nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【ART】R4.1/28~2/13_Study:大阪関西国際芸術祭2022 @船場エクセルビル(4F、5F、6F)

大阪万博2025に向けて、世界最大級アートフェスの開催可能性をさぐるスタディ/展示イベント「Study:大阪関西国際芸術祭」船場エクセルビルの4~7階・残りを一気にレポします。

4階はポーランド作家陣による「記憶」や「繋がり」の作品、5階は日本人作家の紹介、6階は廃オフィス自体が生きた作品となる。

 

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ここに来るまでに結構な密度の世界を経てきたのであった。たいへんやぞ。

 

 

大阪万博はもうこんな感じでええやん( ´ ¬ ` ) 

さて4階の展示は撮影NGのため、公式サイトから様子をご覧ください。


絵画と映像、国外の、しかもポーランド寄りで、シリアスな空気が漂う。エンタメもいいけどこういう「世界と人類史の陰影」みたいなのは個人的に好きです。ディズニーランドが愛される限り、闇もまた求められるのだ。

 

 

1.【4F】木村リア「Leaving 他」

絵画です。撮影不可なので作家個人HPにて紹介します。この油絵シリーズの上の方が展示されていた。

liakimura.com

日本語で検索しても全く情報が出てこない。Webサイトも日本語がない。

絵は2層構造になっていて、奥にぼやけた肖像があり、手前は「手」で掻いた跡がベタベタと残されている。

肖像はレンズのピントを目一杯ボケさせたように「遠い」。遠近の距離というより絶対的なガラスに阻まれたように「私」とは隔絶されていて、すぐ隣にありながら像の全容を知ることも、触れることもできない。近くて遠いのだ。作者はすぐ向こうにいる像に向かって、触れようとしたり近付こうとしたりする。辿り着けなさが「絵」となって残る。

 

作品解説ページに「日本とポーランドという二つの祖国を持ち、ワルシャワをベースに活躍する木村にとって、ルーツをなす二つの文化を行き来しつつ、そのアイデンティティーを確認する作業はより切実なもの」とあるように、「私」というものの同定のし難さが作品となっている。プロフィールも「日本生まれのポーランド人画家、ファッションデザイナー」とあり、その名前から鑑賞者の側もアイデンティティーの同定に戸惑う。

 

同じく作者個人HPより、展示作品を制作する様子の動画が見られる。

liakimura.com

 

想像以上にスピーディーかつ「描く」目的を帯びた手の動きだった。熟達者の「描く」動きには踊りのような力が帯びていて、個人的ルーツの事情といったアイデンティティーの話で捉えてよいものか悩む。別の読み方は何か可能だろうか?

 

作者HPでは、最近の作品は上述の通り、レンズのボケのような肖像の「遠さ」と、それへの辿り着けなさの関係性を表しているが、過去に下るにつれ作風は異なっている。肖像は単体で登場し、輪郭や表面の質感がかなり明確になる。モヤや阻害物がない。その代わりいずれも顔面や首から下、口元など、どこかが溶けて流れ出したり気化している。

確かな骨格と肉質を持ちながら、重要な部分が隠れたり消えたりしていて、闇や白を背に、肖像らは人物と亡霊の間の状態で佇んでいる。具体的な誰かをモチーフに描いたとは思えない。作者自身とも言い難い。

これらを、作者の記憶や印象の中に「いる」人物や、「絵画」という集合的な記憶の中に「いる」人物像だと想定してみる。個人の具体的な記憶と忘却についてではなく、誰の所有でもない「誰か」となった人物像・・・例えば作者がこれまでテレビや街中で見てきた人物、一般人から著名人、絵を観たり描いたりしてきた中で出会っていったモチーフの数々などが、作者自身のアイデンティティーの不在・揺れと共振して、そこに定まらない「誰か」を現出させているのではないか。つまり「不在」という人物画である。

 

 

2.【4F】リリアナ・ゼイツ(ピスコルスカ)「強き姉妹たちは兄弟に語った」

作者は1988年生まれのポーランド出身で、フェミニストクィアの視点から、また、ポーランドという歴史的・地理的なポジションも踏まえて、映像、写真、オブジェ、パフォーマンスなどかなり多彩な表現を発表している。作者個人HPで作品をざっと見ても、我々がステレオタイプで思いつく「フェミニスト」などとはかなり異なることが分かる。

lilianapiskorska.com

作品タイトルからしても相当面白い。これはちゃんと日本語訳のできる人の手でしっかり紹介してほしい作家。

 

展示されていたのは動画1本。あまり見ずに飛ばしてしまった。

レズビアンやクイアの声明文が抜粋され、自然の映像に合わせて読み上げられている。「家父長制による抑圧がどのように続いてきたのかを明らかにしつつ、私たちにアイデンティティの再考を促し、他者への思いやりや連帯を呼び掛ける。」という。そういう内容だったんすか・・・。

 


YouTubeには冒頭の英語字幕のみのバージョンがあった。イントロダクションのため全体は不明。ちゃんと観れてなくてすんません。へえ。

 

 

3.【4F】ヨアンナ・ライコフスカ「昆虫の前衛」

動画作品で、英語のナレーションとミツバチの羽音が響く。土と木くずが散り積もった廃家屋の中、無人で、ボロボロに荒れた床と家具と写真・絵画が掲げられた諸室を、ミツバチが飛び、もがき、交尾している。交尾多いぞ。

 

ミツバチが屑に塗れながら交尾し、飛び交い、現代美術が語られ、人間はとうに絶滅しているようである。解説によると、新型コロナ・パンデミック渦中に作られた作品で、朗読は蜂に宛てた手紙だという。

マルセル・デュシャン/ローズ・セラヴィやロバート・スミッソン、ルイーズ・ブルジョワ、カタジナ・コブロ、マックス・エルンスト、等の名前が引用され、関連する作品が登場し、便器と《泉》の写真が並置されたりする。会場の動画は日本語字幕があったが、YouTubeでは英語を解する必要がある。

 

蜂は2つの複眼と3つの単眼を持つからよく見えるだろう、と語り、最後は、不穏で威嚇するようなエロティシズムに満ちた絵画、想像力の狂気が終わらないように思えた1930年代。その直後、ひどい戦争が起き、ナチスの世が来る――ファッキン・ホーネットが。と締め括る。

英語は苦手なので間違っていると思うが、そういう感じで、現代美術と「現代」を振り返りつつ、人類の文明の終着点をナチス台頭のあたりに置いている点が、ポーランドの作家ならではだと実感した。交尾は、極限状態の営みだ。

 

 

4.【4F】ミロスワフ・バウカ「AAA+発煙信号」「アウディ HBE F145」「底」

4F出展者の中でも日本語Webサイトの検索結果が比較的多くて、まだ情報がある作家。他の作家は日本語情報が少ない、あるいは皆無。

映像作品が3点。真っ暗な部屋の中に、黒づくめのスーツ軍団が高級車アウディを取り囲んで歩く、カクカクした映像が流れている。部屋も画面内の登場人物らも真っ黒だ。

 

作品《アウディ HBE F145》

タランティーノ映画じゃないすよ。すごい威圧感と緊張感がある。静止画がコマ送りで無音で流れ、非常に不穏さが漂う。

この作品は、ローマ法王ベネディクト16世アウシュビッツ強制収容所訪問を報じるテレビ放送を、モニタ越しに撮影した写真20枚をスライドショーにしたものだという。収容所の古い建物を塗って進んでいく黒い一行はかなり異様で、黒いアウディには法王が乗っているが、車は守られているのか、侵攻しているのか分からない。

アウディはドイツ車である。ローマ法王ナチス時代にはユダヤ人迫害を黙認した。車を取り巻く黒スーツたちは警察を思わせる。様々な意味が交錯して不穏さを増幅させている。

 

ミロスワフ・バウカの作品は、実は国内ではちょこちょこ紹介されている。近いところでは2018年の森美術館「カタストロフと美術のちから展」で登場した《石鹸の通路》国立国際美術館では2000年に企画展「食間に」が催されたほか、《φ51x4, 85x43x49》《球を持つ少年》の2作が収蔵されていて、コレクション展で目にする機会がある。《φ51x4, 85x43x49》は紐で宙に浮いた椅子と、手首・足首を通すため輪っかと穴があり、見るからに拘束や囚人、自由の剥奪を想像させる。タイトル名はそれぞれの円の直径だ。

blog.goo.ne.jp

アウシュビッツユダヤ人虐殺と非常に通じるものがある。

 

同時に展開されている《AAA+発煙信号》は、真っ白な煙の画面で点滅している。発煙信号で『AAA、二匹の子猫ちゃん』という子守唄を再現しようとしているらしい。

《底》ナチス強制収容所のシャワー室(毒ガス室を歩きながら撮った映像を、会場の床に投影している。床なのか階段か分からなかったが、天井とシャワーが映っていた。逆さから見たせいで天地がめちゃくちゃだったが、それが逆に不気味だった。足音が真っ暗な会場に響き、ざらついた不穏さが増幅される。

 

 

5.【5F】河野愛「<I>boat

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暗い部屋にボートと照明器具、そして黄色の光を放っている。照明器具と言ってもミニマルアートではない。黄色の光が;ボートと背後、床を満たし、そこにない水の代わりにボートを浮かばせる。あの世だろうか。

 

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自由に連想・解釈するなら、彼岸からやって来たものに見える。お盆に先祖が乗ってやってきたような光景だ。シンプルだがミニマルではない、情報がある、光が黄色いためではないか。夕日や朝焼けの太陽よりもっと無機質な、砂漠の世界、つまり黄泉の国というか、そこから来たものという印象が強い。ボートが哀愁めいたものをもたらすせいだろうか。

 

タイトルの「<Ⅰ>」は、このネオンの形状に由来するらしい。2021年11月に催された「紀南アートウィーク」では同シリーズの別バージョンが展示されたらしく、公式サイトで詳細な由来が紹介されている。このネオンは作者の祖父が創業した白浜の老舗旅館の看板だったのだ。

このイベント行ってない、、、見逃してしまった。。

 

作者個人HPから作品アーカイブを参照できる。写真やデミジョンボトル、ガラス、羽、布などの素材を使い、像・モチーフの反射や透過、風や空気との同化や重なり・・・現実のオブジェというより何か「記憶」の像を見るような思いがする。

aikawano.com

 

解説では、作者の幼き頃のプライベートな空間の記憶と、旅する人たちが行き交うパブリックな場所としての記憶が混じり合いつつ、設置場所が変わるとともにまた新しい物語を生み出していく、としている。ネオンの由来を知った後では、非常に納得がいくため、「記憶」という強力なストーリーに巻き込まれていく。自分の発想力を試したい場合は、解説を読まずにじっと対峙するのもいいかもしれない。

 

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本作は個人のプライバシーな記憶として、生まれ育った土地、家族らの繋がり、此岸と彼岸の交わるところを現わした。

4階の作家らを振り替えると、同じ「記憶」や「繋がり」でも、国家や国民が共有した歴史的な記憶、負の記憶、個人を支えるアイデンティティーとの繋がりなど、日本人とはまた違った世界観を有していたことに気付く。

 

 

5.【7Fセットバック】河野愛「<I>」

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船場エクセルビル」7階を外から見上げると、同じ黄色い光のネオン作品が立っている。明るい時間帯に会場に来ると全く気付かないが、一通り観て出る頃には、明かりが目につき、作品の意味も了解できているので、受け容れることが出来るようになっている。

<Ⅰ>のネオンの由来を思うと、かつて閉鎖した作者の祖父母の旅館と、今こうして取り壊される運命にあるエクセルビルは、重なって見えたりもする。 

 

 

6.【5F】林勇気「overlap」

大量の写真を取り込んでコンピューター上で動かす、フォトアニメーション作品でお馴染みの作者。10年前の作品《overlap》を3つの液晶画面と画面外への投影で展開している。

アニメーションはこちら側・現実世界と向こう側・映像世界とが進行しながら水平に交錯していく。だまし絵的な面白さがスリリングで、脳が判別するより先に動画が進行し続けていくので、コミカルな中で謎の中に叩き込まれる。

 

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作品は3重構造になっている。現実の物理世界・物体、写真を切り抜いて物理現実に置いたもの、写真画像をPCに取り込んで映像内で動かしたもの、から構成される。

例えば上の動画だと、パソコンやコップなど卓上のものは①物理的なモノで、作者が指でつまんで置いていく家屋の写真は②、そして画面横から歩いて来て葉っぱを動かしたり屋根の上に乗ったり飛んだりする人物画像などは③にあたる。

 

これらの交錯が淡々と続く。

近年の林作品ではもっとデジタルデータと写真の領域が溶けていたり、観客が画面を「見る」に留まらない参加型の体験をしたり、映像と「記憶」そのものへアプローチするものだったりするが、過去作品ではこのような、写真を取り込んでカクカクと動かすアニメーションの作風が特徴的だった。物凄い労力が掛かっているらしいことも何となく伝わる。

 

写真と動画の関係、映像と現実・物理世界の関係入れ子になっているが、それらが水平的に混ざるので、どれがどのレイヤーの世界に属しているのかが分からなくなる(意味を失いさえする)、その点が逆にリアルだ。

言うまでもなく私達の日常生活では、外界そのものより手元のスマホの液晶画面が主となっていて、現実=視覚は液晶越しであり、液晶の中にある。平面上での映像情報の組み合わせや並びがリアルを形成していると言ってよい。

また「写真」の立ち位置もこの10年で(スマホの歴史とともに!)大きく変化した。写真は独立したメディアというより、液晶画面・映像を構成する一要素、あるいは動画から切り出される一つの面(スクショ、サムネイル画像)となった。動画やWeb画面においては、写真は複合的な建物の中でのいち側面や看板のようなものと化している。

本作を見ていると「写真」の現在形の立ち位置が予見、象徴されていると実感するところだ。画像データとして選択範囲ごとに切り出され、素材として指先で前後左右に配置でき、置き場所の変更も可能なところはまさに。人の手が液晶画面内に入っていくところも含めて。

 

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そのため本作は「動画映像」と「写真」の両方の性質を重ね合わせているように、いや、両方の文法を包み込んで代わる代わる提示しているように思われる。コミカルで小さい子供も喜びそうなタッチなのだが、やっていることはかなりラディカルに、二つの大きな映像メディア表現の互換性と独自性の話題を扱っている

 

プロジェクター投影によって画面外・会場の壁面を動く小人たちの像は、逆転して、Webの「液晶画面」的な視界が私達の外部環境に及んでいくことを示唆しているのだろうか。

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めっちゃ働いてますよ。

どの映像でも小人さんがすごい働く。画像データを押したり運んだりしている。これは静止画、画像データ(写真)が「動画」になるために必要な「運動」量を与えている。小人は作者自身であり画像処理エンジンなど様々なプログラムだが、もっと根本的な、「平面上の一部に移動を加えれば動画になる」という法則、原理なのだ。こうしたメタな話題をエンタメ風に仕上げているところが、流石だ。

 

 

7.【6F】正直(小林椋+時里充)「オフィスミュージック」

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オフィスが撤退した後の廃フロアはがらんとしながら、無機質な静かさと賑やかさがあった。モニタと謎のフィットネス器具のようなマシーンが人間の滅んだ後のフロアで、主体とも客体ともつかない立場で動いている。人間を待っているのではない。自分達で勝手に動いている。

モニタにはオフィスチェアが写っているが、定期的にクッションが落ちてきて珍妙な音を立てる。それはまた垂直に上っていき、しばらくするとまた落ちてくる。それが無限に続く。フィットネス器具のような物体はアームの先の円盤など一部だけがぐるぐると動き続けている。

そうしたオブジェと運動と音のハーモニー、というのか、ただただ乱雑に広がっているだけと見るべきなのか、いやでもなんかずっと鳴ってますよ浮遊感のある音が、この啼き声?演奏?BGM?空気?は何だ?意図か不意か?などと。

 

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自動化・無人化された「仕事」や「オフィス」を戯画化し、さらにタイトルのように(オフィスミュージック)音楽の場として稼働させて、徒労とも無尽蔵とも付かない場を広げているのだが、

 

これ音がないとな、

 

では動画で見てみましょう。このささやかな動き、珍奇なオートマチックさは動画でないと分からない。広いフロアの何処からか、絶えず自動運転の音がする。



もういっちょ。

しょうもないものがビクンビクン、バタッ・バタッと動いては音が立つ。生きているとも言い難い、だが死んだ部屋でないことは確かだ。社員が居なくても成り立つとしたらそれこそ現在目下推奨中のDX(デジタルトランスフォーメーション)だ。



須田悦弘の現したひそやかな自然と人工の感性が触れ合う領域、それを「オフィス」や「仕事」という現代人の「自然」において実装するとこうなるのかも知れない。オフィスでは人間の手で行うことが「人工」で、OA機器やPC、サーバー、マクロ演算が自動的に処理するものが「自然」であろう。本作はその領域の境をうまく突いている気がする。

解説では新型コロナ禍で新たな日常となったリモートワークと空きオフィスの話題に触れられていたが、なるほど、労働環境の現在形で照らし合わせていくのもしっくりくる。するとオフィスと労働者との関係で言うと、オフィス空間とマシンの稼働だけがあって、そこに人間の映像、あるいは人間の気配は仮想化されてセットされるなど、VR化されるのは人間の方、という場もあり得るのかもしれない。どうかな。

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駆け足で?「Study:大阪関西国際芸術祭」を見てきた。面白かった、というか何でも「面白く」受け止めて読み解くので面白いことになるのだが、ぜひまあ大阪万博本体もこういう風に、しっかり現代アートというか、珍奇なことを仕掛けていただきたいと願う。

 

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外から見ても釜ヶ崎芸術大学の異様なハレの気配が煮えたっている。密度がはんぱない。こうありたいですね。祭りとは何か。発生するんですよ。春は来るんです。はい。

 

 

( ´ - ` ) 完。