nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【KG+2019】須田派2@Lumen gallery (ルーメンギャラリー)、【写真展】須田一政「犬の鼻」@galleryMain

昭和にその名を刻む写真家・須田一政は、2019年3月7日に逝去した。ご冥福をお祈りします。だが魂は生きている。京都五条、隣り合う2つのギャラリー:ルーメンとメインでは、本人の作品展と、その世界観に集う写真家らによるグループ展がほぼ同時に催された。

【会期】・須田一政「犬の鼻」:2019.5/1~5/19
    ・須田派2:2019.4/30~5/5

 

 

須田一政「犬の鼻」

4度目となる須田一政の展示。本展示は1988~1990年、東京から千葉に移り住んだ頃の写真で構成されている。家族の写り込んだ写真が多く、全20点ほどの展示のうち1/3近くに娘や妻と思しき人物が写り込んでいる。

写り込んでいる、という表するのは、これは「家族を写した」家族写真ではないためだ。この点は生前のインタビューで語られており、須田作品においては、家族は他の街中で見出された瞬間の無名の瞬間、時のオブジェと等価であって、私性としての特別な文脈を持たない。瞬間を切り取り、映像を構築する際に、物理的あるいはイメージの膨らみや画面構成の分断を与えるために取り込まれている。

 

須田作品は、整った日常光景の視界を、名もなき折り紙でも作るようにして、ぱたぱたと山折り・谷折りを加え、膨らませたりして、別の世界にしてしまう。別の、と言っても、本来的にはこの「日常」が包括しているものなのだが、日常は普段、統治されている。「私」という主観の及ぶところは理性やルーティンで整地され、そして「私」の外側もまた他者のそれらによって、日常は一枚一枚、秩序立てられている。

須田一政は独自の写真術によって、それらを折り上げて、迷路を生み出す。真っ直ぐの道を行き止まりに、はたまたT字路に変えるように。そうして提示される光景に「意味」があるのかと問われれば、きっと意味は無いのだろう。意味を結ばないが、誰の所有格にも紐付かない迷路が現れる。一部の人間は、この迷路をこよなく愛する。

作者自身の言葉が写真集「犬の鼻」より引用、掲示されている。言葉を要約すると「言葉に表せないものを撮っている」、まさにその通りで、そういう写真である。

だから多くの(世間的には一部の)人間はとても痺れる。今なお痺れていて、その魔力に引き寄せられる。平らで整った日常を折り折り、見たこともない形の折り紙に仕立ててしまう。これは痺れる。なぜか須田作品は素通りできない。日常の手触りが根底から覆るような感触がたまらないのだ。

 

写真集も売られていたが、希少なストック、16,000円ぐらいのお値段、想像の倍ぐらいしたので断念しました。あうあう。 

 

 ◆【KG+】須田派2

同じ建物内、galleryMainのすぐ隣にLumen galleryが併設されており、須田一政の写真観に影響を受けたり、ワークショップに参加していた作家16名によるグループ展が開催されている。

須田一政ワークショップでは、生徒を型にはめず、技術論もせず、写真の持ち寄りに際してもセレクトを自分で行わずに全て持参してくるよう教えていたと聞く。指導方針を反映したかのようなグループ展で、全員全く異なる作風、見せ方だった。

逆に混乱してウロウロしてしまった。

 

その中で3名の方の作品が刺さった。

 

◆足高七生子

都市景を舞台として人物が写し取られているが、実際のプリントでは焼き込みかレンズのためか、遠近感の奥行きは潰れており、背景と人物が不可分に密着している。そのため人物は、都市の意匠の一つとして配置された存在となり、異形の風貌や謎めいた格好にも関わらず、彼ら彼女らに起因する物語は生成されない。

雑誌の誌面の編集のように、良い意味で個人的な感傷を突き放している。写真の王道というのか、冷淡な文体をしている。しかしこの、被写体との出会い力はすごい。

 

◆後藤元洋

針の振り切れた作家だった。只者でないことがすぐに分かる。

「なぜ」「なんで」「どうして」が尽きない。しかしもうどうしようもない。ちくわです。こうなると「ちくわ」という概念が完全にぶち抜かれて、人体に備わった器官にも、侵略生物にも、植物にも、人物のようにも変容する。

パフォーマンスと言えばそうだし、擬人化と言えばそれもそうだし、なぜこんなにちくわが異様な無気味さを放つのかは分からない。見れば見るほど、白さと焦げ目と肌色が食品というよりナマコや内臓めいた生々しさに満ちている。これはもう理屈ではどうしようもない。ナマコやちくわが夢に出てこないことを祈るだけだ。

 

◆蛭田英紀

会場内で最も須田調を感じた作品群。3ブロックから構成されているが、最初の1ブロックが須田節が効いていて、後の2ブロックはかなり乙女、ご本人を知っている身としてはかなり驚かされた。(逆に、足高さんのストイックでガッツリした作品を蛭田さんの作品だと思って観ていた。)

乙女と感じたのは、眼差しが愛着の念でしっとりしているためだ。「絵になる写真」として完成されることを避けつつも、被写体のことを損なわないよう尊重して写真化している。

フォトブック「TIME LINE」では、相当な回数で作者本人が登場する。被写体としてと言うよりも、カメラを向ける先となる物理的な「外界」と、作者らが生きている「日常」の内とを結びつける糊面のようでもある。私写真にしてはかなり穏やかで、女子高生の日記のように日々が綴られていく。

 

 

2つの展示を併せ見ると面白かった。

 

( ´ - ` ) 完。