に「震災」を記録・追体験することが出来ない。

作者はそのことを承知の上で、シャッターを毎日切り続け、「時刻」という形のない(制度にも等しい)不確かなものを手繰り寄せ、自身の空白を埋めようと試みるのだ。その活動は河原温の『TODAY』シリーズ(毎日、日時を絵画として打刻し続ける行為)にも通じる性質がある。街の撮り方は客観的で、付かず離れずの距離感を保っており、中空をにらむ眼差しには都市景そのものではなく「5:46」という時間そのものを撮っていることを感じる。まるでWebクローラーのように作者とカメラは、神戸の街の中を徘徊し、冷静に「時刻」を収集する。「震災」発生の日時という、半ば固有(公有)名詞化した一点を強く指し示すところは、普遍的な時間そのものを扱う河原温とは真逆と言えよう。

 

こうして集められた膨大な「震災」時刻の風景は、それだけでは作者の空白地帯を埋め合わせることは出来ない。ここには「震災」を指し示す「時刻」だけが延々と写されており、震災そのもののイメージは展示の場には与えられていない。この奇妙な逆転現象によって、静かな重力場が生じる。本展示に居合わせる観客に対して、展示作品群は引力となり、観客は震災当時のことについて言葉で埋め合わせようとし始めるのだ。私自身が、特に聞かれてもいないのに、自分の「震災」がどうであったかを作品に対応して思い出し、語ろうとし始めたとき、その引力を実感した次第だ。

あの時自分はどうだったのか?という内省と語りによって、この場に私的な「震災」を投じては、引力に穴埋めをする。これが展示行為による、第2の記憶の空白の穴埋めである。特に、ほぼ1年に渡って撮り溜めてきた膨大なポートフォリオを1枚1枚とめくっていくとき、その引力は逃れられないものになる。

 

「震災」とは何だったのだろうか。

とうに忘れていたが、眠れる怪物のように、皆の中には共有されている。同じ関西人であっても、個々の私的な記憶としての震災はまさに千差万別で、町名が一つ隣というだけで、家屋の被害も家人や知人の死傷の状況もまるで違うということは珍しくない。揺れは体感したけれど被災とは呼べない程度だった人というのが、相当な数にのぼるだろう。作者のみならず、私たち個々人の間にも、公的な「震災」の記憶との間のズレがそれぞれにあり、こうして作品を通じて「震災」を思い返すとき、この微妙な空白部に改めて気付かされてゆく。

 

震災という話を抜きにしても、毎朝5:46に撮り溜められた都市景は非常に面白かった。一枚一枚が、写真作品において最も重要な要素の一つとされる「予期せぬもの」や「ノイズ」が豊富に含有されているためだ。震源地を指示して撮られた明石海峡大橋の象徴的なカットを除いて、他の都市景の写真は、フォトジェニックな意図を排し、クローラーと化して撮られているだけに、非常に面白いものだった。都市空間の細部が生き生きとしている。正直、一枚一枚延々とめくって観賞していられる写真集だった。

早朝から撮影に出向いては、6時台、7時台とあまりに早すぎる時間に出社してしまう作者の姿を思うと、本来の重い社会的テーマから脱線して、いち勤め人としての作家像に触れる思いがし、これまた親近感が湧くのであった。

 ( ´ - ` ) 完。