nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【映画】ウルリヒ・ザイドル監督「サファリ」@第七藝術劇場

世界的に非難の嵐を巻き起こした「トロフィー・ハンティング」の内側へ入り込んだドキュメンタリー映画。当事者であるハンター、ロッジのオーナー、そして雇用されている現地人に密着し、それぞれの立ち位置を映し出す。

ハンティングは悪なのか? 本作はハンティング=野生動物を銃で撃つこと、その前後の状況も含めて、写真のように静かに映し出している。

 

f:id:MAREOSIEV:20210515093646j:plain

 

 

 

◆トロフィー・ハンティング:高額で合法的なレジャー

 トロフィー?ハンティング??  一体何なのか、パンフレットから引用しよう。

現在、サハラ砂漠南アフリカの24ヵ国で野生動物の狩猟は許可されていて、年間1万8500人のハンターがアフリカ各国で、動物の毛皮や頭だけを目的に動物を狩猟するレジャーのトロフィー・ハンティングを楽しんでいる。アフリカ諸国がこのトロフィー・ハンティングで得る収益は年間約217億円とされていて、各国は貴重な観光収入のため、積極的にハンティングを許可している。

 

アフリカと野生動物というと、まず想像されるのは、国立公園など保護区で動物を保護し、エコツーリズムによって観光客を集め、「ハンター」は違法な犯罪者で取り締まられている、という、自然と共存共栄するビジネスモデルである。しかし実態にあるのはそのような単純な構図ではなかった。生々しい、個人的な欲望に根差した経済システムのために野生動物は使われていたのだ。

 

このような娯楽ビジネスと愛好家が存在することを、世間が広く知ったのは、2015年に世界を駆け巡った人気者のライオン・「セシル」射殺のニュースだろう。

ジンバブエのワング国立公園で世界的に人気を集めていた「セシル」は、肉によって保護区の外側へおびき出され、ハンティング愛好家により弓矢とライフルで射殺された。事の発覚は、そのアメリカ人歯科医師が狩猟後の記念写真をFacebookに投稿したことだ。歯科医は許可を得ての狩猟だったと弁明したが、当然ながら非難が殺到して大騒ぎになった。

 

www.huffingtonpost.jp

 

natgeo.nikkeibp.co.jp

 

この事件は衝撃的すぎて、日々飛び去るWebニュースの中でもはっきり記憶に焼き付いている。

人気者のライオンが撃たれたことよりも、保護区の一歩外で、その野生動物が白人向けビジネスとして狩られていたことのショックが、非常に大きかった。一体何のための保護だったのか・・・では原理的に動物は殺され続けるではないか…と。

 

「セシル」射殺を巡る記事によれば、事後にジンバブエ観光局が「違法な狩猟」として動いたらしいが、これは世界的な非難が巻き起こったための例外的な扱いであって、こうした狩猟ビジネス自体は「合法」である。

九州大学の安田章人 准教授はパンフレットへの寄稿文において、保護区とトロフィー・ハンティングの関係について、植民地時代との関わりを以下のように解説する。

しかし、これらの保護区は、植民地時代に、もともとトロフィー・ハンティングの対象となる野生動物を確保しておくために設定された土地(猟獣保護区)であったことをご存じだろうか。そして、ヨーロッパから入植した移民たちは、もともとそこに住んでいた地域住民を強制的に退去させて、それらの保護区を作った。独立後、保護区は国立公園にされ、サファリ観光(野生動物を記念撮影するなどして観察する観光)の舞台となっている。さらに、多くの地域の場合、国立公園の周辺には、狩猟区が設定されており、そこではトロフィー・ハンティングがおこなわれている。アフリカ南部や東部では、この映画で出てきたように、欧米人が私有地をGame Ranch(猟獣牧場)として経営していることが多い。それ以外の地域では、政府が管理、運営する国設の狩猟区があるが、欧米人が国から賃貸し、トロフィー・ハンティングによるビジネスをおこなっている。

 

このビジネスを回すため--欧米人が狩猟用に動物を確保しておくために、現地の住民には、先祖代々から住んできた土地であっても狩猟は認められていない。それどころか農耕や牧畜も許されておらず、土地を追われている。肉を食べるには欧米のハンターらが仕留めた獲物のおこぼれを貰うことに限定されているのだという。

 

この支配的な構造はなかなか衝撃的であり、正義感情では解決できないことが分かる。映画の中でもビジネスの枠組みについて少し言及されてはいるが、ハンティング愛好者・ビジネス主体側が語るとどうしても身勝手な言い分に聞こえるため、こうした客観的な調査結果がパンフレットに書かれているのは、理解の助けとなり有難かった。

 

安田章人氏によるトロフィー・ハンティングと地域社会の関係の調査は、以下「SYNODOS」での記事にも分かりやすい。

synodos.jp

作中では、「トロフィー・ハンティングによって弱い個体を間引くことに繋がり、秩序をもたらしている」とか「トロフィー・ハンティングの売り上げは現地に還元されるし、現地住民を雇用することで経済的にも大きな寄与がある」といった主張がなされる。

確かに経済効果はあるだろうな、現地人も雇用されているし、と思う一方で、上記記事に書かれている通り、実際にどれだけの額が現地の国や地域住民に還流しているかは全く示されておらず、1回400万円~1千万円にも上るツアーの売り上げが、理想的なモデルの通り流れているのか、誰も知る由がない。この闇は観ていてかなりモヤモヤした点だ。

 

「悪」と断定できず、しかし「善」とは絶対に確証できない「トロフィー・ハンティング」を巡る経済的構図、その実態を見つめるのが本作である。

 

 

◆写真のような映画ー主張なく、距離をもって、BGMなし、静止で

本作は写真のようだった。

 

まず、静かである。BGMは冒頭とエンディングのみで、後はその場の生の音だけが続く。しかもハンティングなので、基本的に無駄な音を立てない。ガイドが小さな声で指示を出し、足音と銃と二脚を運ぶ音がする。対比的に、発砲の瞬間は物凄い炸裂音が唐突に響き、思わずビクッとする。こちらが狙撃されているかのようだ。

獲物を仕留めた後には、歓喜、興奮さめやらぬ達成感が映っているが、大声を上げて喚いたりはしない。ゴルフを嗜む上流階級のようなものか。横たわる死骸にポーズを取らせて記念撮影に移行し、クライアントの要望に応じて獲物を運搬、解体作業に移る様子を淡々と映す。

 


www.youtube.com

ハンティング以外の場面は登場人物がインタビューに応じて語るシーンで、これも無音だ。なのでうまくBGMが重ねられたプレビュー動画とは印象がかなり異なり、映画にしては写真的な静かさがある。

 

最も写真的だったのは、写真と同じ距離感と構図で撮られているシーンがかなり多いことだ。これはかなり意図的に作られていて、例えばプレビュ動画のサムネイル画像がまさに該当する。

カメラは密着しない。常にある程度の、ドキュメンタリーにしては少し離れすぎなぐらいの距離感を保つ。ドラマティックにしない。撮影者の主観、偏向を交えない。まるでニュー・トポグラフィックスの写真のように、人と背景、状況を突き放し気味にフレーミング内に収めている。このフレーミングの写真的さについては、現代写真を学んだ人ならすぐに「おや?」と類似性に気付くだろう。

 

これらのことは、客観的な視座からハンティングとその当事者を浮かび上がらせる狙いがあるのだと思うが、もっと根本的なところでの重ね合わせ--トロフィー・ハンティングにおける写真の役割、すなわちレジャー、ゲーム勝利者の証を立てる最大の物証にして歓喜のクライマックスである「記念写真」を強く意識した構造となっているのではないだろうか。

記念写真のシーンは前後を含めて長回しで記録されており、狙撃の瞬間と対となる重要なプロセスであることが伝わってくる。

準備は入念で、獲物の顔を隠さないよう雑草が切り払われ、だらりと垂れ下がった首と頭をしゃんと立てるため、手ごろな岩を運んできて支えに噛ませ、首の角度を調整する。誇らしげに写るハンターの達成感と威厳を立証する勲章として、記念写真は記念以上の意味を持っているようだ。

映画では、記念撮影と同じ構図のまま、ハンターを静止させて写真のように何秒間か撮っている。このシーンはトロフィー・ハンティングというビジネスを象徴する場面だ。銃とカメラによる二つの「ショット」が、ハンターにとっての、トロフィー・ハンティングの核心なのである。

 

 

◆ハンターにとっての、ハンティングの意味

記念写真は単なる記念ではないことを、後にパンフレットを読む中で理解した。

ここでパンフレットから、プロハンター:立石憲司郎氏のテキストを引用しよう。一般人には非常に遠いところにある、猟と銃について、その困難さと達成感について、重要な知見が書かれている。

ハンターの奥様が涙を流して喜ぶ事は、きっと旦那様のハンターとしての一生の夢が叶ったからだと思います。私も3度ナミビアには行きましたが、1人で渡航し、現地1週間の猟をして150万円前後でした。キリンやゼブラ代は2000ドル位でそれ程高額ではないのですが、4人家族で滞在するだけで3000ドル以上/日になり、庶民にとってアフリカ猟は一生に1度のチャレンジになります。

本作では見るからに富裕なハンターが登場する。特にドイツ人の一家4人(夫妻と息子・娘)は身なり、物腰、言葉からも裕福であることがわかる。やや(かなり)世間ずれした言葉が交わされるので共感は全くできず、すんなりと理解できるものではないが、獲物の首や皮が欲しいのではなく、他に代えがたい達成感、全てを凌駕する狙撃の瞬間に深く魅了されていることや、一匹の野生動物を仕留めることがいかに困難なことか、それを成し遂げること=一人前のハンターになることがどれほど意義深いかが伝わってくる。上述の『奥様の涙』はその象徴的なシーンだ。獲物を仕留めることがいかに重大事か、どうやら単なる娯楽とはものが違うらしいと、中盤以降でこちらも理解し始める、そんな中での涙である。傍らで大きなキリンが撃たれているので全く共感できないが…。

 

銃があればハンティングが簡単に出来ると思われていますが、銃を当てられる様になると言う事は10年以上掛かる大変な修行です。更に獲物との対峙も同程度の難易度です。私は40年以上前に鹿猟を始め、30年程前にやっと1頭目を捕獲成功出来ましたが、射撃以前の五感勝負で射程距離まで引き寄せられなかったので、最初の10年間にはこの1頭しか捕獲出来ませんでした。

そもそも日本の鹿が相手であっても、まず射程距離にすら立たせてもらえないという、想像以上に厳しい世界のようだ。

 

アフリカ猟を成功させる事は一生を掛けた大計画で、下記を満足させなければなりません。20年以上に渡る地道な技術向上の為の努力で100人に一人の300m射撃のマスター。1000万円近い直接資金。そして2週間以上に渡る休暇。そして全てが揃うまで健康を保つ。これらが揃わなければ夢の達成は出来ないのです。恐らく実現出来るのはハンター1万人に1人です。

映画を観ていて思ったことをプロに覆されてしまった。動物の視野の外から、目的に沿った性能の銃で急所を狙い撃てば、そら、相手がインパラだろうがライオンだろうが、人間側にアドバンテージありすぎだろうと。物理的に狩れてしまうだろうと。あまりにアンフェアだろうと。私は憤っていたのだ。しかしそう簡単な話ではないらしい。

資金があればハンティングには参加できる、これはシンプルだ。だが立石氏によれば、動物の五感のセンサーと学習能力は人智を超えていて、『仮に300mで誰もが当てられる様になれば500m以内には出現しなくなる』『映画では風下から隠密接近するが、そのアプローチ作戦は昔の方式で今は通用しない』という。ハンティングとは、ハンターの優位性は全く保証されておらず、常に動物(野生)との「戦い」である…このことは新しい知見であった。それでも、戦う主体である人間側が皆、立石氏のような信念や哲学を備えているかは、本作を見る限り相当疑わしいが・・・。

 

 

◆善悪をフラットに映した結果、浮き上がる「力」の構造

本作が優れていたのは、「トロフィー・ハンティング」という事象について、当事者であるハンターとハンティングロッジのオーナーを「悪」と決めてかからず、じっくりと見つめ、見せてくれたことだ。なおかつ、パンフレットも監督インタビューだけでなく、アメリカ映画やアフリカの研究者、プロハンターらの知見を盛り込み、多角的に情報提供していることも非常に有意義だ。

 

その結果として、「悪」とまで断じないまでも、不均衡な「力」の構造が否応なく浮かび上がる。

 

やはりハンター側の優位性というか、圧倒的に自己本位な構造が保護されている点は誰もが実感するところではないか。

先述のように、大金と長い修練を要するのがハンティングだが、本作に登場するハンターは熟練のガイドのお膳立てを受け、まるで接待のように(そういうサービスなのだから実質的には接待なのだろう)銃を構え、撃っていることが目に付いてしまう。獲物へのアプローチ、銃を構えるタイミング、狙いの位置と、シンプルかつ細かにガイドが指南してくれる。そして撃った後、仕留めた後の肯定も。「よくやった」「見事だ」、同質性の高い、密室の中のようなコミュニケーションが、大自然の真っ只中で行われる。もしハンターが独りで自然に向き合っていたら、その銃口と弾丸は全く異なる意味を帯びただろう。だが本作ではトロフィー・ハンティングの価値体系の中で安心感のケアをも受けながら、命を奪うことの意味に直接関与せずに銃を撃つことが出来てしまっている。ここには撃たれる動物の側との、極端に大きな非対称性を感じた。

そして記念写真。制覇される自然。

 

それだけではない。所望する体の部位:頭部とか皮とかを戦利品として得るのだが、運搬・解体作業は当然、ロッジの従業員=現地住民が行う。ハンター側の欧米人と対照的すぎるのだ。オーストリア人老夫婦に至っては太りすぎていて、缶ビールをしゃぶりながらゲップを繰り返し、どう見積もっても野生動物との対等な戦いなどしていないし、無言で使役される現地住民との対比は、いつの植民地時代の構図なのかとげんなりしてくる。

 

そしてハンター各人の物言いである。撃つ、仕留める、命を奪うことに対する哲学が一切ない。それが自然界に害がない、むしろ弱者の間引きであり救済であること、地元への経済的利益をもたらすことなど、表層的な自己弁護に終始している。自分たちの欲望と行動を説明する言葉が聞こえないのだ。批判を恐れて内面を語っていないのか、元から深い信念を持ち合わせていないのかは不明だが、どうも何も考えていないだけのような気はする。

これは、例えば私たちが観光地でダイビングや風景の撮影を楽しむ際に、いかなる哲学も信念も持たない(むしろ手放すことが目的である)のと同じ構造が、トロフィー・ハンティングにも内在しているためかもしれない。もしそうなら、地球全体の生命や倫理観、歴史観のバランスからすれば、大いに責任感が欠落していると言わざるを得ない。

 

歴史観と言ったのは、安田氏のテキストにもある通り、結局これは植民地支配、欧米列強による実質的な経済支配でしかないためだ。意識せずとも外形がそうなので、そうとしか見えない。これを否定するための自己弁論は本来、ウルトラ級の難易度のはずだが、知ってか知らずか、回避されている。

 

監督はハンター、ロッジオーナーだけではなく、雇用されている現地人にもカメラを向けている。その撮り方は極めて対比的で、前者にはインタビュー的に言葉を語らせ、現地人のカットでは発話自体がない。ハンティング~記念撮影中に補佐をしたり、無言で死骸を解体する労働のシーンと、狩られた動物らの頭部の列に黙って並ぶシーン、無言で立って肉をむさぼるシーン、そんなところだ。

つまり現地人と動物は同一視されている。経済的に搾取され支配されている現地人と、生殺与奪を握られトロフィーとして持ち帰られる野生動物とが、物言えぬ存在として―植民地主義支配下にあることを示している。

 

本作では直接的にカメラワークやナレーション、BGMで作り手の主観を交えることを避ける代わりに、フレーミングによる意思表示を強烈に効かせていると言えるだろう。そのことがまた写真的である。

 

 

個人的には、救いようのない話ではあるけれども、少なくとも、撃たれた後の動物が最大限活用され、トロフィーであることを超えて、肉がちゃんと人々の口に渡っているらしいことが分かって、それだけでも救いだった。もし奪った命=肉の行き先が無かったなら、どん底に叩き落されていただろう。

 

いい映画だった。いろんなことが分かった。より一層分からなくなったのだが、よく分かった。分からなくなったのは、自分が狩猟に目覚めた時には、間違いなくその構造的な非対称性を活用してサービスを享受するだろう、その時この映画はどう見えるかは想像できない、といったことだ。無論、そんな機会は一生なさそうだが…

 

f:id:MAREOSIEV:20210515093506j:plain

 

f:id:MAREOSIEV:20210515093651j:plain

 

 ( ´ - ` ) 完。