写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生・TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】R2.7/6_高島空太「20XX」@大阪ニコンサロン

【会期】2020.6/30(火)~7/8(水)

 

ブラウンに褪せた色調に統一された大型の作品が並び、精密な絵画の世界に迷い込んだように感じた。だがよく見ると細部を描き出しているのは筆致ではなく、映り込んだもの――映像であった。

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ここではないどこかの風景が描かれている。それは絵画のような質感で、風合いも茶色く、まるで「描かれた」ような写真だ。いわゆる絵画的要素から袂を分った「写真分離派」が歩んだ近代写真の道を逆走し、再び源流へ、絵画の幻想の世界へ舞い戻ったような世界観と技法が特徴的だ。

 

自然と人工物、屹立と平坦、巨視と微視、和と洋、現実と絵画...こうした種々の対立した要素が、1枚の写真の中に縫い合わされている。このことが、ありそうでなかった幻想的な世界を生み出している。

 

本作は全て、作者が撮影した写真を元に、PCのソフト上で合成されて現れた架空の光景である。

つまり壮大な幻想は、いずれも何かしらの「現実」の複製品・記録から出来上がっている。現実のモノや人が、本来それが属していた時間や場所から切り離され、色や風合いも奪われ、ある一つの大きなフォーマットへと集合されていく。ここで「絵画的」と表現したのは、写真・映像が備えているべき「情報」が死の状態にあることに他ならないだろう。「情報」は、ドキュメンタリー性と言い換えてもよい。

よってここには、時間や場所の情報を失った「時間や場所」の「像」だけが残り、それらがパーツとなって多層建てで組み合わされることで、現実離れした巨大な廃墟、神殿、遺跡のような舞台と化していることになる。だがメルヘンに収まらず、何かしら説得力を与えるのは、この舞台に相対する、生身の人物の姿である。人々の横顔や後ろ姿は小さく、建造物の奥行やスケールの大きさを何倍にも高めつつ、現実界とのリンクを強固にする。

幻想みが強まるもう1つの要因は、人工物に絡み付く自然界の要素の強さゆえだろう。建造物を取り巻く樹々の幹や根や葉といった自然界のヴィジョンは、人物のみならず建造物自体を神隠しにしてしまいそうなほどに繁茂している。例えば、建造物を押さえ付けるようにして、巨大な岩肌や樹々の根や幹が荒々しく絡み付き、その中央を真っ直ぐな道が奥へ向かって画面を貫いている。逆に、地下道を思わせるコンクリートの回廊が、照明が煌々と照らして奥へと続いている中、樹々が生い茂り、有機的な膨らみを与えている。歪でコントロール不可能な自然の力と、強力な調律をもたらす人工的な縦横の直線・収束の構図がせめぎ合う。

 

それは言うならば緊張感であり、相反する・本来ありえない世界を架空の現実として、テンション高めに描き出すところは、SFやゲーム、アニメ世界にも通じる。

古典的な絵画、あるいは絵画的なることを目指していた時代の写真と雰囲気は似ていながらも、決定的に異なるのは、種々のパーツの現代的な風合いと、各種パーツの組み合わせを決める現代的なセンスだろう。写っている物体がいかに古風なタッチへ変換されていても、写り込んだ重機や鳥居や廃材の有する質感、ディテールのツヤや生々しさはどこまでも今この現実の世界のものだ。それらを編集ソフト上で出逢わせ、縫い付ける際に発揮されるセレクトや邂逅のセンスもまた、現代を生きる人間の感性抜きには成し得ないことだ。たとえ合成作業に無意識を徹底しても、どこで「キメ」として手を置くか、完成の判断には現代・現在のセンスが強く介入する。人工物と自然とが対比的に絡み合い、しかし緊密なバランスで1枚のヴィジョンの中に縫い合わされている光景は、古典的なだけでなく近未来的とも呼ぶことができ、それは『ラピュタ』など宮崎駿作品や、様々なゲーム内に見られる壮大な創作世界を思わせる。

 

こうした連想は自由で、作者自らが「鑑賞者が百人いれば、百通りの世界を語ってほしい」と推奨している通りだ。しかしこれらのビジョンは、理想的な創作の話なのだろうか。

タイトルからして、本作は4の位のカウンターが1から2へと繰り上がった後の世界、かつて私達が「未来」と呼んでいた西暦2000年代という、世紀末の向こう側に対して抱いていた憧憬が込められていよう。同時に、その「未来」を現に生きて早くも20年目を迎えた末に陥っている、この先行きの見えない日々に対する不安や懸念、何かアンビバレンツな心境を物語っているようでもある。

展示後半になるにつれ、人工物、つまり私達の生きる生存領域が、自然界の圧倒的な力に呑まれ、浸食されているようにも見える。ゲームどころではない、植物や水の力に穿たれ、猛烈に都市が攻め立てられているのではないか。

各作品の下には小さく、一言を書き付けたキャプションが貼られている。私はあえて読まなかったが、言葉を糧に辿ることで視覚とはまた別のヴィジョン、解釈を見ることも可能になるだろう。パーツの出展は現実のモノでありながら、総体としては入り乱れていて、俯瞰して振り返る際の解釈は、その時の理性に委ねられている。言わば、この作品が見せるヴィジョンは「夢」に近い構造なのかも知れない。終盤で突き付けられる情景は厳しく、不吉さを孕む。手に負えない水の流れ、海の波に、都市はシリアスに浸食されている。想起するのは、この日本国内だけを振り返っても、この10年あまりの間に嫌というほど繰り返されてきた、災害の記憶だ。まさにこの土日から、九州の広くを線状降水帯が覆い、降り続けた大雨によって、球磨川が氾濫し、多くの人々の暮らしを、日常を奪った。雨は今も降り止まない。

 

本作はどこまでも夢に似た創作物である。現実のパーツを糧として再編集された、絵画的な世界である。 しかしその夢の細部を辿り始めると、現在置かれている現状に辿り着いてゆくように思われてならない。

 

夢。

フロイトの片目がアジェの眼だったら、こんな景色が見えただろうか。

 

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( ´ - ` ) 完。