( ´ -`) 毎年恒例、「写真表現大学」「Eスクール」2019年度・修了制作展のお時間です。会期は7/7(火)~7/12(日)です。京都三条・四条で遊ぶついでに、お立ち寄りあそばせ。連日雨ですけど。雨ですけど。
ザアー。
<会場>同時代ギャラリー
こないだの土曜日、搬入棒を振り回して設営したと思ったら、もう週末が来ました。速い。速すぎる。会期、僅か1週間足らずの命。儚いなあと思います。かげろう。せみ。写真展。人生は儚い。かんたんのゆめ。嗚呼。
(参考)こないだ搬入した時の話。
というわけで、毎度恒例の作品読解のお時間です。
全員分をレビューするのは時間経済上、不可能なので、個人的な関心から絞って取り上げたいと思います。優劣ではなく個人的なあれです。趣味というか性癖、いや、
◆都市景
▪️岩本啓志「さえぎる風景」
毎年なにげに岩本さんの作品を楽しみにしている自分がいます。なぜでしょうか。
岩本さんは退職後から写真を始めて学校に入り、今回で3年目の方ですが、めきめきと「写真」的な文体を獲得しており、「写真が良く」なっているのが特徴的です。階段を上っている姿が見えると言いますか。作品がだんだん、「写真の眼」になってきている。
我らの視界と認知について、幼き頃へと立ち返ってみますと、眼の使い方がそもそも分からない、①入ってくる光景をあやふやに受けているだけの段階、があり、全体的に写っているようで、あまり意味のない色と形の交錯したものがある。その次に、眼の使い方を理解し始め、②写り込んだものに意味や構造を当てはめて処理してゆく段階、が来て、より整理整頓された、意味に即した視界を獲得していく段階がある。そして安定期にこなれていくと、その先には、③意味や構造を踏まえた上で、それらの意味付けを繋ぎ合わせたり貼り換えたり、また引っぺがしてモノそのものの奥へ深入りしていく、といった知的・遊戯的なプロセスがあろうかと思います。
これまでの岩本作品は、①⇒②の過程があった。(鑑賞者はその①をいきなり③に錯覚したりするという副産物もあった)今年度は、②の足場を固めている感があり、少しずつ③へと向かうための気配を感じ、そこに私は「写真的成長」の面白さを見出しているのかも知れません。
その証左として、これまでテーマであった、主役のオブジェとしての「あべのハルカス」が、本当の意味で背景の書き割りと化している。これは作品のサイズや額装も影響しているかも知れませんが、これまでは「ハルカス」を撮っていたのが、今回は前景に、より大きなボリュームで「阿倍野、天王寺あたりの地元の世界」が写り込んでいる。
その象徴が、地元住民の歩いている姿であり、天王寺動物園のライオンです。主役が交代した。地元民が主役になった。
作者がハルカス以外のものをどれだけ意識的に撮ったのかは分かりませんが、少なくとも鑑賞者にとっては見るもの、得るものが格段に増えました。これらを踏まえて、「ハルカス」という異様な物件に作者がどう向き合うのかが見物です。
▪️岡田登志夫《未来の遺跡》
飛行機での移動のさなかに撮られた眼下の光景です。ありそうでなかった「航空スナップ」の観点です。
人工的な開発によって生み出された様々な形状があります。この視座は、地に足を付けているときには絶対に見ることが出来ず、ドローンを飛ばしても高度が足りません。もっと高い目で俯瞰した時、人類の営みを遠くから見下ろして、初めて見えてくる営為の痕跡です。
松江泰治と違って、対象がはっきりしていて、撮影のための飛行ではなく、空路での移動時に伴う撮影であり、対象との出会いについてはランダム性が高い。座席の位置や機体の進行方向、便の時間など、あらゆる要素が偶然です。
「未来の遺跡」というタイトルは言い得て妙です。写っているものはエネルギー関連の施設や、都市そのものであったり、日常生活を支えている機構ばかりですが、距離感があるせいで、現在とは異なる時系列に浮かんでいるように見えます。地上との距離だけでなく、客席の窓、大気そのものが干渉するため、独特な遠近感を醸します。また、GPSには相対性理論が活用されている通り、高度が高くなり重力の影響が小さくなるため、高高度では地上と異なる時間の流れがあります。地上との空間と時間のズレが、今見ている光景を、遺跡として先取りしているようであります。
・三松浩之《紡ぎゆく時》
走る新幹線の車窓から、流れ去る光景を捉えた写真です。心地よい疾走感と、新幹線からいつか・どこかで見た、何となく見覚えがあるような気のする光景があります。
新幹線は、日本の都市機能の象徴、最上級交通インフラという印象が強いですが、車窓に流れてくる風景の大半は、何もない。実に平らな田舎の水田や野原、民家が延々と続く。ビルの立ち並ぶ都市部は意外と少なく、主要駅の近辺に限られている。高速で飛び去っていく光景の中には速度の差があり、手前ほど像を結ばず速く流れ、奥は像を保ったままゆっくりと流れていくわけですが、地方・田舎の開けた場所においては、新幹線の車窓ではそれらの速度の濃淡が一望できるという、独特の視座があります。
本作は、作者の心象光景、あるいは新幹線の外に広がる風景の観察のようでいて、実は「新幹線」という共通体験の最大公約数を抽出した写真なのかもしれません。新幹線に乗ったことのない人はいますか? 私達の記憶に蓄積されている、新幹線の記憶と言えば、都市景よりもひたすら続く田畑や平らな工場、手前で暴力的なまでに切り刻まれてゆく電柱や川や民家、遠くで鈍く流れてゆく町並みや山並みがあります。ここには、みんな大好き「727」の看板がないので、一概に「共有された記憶」とは言えないかもしれませんが、飛び散る光景の奥に鎮座する富士山の姿は、記憶の最大公約数として不動のものでしょう。
ちなみに、本作の撮影シチュエーションは、写真家・所幸則(ところ ゆきのり)の『アインシュタインロマンス』シリーズとほぼ同じです。が、タイトルの通り、所氏は「時間」の物理的な現象としての車窓景を表現している。三松さんは、「紡ぐ」という言葉の通り、何か私的な思いからこれらの車窓ヴィジョンを一連のものとして語ろうとしている。そのような差異があるのではと睨んでいます。
▪️私《hyperlife2019》
自分のことも言わないとアンフェアなので評しておきます。意外にも? ねこの絵は展示していません。
「ギャラリー白」での個展(2018.10月)では、サブカル的感性を活かしてスナップ採集し、単体としての写真、単体としての像を、数を集めて群写真とすることで「都市に見い出だした擬似生物群」として提示しました。
その後の反省と考察として、「都市とは?都市空間と都市機能の及ぶ範囲とは?」と、「生物とは?どこまでが独立した一個の個体なのか?」いう、「領界・領域」の問題が自分の真のテーマなのではないかと思うようになりました。
それが、「都市と曖昧に呼んできたものが、公私の境目を越えて、プライベートな場に浸潤している状態なのではないか」という仮説で、本作のうじゃうじゃした感じに表しています。
私的さをポジティヴに公的空間にめり込ませてゆく際には、サブカル的コンテンツ・感性が有効となり(ポケモンGOやドラクエウォークを街中でプレイする感じ)、逆に、私的な領域が都市側から侵略されてくる脅威としては、都市空間を固める監視網や、手元のスマホなどから随時個人情報を収奪されるなどがあります。
その判定や転換点には、都市から顧客として囲い込まれるか、顧客でないとして拒絶されるかという怜悧な評価の視点があるのではないかと考えています。
都市空間で見出したパーツと、自宅の寝室で日々うねる「ふとん」とを、疑似生命体として並置しているのは、そうした公私の領域の混在、浸潤に対する、複雑な心境ゆえです。
これに対する評としては「言いたいことは分かったから、もっと突き抜けて思い切り展示したらどうか」ということになろうかと思います。物量で攻めるとか、立体化する、音楽や映像と合わせる、巨大化させる、1枚の中で入れ子構造にするなど、無限にあろうかと思います。サブカル的戯れと脅威をどう語るか、ちくしょう、模索します。平和な世界にならねえかなあ。ならねえなあ。ちくしょう。
◆パーソナルドキュメンタリー
▪️佐々木久美《結ぶ温もり》
2Lサイズが縦8枚、横4枚の計32枚詰まって1面を形成しており、それが3面で構成された、かなり巨大な作品です。縦幅は1mに達します。
それぞれの面は、作者の母親、母親の作ってくれたお弁当、職場の昼食で弁当を食べる作者で構成されています。
「母がお弁当を作ってくれなかったら生活できない」と作者が語っていたことがあったが、食べることの意義はカロリーの摂取だけではなく、自分が誰かと繋がっているという絆を確認することでもある。本作は「お弁当」というモバイルな食事が、空間的に離れたところへ「絆」を届けていることを表しています。
何よりも本作の特徴的な点は、中堅どころの会社員として勤務・活躍している30代の人物が、家庭によって支えられていることを、自ら写真で可視化したことです。
恐らくビジネス上でも、友達付き合いでも見せることのない、極めて私的な部分について、自らの手(眼)で可視化していること。写真作家の多くは、「多様性」の名の元に、マイノリティ、周縁に位置する人たちを特集し、見つめることを主題としていますが、マジョリティのど真ん中に位置する人種の主観については、現在、大きな空洞が空いているように思います。本作はその大空洞をマジョリティ当事者からの視点で埋めるものではないだろうかと考えています。
▪️好崎志保《お母さんの里庭》
「里庭」という語をメジャーなWeb辞書サイトで検索しても、検索結果がヒットしないのです。
改めてニュアンスを確認しておくと、「里山」(人里と近接した小山)と化した「庭」を指すもの、人と共生関係にある山を模した庭、という感じでしょうか。
ここでは配置中央に写る人物=作者の母親以外は、豊かな自然がクローズアップされており、四季を問わず、足元から頭上まで様々な種類の植物が茂っていることがわかります。それらは里山にではなく、母親が手入れする「庭」の育んでいるものであることが、純粋に驚きです。庭の全容が掴めません。山一つ二つ所有してそうな勢いです。
ただ自然の豊かさを記録した作品ではなく、あえてピントのボカされたカットを見ると、ここには庭に象徴される母親との関係性、繋がりを写した作品なのだと感じました。
という温もりに満ちた解釈と裏腹に、両親に何かあった際、この豊かすぎる「里庭」を受け継ぐことになった場合、一体どうすれば良いのか、という先々の現実的な問題も孕んでいる点が、観る側に当事者性をもたらします。老後の人生の生きがいとして豊かに実った果実を、そっくりそのまま「子」の世代が受け継げるわけではなく、往々にして人生最大の断捨離の選択に迫られることになります。ここに、外部の存在として誰か庭や家庭を撮影する写真家と、自身のプライベートな関係としてそれらを撮る写真家との、決定的な差異があります。
「里庭」という、穏やかで美しい響きの言葉の持つ「重み」を感じさせられます。
▪️湯澤洋《中国留学生の滞在記》
日本に留学している中国人の仲間たちを取材し、その生活空間を捉えた作品です。
日本での留学生の扱い方については色々と問題もあるし、何より、生活の実態を当の日本人側が全く知りません。最もよく分かるのが「コンビニバイトに外国人が増えた」ぐらいで、手に入る知見もそこまでです。
彼ら彼女らが何を食べて、何を愛し、どんな暮らしをしているのか。暮らしぶりは母国や元いたコミュニティによって全く事情は違うだろうし、日本での滞在目的・所属先によっても暮らしぶりは大きく異なるので、画一的に「留学生とは〇〇である」と一言で説明が出来ません。
というわけで本作のような取り組みはドキュメンタリーとして貴重だと思っています。都築響一『TOKYO STYLE』の時代よりも、見えない人たちの層、見えてこない「自室」のバリエーションが多様化しているかもしれません。
衣・食・住がはっきりと写っていること、それがホスト国側=我々に「見える」ことが重要な作品です。画面がもっと大きいと有難いです。卓上、床上、ベッド上に、何が散乱しているのか、何を愛しているのか、何を飲み食いしているのか。私達と何が違うのか、何が同じなのか。
いずれ日本は、どうせ人口の自然減に追い詰められて首が回らなくなり、周辺国から人をもっと受け容れるしかなくなるはずで、とってつけたような政策があれすると思いますが、その感性の下準備として、写真や動画から慣れ親しむのが、穏当で親しみやすい手法なのではないかと思います。
・齊藤叶華《花が咲くときカメラは動く》
シンガーソングライターとして活動する姉の姿を追う作品です。学校に来て2年が経ったと思いますが、各段にセレクトと配列が上達したと感じます。
一応「パーソナルドキュメンタリー」の括りに放り込みましたが、これはかなり中間的な写真で、姉の活動を広報的に後押しする支援活動であることと、作者自身の自己表現との合いの子になっているのが特徴です。
そこが私には直感的に理解しづらいところで、姉妹にせよ兄弟にせよ、一つ腹の元から生まれ、一つ屋根の下で暮らしていると、何らかの対立や競争、アイデンティティーや生存権の奪い合いみたいなものがどこかにあったりしないものかと思うのですが、作者の写真や話の中にはそういう悪感情は全くなく、全面的に後方支援に徹している模様。そういう姉妹・兄弟関係もあるのか・・・と不思議な気持ちになっているので、歯切れが悪いのです。よよよ。
作者自身が、なりたくてもなれなかった人間像を「姉」の生き様に重ね合わせている、とか、姉の追う目標をオルタナティヴな「わたし」のヴィジョンとして共有し、姉との協働によって達成しようとしている、などと考えると、腑に落ちるところですが、そこは人様の人生ですので要らぬ分析などせず、これからもがんばってくださいとエールをお送りします。はい。
◆生態・科学的ドキュメンタリー
▪️ヒノ ユリエ《レジ袋から見える海》
魚屋で食事用に買った魚をビニール越しに撮った作品です。
本作のコンセプトとしては環境破壊、プラスティックの話題が盛り込まれていました。
しかし私はここに「生」の意味付けの階層化と、儀式性を見ました。
まず生物種(硬骨魚類)としての「生」は、漁業関係者が釣り上げ、いけすから市場へ、小売店へと卸される段階で「死」にます。それは本来「死体」になるはずですが、ビニールで包み、消費者に渡す過程では「商品」であり、「死体」とは呼ばれず、明確な目的と価値を持った存在として扱われます。そして消費者が調理に取り掛かると、これらは食材としての新たな「生」を帯び、食卓に並ぶ時には、おかず・主食という別の階層の存在として完成されます。その後、消費者が食べて分解・吸収することで、また新たな「生」――私達の生きる糧へと転じます。
この静かながらダイナミックな生の意味の転換過程において、どこか神社の儀式のような神聖さをもたらしているのが、白いビニール袋です。周囲の環境や常識から隔絶された密閉によって、生物として死んだ魚は、次の腐敗の段階、本格的な「死」へと下ってしまわぬよう、白いヴェールによって意味性を浮上させられたまま移送され、商品・食材としての「生」へとスイッチされよう、連続性を保持されています。
こうした。食に関する生の転換装置(=消費社会のサイクル)における、プラスティックの保持機能を、儀式的なイメージへ転じさせたのが本作の見どころだと思います。
▪️金村静男《竹の声 太陽系誕生から46億年》
竹には、雨天の後に白い模様が浮かび上がるという謎の現象があり、晴れるとまた消えます。少し調べた程度ではこの現象に言及した記事は見当たらず、作者も「竹の博物館などで調べましたが、何故このような現象が表現されるかは現在も不明です」とのこと。うへえ。
本作は、その時間限定の模様を天然の映像として記録し、描き出された模様を、人類有史以前の記憶・ヴィジョンと捉え、色んなものに見える――古来から人々はここに色んなものを見出してきたのではと指摘。
冷たい幻灯機のようなものですね。
竹取物語の起源がこれだったら面白いなあと思います。ヲタ気味の高齢男性が「雨の後の地盤が気になるから、ちょっと裏山行ってくる」と家を抜け出し、一番いい感じに乙女模様の浮き出た竹を探しては「姫(ようじょ)・・・ 姫(ようじょ)・・・」と妻に黙って幻想に浸り、それがいつしか、白い幻夢=月からの使者として受け継がれてきた・・・などと思いを馳せると壮大なロマンがあります。ないですか。ない。(※本作とは関係ありません
・駒崎佳之《釣畑郷(つりはたごう) 2005~2019年》
舞台は滋賀県高島市朽木。琵琶湖の北部、丹波高地の東端で、福井県と滋賀県との境目あたりに位置しており、北には百里ヶ岳があり、山を越えると若狭湾です。
自分も何度か滋賀県の北部、東部には行きましたが、山と川がとにかく深く、同じ「近畿」でも、京阪神の都市部とは世界が全く違います。自然の端や隙間にヒトが居させてもらっている感じです。夏は森林がもりもり、冬は日本海側から吹き付ける風で、深い雪を降らせます。一度、雪の霊仙山で遭難しそうになり、滋賀県は怖いところだと思うようになりました。
そんな自然の存在感を、いたずらに美化することなく、あるいはビシッとした解像度での描画でコントロールするでもなく、微細な襞を持った運動体のような姿で描き出しているところに、独特な視点を感じます。作品の中心にあるのは、食う・食われるの生の連続性であり、そこでは人間という「主体」もサイクルの一部として「朧」になってゆきます。
本作は自然界における生存を朦朧体で描き出してゆく、没主体によって浮かび上がらせる表現なのかも知れません。山と人との関係は多くの作家が描き出してきたもので、野村恵子、田附勝などが思い付きますが、また一味違った「山」が見られることが興味深いです。
・中川秀和《透明な太陽》
昆虫写真ですが、近付くと背景にヒビが写り込んでいるのが見えます。マクロとミクロを組み合わせたイメージ写真になっていて、日本の日常景に住む何気ない昆虫と、不穏な様相で荒れる地球の姿とが重ね合わされている。
葉の生い茂った緑の中にたたずむイナゴの涼し気な顔と、その下に広がる無人の砂漠は、まさに新型コロナと時期を同じくしてアフリカ東部、中東、インドを襲っているサバクトビバッタの大量発生とリンクします。温暖化、砂漠化と蝗害のセットは、80~90年代初頭、子供の頃にしばしばTVでも見てきた災害ですが、近年また盛んになってきているようで、背景にはバッタ駆除のノウハウ継承など初期対応の不備があるらしいです。
本作は、今身近にある自然が温暖化により安定を失い、破壊されたり暴走してゆくことに意識を向けるものですが、バッタの写真のように、綺麗な面立ちで写っているモデル自身が、災厄の当事者であるという二面性を持つ点は面白いです。
というのも、この作風は何にでも当てはめられる反面、繰り返すとワンパターンで処理できてしまうことと、メッセージのシンプルさから、「環境破壊よくないよね」という一義的な広告とも捉えられかねないところがあるためです。独自の作家性を探求すべく、これからも色々な手法を模索してみてほしいと思いました。なぜなら、温暖化と異常気象は、まだまだ続くからで・・・ つらい。
・鷹岡のり子《ざわめき》
「光」を捕らえた作品です。
「捉える」ではなく、「捕らえる」。capcure、catchの方が合っています。
私達の眼は構造上、直接「光」そのものを見ることはできません。光が何かに当たり、吸収・反射・屈折された後の姿でしか、「光」というものを「見る」ことができない。しかも「見える」のは、本来持っている波長から分解された、ごく一部の色の波だけである。こんなにも太陽と人工の「光」に溢れた世界なのに、その本来の姿を見ることは決してできない。宿命的矛盾を抱えているわけです。
本作では、光は白く、微妙にトーンの異なる表情を見せています。これは、「光」が自宅の出窓のレースカーテンという検出装置に反応し、析出された結果です。レースが白いのか、反射された部分の波長が「白」なのか、というメビウスの輪のような議論を孕みつつ、白い輝きがここに現れています。無色透明の光を検出する自宅式カミオカンデ。個人的にはタカオカンデと呼んでいますが、自宅のカーテンと自然光だけでも、徹底して見つめることで「作品」へ昇華していくことを表しています。
この4×3=12枚のビジョンは、「光」そのものの写真ではないし、されど「カーテン」や「出窓」の写真では決してない。ここに作者の個人的な心情や生活を見ることも、もはや困難である。元は私的な思いから、出窓からの光と枯れゆく花を撮っていた作者が、私性を超えたところに出現する世界に辿り着いたという転回点であることが、本作の大きな意義だと感じます。
「撮る」=時間と空間を削り込むことで現れる、形なきものの形。これは光の彫刻であると思いました。
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以上、取り上げましたラインナップは、独自のテーマ性が見えるということ、すなわち鑑賞者の側が何かを「読める」ことを以て、「作家性がある」と感じたものをピックアップしました。優劣ではございませんであしからず。あと時間的限界で。あのその。
逆に、プロカメラマンクラスのような、ブツや人物をいかに的確な光と露出でしっかり撮るか、広報・宣伝としての技術を主眼とした作品については、趣旨が全く異なるので、あえて触れていません。
「インスタ映え」という言葉が、早くもすっかり衰え、どこか皮肉や揶揄に近いニュアンスとなった今、多くのカメラマンやフォトグラファーがどこで、何をしているのか、私にはもう分かりません。
ただ「作家」と呼ばれる類の人種として、愚直に日々を行きながら、何かの宿痾と付き合うように、命題と対峙あるいは共存し続けることでしか、どうにも生きてる実感はないし、まあ末永くやっていくということで、ひとつよろしくお願いします。ふう。
( ´ - ` ) 完。