nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【写真展】R4.2/11~2/27 佐伯慎亮「AWAJIMAN」@POL

アワジマン、つまり「淡路人」である。本作は、一家が淡路島に移り住んでからの3年間を写したもので、妻、3人の子供、愛犬の6人家族が自然溢れる新天地で繰り広げる、唯一無二の日々が写っている。

 

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【会期】R4.2/11~2/27(当初2/23までだったが、延長された)

 

 

広くはないイベントスペースの壁面が写真だらけだった。1階はカレー屋、その2階で、フロアの半分は本などのショップ、もう半分を展示会場としていた。鑑賞者が3~4人もいればお互い譲りながらで、自分の目線の作品しか見えないので、しゃがんだりしながら観ていくことになる。

壁面の密度が高いだけでなく、1枚ずつの写真の中身も密度が高く、鑑賞には予想外に時間がかかった。

 

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佐伯慎亮という写真家の来歴や、写真集『挨拶』、『リバーサイド』(ともに赤々舎。2009年、2017年)あたりのことについては、咲くやこの花インタビュー」記事(2018年6月)に詳しい。

 

観に行くに当たって展示情報を検索すると、紹介記事タイトルで『淡路島で家族と過ごした3年間をとらえた写真群』(「IMA」オンライン)などと出てくる。それを見てしまうと、家族の写真、家族との日常の写真、という定型のジャンル分けに囚われてしまい、私の苦手分野だ …と身構えてしまったが、予想と全く違う作品だった。

 

本作の写真群は一般的に想定されうる「日常」や「生活」の領域に収まるものではない。都市生活でのそれらとの距離感だけの問題ではなさそうだ。

 

私が注目したポイントを3点挙げてみたい。

1.生命感の躍動――歌

2.子供というもう一つのレンズ

3.ほのかな生滅変化の景色――前2作への再帰性

 

 

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1.生命感の躍動――歌

見ての通りだが写真は基本的に「元気」が漲っている。家族らが全員パワフルな上に、淡路島の温暖にして穏やかな気候が、陽の気を行き渡らせている。夏などは雑草も異常に元気で、刈っても乾かしている間に次の葉が生えてくるという。作者の心理や内面に深く耽溺する暇を与えない。

また隣人、出会う人たちも元気というか存在感のパワーがあり、只者ではない感じが漂っている。地方に移り住んだと聞くと隠遁的な田舎暮らしを想像するが、写真のアクティブさはバンド活動の行脚が続いているようにすら感じる。

 

子どもらが被写体として元気よく弾けている、というだけに留まらない。海の波も、太陽の光も、空も、小動物も大動物らも元気がある。死んでいるものもしばしば写されているが負や陰のニュアンスがなく、ただあるがままにある。生と死は同じ地上という土台の上にあり、地上は生のエネルギーで、光と形の呼応によって輪転している。

 

こうした陽の情景が主となるのは、作者の資質と言うほかないのだろう。自然が多くて気候と陽光に恵まれていても、内に引きこもる人は引きこもるものだ(私のように…)。

だがそれ以上に、妻:佐伯真有美(バンド「あふりらんぽ」の「オニ」)の影響というか、存在自体が看過できないと思う。これは2/22(火)のインスタライブで思い知った。ライブは本当に文字通りのライブであった。写真展の説明はそこそこに、佐伯真有美が音楽をかき鳴らし、ZINEに合わせて歌い出し、当初は書き付けた歌詞を歌い上げていたのが、即興が文字を上回り、場を詞とし、歌声と言葉が往還し、家族を含めて周りにあるもの全てを楽器のように歌わせ、佐伯慎亮は法螺貝を吹き、力技で場が歌へと変えられていった。

手練の幼稚園の先生に率いられて、知らない間に皆が必死で歌ったり鳴り物を叩き鳴らしていた、そんな感じで、存在するものは全て歌(うもの)であると、実証するかのような小一時間だった。

 

つまり佐伯慎亮の写真はそうして、全ての光景が楽器や歌のようにバイブスを以って撮られていると捉えるのが自然である。佐伯慎亮自身も、2001年の写真新世紀・優秀賞受賞からしばらくの間、写真家を離れてバンド活動アウトドアホームレスでボーカルを務めていたなど、音楽との親和性が高い。

 

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2.子供というもう一つのレンズ

本作が家族、特に子供を撮りながら家族写真、我が子の成長礼賛に陥っていない点は興味深い。もしそうであれば私はさぶいぼが立って会場にいられなかっただろう。自然の中での子供らの成長というには、子供らはそれぞれの風景に溶け込んでいるし、背後・横からのシルエットが多い。

等価性というと分かりやすい。淡路島の自然、動植物、隣人らと子供らとは等価な存在であり、それらが相乗効果として生命力を発しているとも言える。

だが、子供らはカメラ(撮影者)に干からびたカエルの死骸やヘビの幼生、ミズクラゲ、根に土のついた草など、一見よくわからない何かを生きた「かたち」としてしばしば提示する。そうしたカットが多い。また、大人のアイレベルでは撮れない位置の石や死骸もある。

 

子供らは淡路島の自然と水平である以上に、大人の撮影者では拾えないフレームをもたらす存在として働いている。本作では実際のカメラ・レンズに加えてもう一つ、子供らが第2のレンズとなって外界を捉えていると考えると納得がいく。生命力を撮りながら自然礼賛でもなく、子供・家族礼賛でもない、絶妙な「あいだ」の光やかたちを捉えている。子供らを通じて拓かれる新たな視座――第1に作者本人の眼、第2にカメラ、第3に子供らの生とすると、まさしく第3の眼ということになる。

東京の展示でDMに使われた、車の青いフロントガラスと、その上に乗った幼児の背中と尻がへばりついているカットは、まさに本作の視座・視界が子供と重複している、二重・三重の写真世界であることを表していると思う。

 

被写体・シーン、淡路島という舞台との独特な距離感は、こうした3つの眼が働いているように思う。これが何を表すかというと、淡路島という新天地を家族が身体化し、血肉化していくことを撮っている。つまり家族が、特にフレッシュな子供たちが、全身を用いて新たな「地元」を獲得する様子が撮られているのだと解する。

 

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3.ほのかな生滅変化の景色――前2作への再帰性

では、淡路島のエネルギーが満ち溢れていました、子供も妻も元気でした、めでたしめでたし、という作品かというと、全く違う。そうだったら私はさぶいぼが出て会場にいられなかった。今作をまとめたZINEだけでなく、後追いで前作『リバーサイド』を買った(『挨拶』は持っていたが、ほとんど読んでいなかった。。)のは、前作からの流れが確かにあり、また、本作を読むことで前作の世界観へと再帰するものがあったためだ。

 

前2作を紹介する記事を幾つかザッと見ただけでも「無常観」「流転」「生と死」というキーワードが並ぶ。紋切型の定番の評だなと思ってしまうところだが、写真集をめくってみると確かにその通りとしか言いようのない、生きているもの、この世を去っていくもの、去った後の者たちが行ったであろう場所の名残や存在感、そして新たな生命の兆しなどが濃密に込められている。この生と滅とが水平に連続するありようは「無常観」としか言いようがない。

 

 

本作『AWAJIMAN』では前述のとおり「元気」な「生」が横溢し、新天地を新たに地元化していく躍動がある。が、佐伯作品が面白いのはそこに必ず「滅び」を取り込んでいることだ。淡々と同じ目線でそれらは語られる。

象徴的なのが、鹿の首と、それを軽トラの荷台に載せて運ぶカットだ。生と死の循環を語るようでもある。だが循環の話というより、生と滅とが同時水平的に起きている状況がある。そのことを鹿のカット以上に物語っているのが、足先のカットだと思う。

 

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剥がれかけた真っ赤なマニキュア、その親指の爪に蠅が止まっている。露出のせいか足は血の気が引いたように白い。生きているがさっき死んだような奇妙な色味と質感、これは生者にして死者、「滅」の併存する世界観を象徴しているものだと思った。

 

こうしたカットの存在はメインではないが、前2作の「無常観」再帰するためのフック、リンクとして作動する。改めて過去作で展開されていた生と滅の濃密な世界に触れたいと感じた。

 

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無造作に、ノーフレームで張り出された写真が上下左右、対する壁面で相互に響く展示様式は、ヴォルフガング・ティルマンスの音楽的な手法を日本のライブハウスに転換させたようなアットホーム感がある。作者自身がティルマンスの『Burg』に衝撃を受けたと語っているとおり、両者には強い関係がある。機会があればこうしたスナップの系譜との関連とも考えてみたいところだ。

 

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( ´ - ` ) 完。