nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【学生】R5.2/4~12_2022年度 京都芸術大学卒業制作展・大学院修了展①(染織テキスタイル、総合造形)

京都芸術大学の修了展です。まず染織と総合造形から。

「染織テキスタイルコース」は織物・染め物を用いた造形芸術という感。

「総合造形コース」は、分類が難しいが、「彫刻」でもない。モノに寄ってもいいし映像でもいい、何でも可という感じ。

(  ╹◡╹)

【会期】R5.2/4~12

 

 

 

「京都芸術大学(旧:京都造形芸術大学)の卒展・修了展に行き、写真・映像コースを見て帰ろうと思ったら、他のジャンルも面白かったのでめっちゃ回ってしまったのであった。おかげさまで1/3ほどしか見てないのに時間切れです。あかん全然足らん。。

 

本稿では「美術工芸学科」の「染織テキスタイルコース」「総合造形コース」より、気になった作品をレポします。

 

(参考)ほか。

 

www.hyperneko.com

 

 

◆染織テキスタイルコース

「どうせ服とか布とか暖簾でしょ」「針こわいねんなあ」(※筆者は先端恐怖症のため縫物をおそれてゐます)と完全になめて歩いてたらだいぶ違って、簡単に括れない作品が次々に出てくる。あれっ。

1ミリも知らない分野なのに面白かった。他のコースにも言えることだが、素材や技法の出発点が「油画」や「日本画」「染織」であるだけで、成果物はかなり領域を横断している。

入口に掲示された仁尾敬二教授のテキストで「コロナ禍により授業の一部をオンラインで行った影響で、時間・空間の使い方や技法の簡素化により、イメージ通りの作品作りをコントロールできないことのジレンマを抱えた学生が多かったように思う」「卒業審査で色々不足・未完成が出るのではと不安だらけだった」と書かれていて、これは教える方も非常に大変な期間だったのだなと思いました。たいへんや。

とにかく新型コロナの扱いが沈静化し、展示がオープンに開けたことは喜ばしいです。

 

 

◇菱木すず菜《record in textile》

多彩な服、布が繋ぎ止められた大きな門のような形をしている。個々の衣服や袋などは平らな1枚の布へ還元されていて、役割を失った状態で連結され、群体のように個であり全体でもある。裏・表もなく、全てが大きな1枚の「表」となっている。

目を引いたのはサイズの大きさや継ぎ接ぎの妙味だけでなく、布地に散りばめられたQRコードと文字である。反テキスタイルとも言うべき要素が堂々と混入している。また、各パーツには小さく番号が振られている。

QRは作者のInstagramにリンクしており、各パーツに振られたNo.と対応した写真の投稿から作者のメモ書きを読むことができる。作品の解説というより、各部分を作った時の気持ち、着想が、日記未満の短文で書きつけられている。これは失われゆくものの記録なのだ。ステートメントの「一瞬で過ぎ去ってしまう日々の忘れ難い断片を言葉とテキスタイルで可視化していく」の意味を実感する。

 

「Tinder」「低気圧」「オモロ」「ドイツ対日本 1-2」、日々の五感に触れるもの、出来事などを「縫う」ことで統合していた。布というしっかりしたモノを扱っているのに、スナップ写真のコラージュのように、日々の刹那的な断片を語っていることが、織物でありながら写真的だったので惹かれたのだと思う。

 

 

◇趙彬(Zhao Bin)《Stigma》

「うわあこれ痛痒いなあイタタ」「なんなんこれ皮膚はがした腕みたいな質感やなイタタ」と痛覚を刺激された。(※筆者は視覚から痛みを連想しすぎる傾向があります) あたたたたリスカ痕いたいいたい、 

ステートメントはまさにそういう趣旨で、アトピー性皮膚炎にかかった際の体と精神的な苦痛を元に、患者の内にある「病と恥」の感覚を外部へ晒し、自分を受け容れようとする作品であった。

ポップな丸みと柔らかさを以って作られているが、皮膚疾患や伝染病、火傷の症例写真のようにリアリティがあり、これは作者の観察眼と表現技術が優れていることの証左だが、見ていて痛いのであまり長居できなかった。いたたたた。自己表現の域を超えていて、医療用の教材、症例のモデルとして見るとよく出来ており、心象に留まらない描写が良かった。ぃたた(><)

 

 

◇渡邉天音《いつでも戻っておいで》

大学までアートに関わってきた自分へ「お疲れ様」と送り出す作品で、「制作中に感じた感情を色と素材で表現しました」と、意外なまでにあっさりした動機が綴られていた。

色と形が複雑に混ざり合い、特に「色」が前に強く出ていることから、私は「絵画」の筆致と色を立体的に手で再構築した世界のように感じた。特に右端の緑色の作品が、印象派の様々な絵画、ミレーの「オフィーリア」の川辺やセザンヌの睡蓮の沼などを強く連想させた。本作の色の中にある織りの動きが、記憶の中の絵画にある動きと連動したのだ。

この表現力が他の領域へ強くアクセスしリンクすると面白いものになると思った。様々な展開があり得ると思う。

 

 

◇小野花織《washing》

確かに素材や行為は「染織」でありながら、それは彫刻だった。入浴時の「洗う」ポーズ、体の動きを織物によって形にしている。これらは着ることが出来ない織物である。日々、入浴で身体を洗っている身体の表面を「私」たちの布・衣服として取り出し、再構築した作品だ。日常離れしているし、裸や肉のエロスでもない、だが服飾でもない。洗うという身体の動きと自重のかかり方が、不思議な生々しさを催させる。

後ろ姿、屈んだ姿に回り込む、身体の無防備へとこちらから接近できるところが生々しさの出どころなのだろうか。

人間の造形自体を大きな衣服と捉え直すと世界はどう見えるだろうか。

 

 

 

◇加藤陽香《植物の生命力》

さっと見て、古典的な/よくある暖簾やタペストリーの作品なら、他の尖った作品を優先しようと思い、通り過ぎようとしたのだが、「いやまて、」と踵を返し、改めて見てみた。するとこの描画は他の人、特に機械や年をとった人が真似できるものではないと感じた。緊張感とリズムがあり、密度の高さに見惚れた。まさに「生命力」である。

この仕事は高い集中力と体力を要するように感じた。植物の形と線が重なりながらぎっちりと詰まっている。若さのエネルギーもさることながら、他に様々な力を感じた。それは特権的なもので、真似できない領域のものだと思う。

 

 

 

◇高山怜奈《わずかな主張》

一枚の布だったものを、洗濯機で回しまくってずたずたに解した残骸のような、逆に完成された平らな布ではない何かになろうとしているような姿形である。ずたずたの残骸というだけであれば通り過ぎていた。開いた穴や糸の垂れ下がり、両脇の広がりに、創作物としての何かを感じた。

解説によれば、布を裂いては縫い合わせる作業を繰り返して作られた作品だという。細部に目を移すと、張り巡らされた糸に細かく裂かれた布地が巻き付いている。布というよりほぼ繊維に近く、和紙のように透けていて、糸の方がはっきり見えている。細く裂かれた布の断面からは更に細かい糸がまろび出ている。遺伝子ならぬ遺伝糸を設計図として生み出されていく組織のように、しかし完成形のない靄のように、それは浮かんでいる。

 

 

◆総合造形コース

他のコースは建物・階ごとにまとまって展開されていたが、「総合造形コース」は4つの棟・館に分かれ、更に幾つかの部屋に分散していた。今回、「人間棟C館」と「未来館」の2つの建物しか回れなかったので、半分以上を観れていないのが残念である。他に写真や映像に関する作品があって見逃していたらと思うと少々怖い。

 

 

 

◇小坂美鈴《聖域》

リフレクターを組んで作られた一枚の大きな布が、床に立っている。ものとしてはシンプルな作品だが、節足動物や機械が這うようなポーズをしているのが端的に心に刺さった。私はメタリックな生物感に弱いのだ。自律して彷徨う四本足のメカ・・・。

だが跳ね返す・守る・保温するといったリフレクター機能に従えば、これはうずくまったり手足を地に付いて身を伏せる主体の、自己を保護するポーズそのものでもある。しかし攻める・挑むのではなく身を守ることを選んだあたり、若い世代の敏感な感性・意識がそこに向かっていることはかなり注意すべきことかもしれない。

 

 

◇紫垣淳史《ゴシック式甲冑》

私が見た展示物の中で、最もストレートに、愚直に真っすぐに、力強く正拳突きを繰り出していたのがこの作品である。

「ゴシック式甲冑は当時大量生産されたが、後世にほとんど残ることは無く、これらは次の時代で大量生産された銃やルネサンス式甲冑の材料としてスクラップにされた。」と、歴史の転換の中で埋もれてしまったフォルム、技術を再考しているのが面白いし、まず「甲冑」に時代の変遷があって、新旧交代で材料へと消えたことなど知らなかった。このへんはコスプレや漫画を手掛けているクリエイター諸氏の方が遥かに詳しいと思うが、なんせ知らなかった。

古典技術・製品を再考すれば偉い・評価の対象とすべき、とたちまちに言うわけではないが、この甲冑には「古典を今に立ち現すことには意味がある」と思わせる存在感があったのだ。フィクションが現実へと繋がってくるような。

 

 

◇陳喬磊(Chen Qiaolei)《盛夏》

甲冑の隣に繁っていたサトウキビとトウモロコシのあいの子のような作物(金属)、こちらも甲冑と同様に実直に力強かったので素通りできなかった。葉の厚みと鈍い色・光にとにかく真夏の力があった。私は真夏の生まれなので、夏の気配に本能的な猛烈なシンパシーを覚えるのである。

この植物は「芦菜」、サトウモロコシといい、都会では見当たらず田舎で農家が育てているもので、作者の郷愁、幸せの念とともにある思い出を伴っている。

 

 

◇坂倉直慧《変身》

見事である。2種類のヘルメットを自作しただけでなく、それを被って京都・四条河原町の街中、阪急電車の駅構内などへと出向いて映像を撮っている。作者が大学2回生の頃に新型コロナ禍が発生し、人と接する機会を失くして自閉してしまった生活から、時間が経つことで少しは外へ出て行けるようになった、その変化を作品にしているという。大昔の潜水服のようなヘルメットは外界と自己を遮断し、自閉したまま「外」を歩いていることを表しているようだ。

確かに、マスクのように顔面を覆うものと、新型コロナ:感染/防疫、自粛のニュアンスは最もトレンディな組み合わせだが、その連想が及ばなかったぐらい本作のヘルメットはブ厚くてレトロである。コロナと直接的に結び付かないヘルメットというのも珍しい。

実在の人間にしては誇張しすぎなヘルメットで公共の場をうろつく本作は、リアルの都市空間を作者の世界へとひっくり返す逆アバターのごとき作用があった。ある意味でテロリストなのだ。そこに惹かれた。

 

 

◇劉承恩(Liu Chen An)《建築の域を超え、自然の延長線にある校舎》

神器の五十鈴が巨大化した、宇宙船が飛来した、キノコか何か菌類の怪獣が現れた、などと様々な想像を催させる造形、これは作者が提案する京都芸術大学のキャンパスである。

この50年間で、大学敷地のあたりでは都市化・宅地造成によって山・森林が侵食されており、都市・住宅と自然とが視覚的にも分断されていることを作者は問題視する。その解決として、キャンパスの建物と自然とを接続するよう、利用者数や容積とともに風の流れや日照なども考慮し、このデザインを作成したという。

映像の前半はそうした問題提起とデザインに考慮すべき点などがプレゼンされるのだが、まさかこんな古代文明の大型母艦みたいなキャンパスが出てくるとは思わなかったので、あわてて撮影して記録した。建築学科や空間・環境デザイン科などではここまで大胆な提案は出せないであろう。故・ザハでもここまでやれない。なんせ山の斜面に作られて坂だらけのキャンパスが真っ平の地面に乗っていて、地形が全く違う。

だがそれでも良い。今度の大阪万博のように平らな場所でこういう気合いの入った建物が出現したら面白いと思った。

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はい。面白かったですね。学生さんが限られた時間と予算と経験でよくまあこういう面白いものを作るものだと唸っていました。うなるわこれ。どうなってんの。あれかな、領域を横断しながら形にまとめさせる教え方が良いのかな。なんせ表現は総合知がいりますね。あったと思います。

 

いやもう、、、全部回るの無理です(白目)。10時に行って2館回って14時過ぎだったんやけど(白目)。その場でのTwitter投稿や展示メモ取るとかほとんどしてなくて、作品の撮影のみで時間全く足りないんやが(白目)。

 

( ´ - ` ) つづく。