「ビジュアルアーツ専門学校」で約40年間勤務し、2014年から大阪校で校長を務めた作者。2020年3月をもって定年退職となり、新型コロナ禍での自粛と重なる生活(Slow life)を送る中で、自宅で撮られた静物写真(Still Life)を発表する。
また、トークでは学生時代(当時「大阪写真専門学校」)に出会った、写真同人誌『地平』に代表される70年代の写真状況、大阪の写真文化を踏まえ、教員となり現在に至るまでの作家活動が紹介された。
【会期】R4.6/17~28 / 【トーク】R4.6/17
- 1-①【Talk】1970年代の状況
- 1-②【Talk】ビジュアルアーツ専門学校と、写真同人誌『地平』
- 1-③【Talk】村中修の経歴:作品、作家活動
- 2-①【展示】「Red line」「Window Light」シリーズ
- 2-②【展示】「Souvenir」「flowers」シリーズ
静物写真は基本的に自宅スタジオでのコンストラクティッドフォト、人為的に配置・構成して撮られたもので、照明をセットされて撮られたものもあれば、窓からの自然光で撮られたもの、被写界深度合成の作品もあり、バリエーションが豊かだ。
これらは4つのシリーズから構成される。
作品鑑賞レポの前に、作者がビジュアルアーツ専門学校に勤めた40年間のうちにどのような写真文化に触れ、どのような作品を発表してきたか、先にトークの内容をレポートしたい。
1-①【Talk】1970年代の状況
トークでは作者が写真を始めた頃の時代背景、特に1970年代の写真史的な状況が体系的に語られた。
作者は1978年に大学を卒業後、「大阪写真専門学校」(現・ビジュアルアーツ専門学校)に入学。大学在学中にも写真を撮っていたが、本格的に学び始め、1980年に卒業する。
重要なのは、作者が写真を始めた頃には、学生運動が終わっていたことだ。
上のスライドの年表のように、1970年には大阪万博が催され、社会は高度成長期を迎えていたが、一方で当時はまだ学生運動が盛んに行われていた。しかしそれ以降・1972年頃には闘争が「内ゲバ」と呼ばれるように内部抗争化し、山岳ベース事件、あさま山荘事件のように仲間同士の殺し合いにまで至り、革命を目指したはずの運動は急速に行き詰まりを見せ、社会からの支持も失われた。70年代後半にはとうとう日航機ハイジャック事件など過激派、テロ組織という、一般社会との対立の様相を呈する。
1973年にはオイルショック、ドルショックが起きる。社会が大きく動乱していた。
そうした社会の動向に写真家・写真界も呼応していて、1968年『PROVOKE』はまさに写真における「運動」の意味合いがあったし、1971年に北井一夫『三里塚』はそのまま成田国際空港の建設反対運動、「成田闘争」の参加者側・農民らをとらえた写真だった。しかしその後、北井は運動から離れて1976年に『村へ』『そして村へ』で、過疎化が始まりだした「地方」を特集した。
このあたりの北井一夫の動きについては米倉昭仁氏の記事が参考になる。1974年・高梨豊『都市へ』を意識したコンセプトだったという。
その後、写真界としてはスライドのように、1977年・牛腸茂雄『SELF AND OTHERS』、すなわち「コンポラ写真」の代表作が登場する。なお「コンポラ」の言葉と動向自体はもっと早くから日本にあった。歴史的には、1966年、アメリカの「コンテンポラリー・フォトグラファーズ 社会的風景に向かって」展が開催、日本にも波及し、1968年『カメラ毎日』で大辻清司が「コンポラ写真」という言葉で紹介されたのが最初期と言われる。
(参考)東京都写真美術館「日本写真の1968年」展 より
https://syabi.com/contents/exhibition/topic-1870.html
「コンポラ」の定義や対象となる写真の幅はえらく広かったりして厄介なので、ここでは触れないが、何気ない日常を何気なくのっぺり撮るような作風と思って差支えない。
さらにその後の1978年にはアメリカで「Mirrors and Windows展」が開催。「写真」が社会の真実や事実の唯一性、革命の運動から離れていき、形のない個人の生活や視座を主題にしていく。他にも、荒木経惟が開拓した「私写真」の領域、写真家らによる自主運営ギャラリー開設、石原悦郎の「ツァイト・フォト・サロン」開設・オリジナルプリントという概念の導入(→写真を売るためにはよい写真を普及することが必要、との考えから、写真美術館の構想へ発展)など、現代の「写真」へと至る大きな転換期であった。
こうした時代背景がトークで語られた。
1-②【Talk】ビジュアルアーツ専門学校と、写真同人誌『地平』
作者が「大阪写真専門学校」に入学した1978年には、学校の教員は学生運動の影響を受け、実際に身を投じていた世代の写真家であった。黒沼康一、百々俊二、中川貴司(後の名古屋ビジュアルアーツ校長)、村上哲一らである。
百々俊二が中心となって1972年に発刊した写真同人誌『地平』は、革命運動の気運に溢れていた。『地平』を象徴する伝説的な、黒沼康一の檄文のごとき一節は、今でもしばしば紹介されるが、当時もまさに教科書としてプリント配布されていたという。
カメラはぼくらの武器だ。自己表現に終止する回路を断て。
写真は閉塞した感性を脅かす凶器のようなものです。
見たいのはきみの写真でなく、きみの写真が開示する世界なのです。
トークでは『地平』の中身が紹介された。この雑誌、百々俊二すら最後の手持ち分を大阪中之島美術館に寄贈しており、ほぼ出回っていない。めっちゃ欲しいのだが幻そのものである。
関西の写真文化、1970年代の写真文化を物語る歴史的資料として価値が高いだけでなく、載っている写真の力強さと面白さが格別で、私情や情感を排した、日常景の中に潜む造形の妙と力を切り出すことに注力していて、その「攻め」の姿勢がたまらないのだ。事物の具象性を引き上げる眼だ。
写されているのは大阪の下町、歓楽街など、何ら特別な物や場所ではない。しかし写真にされることで光景が力を持って迫ってくる。転じて「写真」そのものが、何をどう訴えるかの役割を変換されていく。例えば正しさや真実を表そうとするジャーナリズム性や、風光明媚の賞美や個人の感傷への没入といった写真(=世界の秩序に沿い、応える写真)ではなく、役割を持たない無属性の写真(=秩序だった世界を撃つ/打つ武器のような写真)へと転じる可能性、そうした力が見い出されていたのだろうか。
象徴的なのは、見開きで画面いっぱいに写された金色の「やかん」で、強烈なインパクトを残す。私は2017年頃に『地平』を手に取って閲覧する機会に恵まれたが、とにかく金色やかんのパワーが印象に残っている。そして見開きのアジ3尾。なんだこれは。極めて直接的な写真ながら、「やかん」や「アジ」を指し示す写真ではない。金属質の光沢やぬめり、膨らみや形状を切り出している。
さきの黒沼康一の檄文の通り、これらの写真は、個々人の情感に内向することを許さないものがある。ここから更に切り詰めていくと記憶喪失後の中平卓馬の超即物的な世界に至るのだろうか。
作者・村中修が身を置いた写真の学びの場とは、こうした気風に溢れていた。上3枚のモノクロは「進級制作」での村中の発表作品で、まさに『地平』的な街頭スナップである。初期の教育環境がそのままその後の自分の作風を決めてしまうことから「けっこう学校って怖いんかな」と。他の写真家も同じことを言っていた。
ちなみに約41年ぶりとなる2018年、『地平 第11号』が復刊された。百々俊二、阿部淳と若手作家ら計7名が集まり、当時の精神を継承しながら現代の感性で街や日常景を写している。
写真集販売サイト「写々者」の『地平 第11号』特設ページには百々俊二も寄稿しているが、『地平』創刊時の想いと70年代という時代の空気が伝わってくる。必読である。
1-③【Talk】村中修の経歴:作品、作家活動
「進級制作」に続いて、その後の現在に至るまでの作者の作品と作家活動が紹介された。街頭スナップから一変して「卒業制作」は商業写真のようなブツ撮りとなる。
photoshopのない時代なので、目に見えないところで様々な物理的な工夫が施されている。針金で器材を持ち上げたり、光沢の紙を丸めて背景に用い、ライティングを施すなど、構成的な写真である。それでいて果物・野菜の造形を立体的にストレートから捉えている点は街頭スナップの眼を思わせる。
基本的な制作姿勢は今回の展示に通じているのが面白い。作家は最初期に見出した手法・テーマを生涯かけて育て、発展させていくということなのか。定年退職と新型コロナ禍が重なったから自宅でスティルライフ作品を撮ったというわけではなかった。必然的なライフワークだったのだ。
そんな2年間の学生生活だったが、卒業を期に百々俊二の誘いで「写真学科教員」を任命され、長い教師生活が始まる。
スタジオなど写真家、カメラマンとしての現場経験のないまま、2年間の授業を受けただけでいきなり教える側に立ってしまったため、技術も何もなくかなり苦労したそうだ。それまで培ったノウハウを詰め込んで数週間分の授業内容を作ったら1回の授業で使い切ったという。
だが学校にはそもそも体系的な知識を伝える教材がなかった。そのため作者は実用的な教材を作ることにし、ほぼ一人でスタジオとフォトテクニックの教科書を作り上げた。1カ月、学校に泊まり込んで撮影、執筆、Macでページレイアウトを行った。
この教科書はAmazonでも売られている。
教員生活が続く中で作品制作から遠退いていた作者だったが、1990年、作者にとっての「先生」にあたる中川貴司、川越孝文、村上啓一らが開催した合同展:「Field Notes(フィールドノーツ)写真展Vol.1」(@大阪府立現代美術センター)で、講師が写真作家として活動しする様に刺激を受ける。
1991年からは展示に参加し作品を発表する。「オン・ザ・シーン'91」写真展(@大阪府立現代美術センター)だ。中川貴司や川越孝文ら6名の合同展で、作者は《nude study 1991》を発表した。展示名は1980年に写真家・太田順一や奥野竹男らによって創刊された写真雑誌『on the SCENE』から名をとられている。
身近な女性にモデルを務めてもらってのヌード写真だが、見た目以上に凝った制作工程があり、「ネガをネガで複写するとポジになる」「現像液が茶色くなり、ボディのような色になる」「濃いブルーを落としていくと背景のようなボカシになる」とトークをメモしている。(私にフィルムに関する技術的なことが分からないので断片的なメモ紹介です。)
その後の活動として、1993年「HORIZON」展(@三越百貨店)、1994年「Field Notes写真展 Vol.2」(@大阪府立現代美術センター)、1997年「Recollections ―記憶の形象―」(@コスモギャラリー)などに加え、京都での活動として、2つのグループ展:1997~2021年「How are you Photography」展、2001~2021年「京都写真展」への参加といった歴史が語られた。
多くは静物写真で、真上から撮られている。物自体の造形というより、モノの組み合わせを真上からの平面で表し、背景やメディウムとの組み合わせが生じさせる視覚の香りのようなもの、目の前の視覚と目の奥のどこかに香る記憶のような雰囲気との合間に生じた像、そのような印象を受ける。
また2001年より「大阪写真月間」を発足、2002年より展示が開催された。現在は作者は実行委員会代表を務めている。
2-①【展示】「Red line」「Window Light」シリーズ
トークを踏まえて、改めて本展示の作品を見てみたい。70年代の革命・学生運動の熱を込めた雑誌『地平』の影響から始まり、90年代以降の関西写真界でスティルライフの作品を発表してきた作者である。造形へ切り込む眼と、手元でモノを構成する思考、複数の技術的手法を組み合わせる制作プロセス。そして自由な解釈。そうした特徴が浮かび上がってきた。
展示は4つのテーマからなる。
「Red line」シリーズは、造形物の間を赤い糸が繋いでいる。
解説を読んで知ったが、これらはデジタル処理によって糸だけ色を残し、残りを全てモノクロ化させた作品だった。白と黒と灰色のオブジェで撮影したのだと思ったぐらい違和感がなかった。美術の学生がデッサンに用いるような、額縁や球体、立方体のオブジェが、赤い線で真っ黒な背景とクロスする。
絵画が生まれるための元素となる基礎的なオブジェを、立体的な造形物として写真に現わしつつ、写真的な背景も真空状態に留め置き、赤い糸で絵画―写真の領域を越境して結び付ける。そのような連想を催された。
「Windows Light」シリーズは最も身近というか、懐かしく感じた。窓からの自然光で撮られ、斜め45度ぐらいに一定の角度を付けて立体的に撮られた静物群は、どこかで目にした記憶の風味があった。
色味、風合い、用いられたオブジェの色と形、画角などが、80~90年代前半あたり:かつて私が幼少の頃にどこかで目にし続けてきた写真そのものに感じられた。記憶もまばらな時期に触れた写真のことなのだが何故か体に残っていて、それが刺激される。雑誌に挿入されたイメージカットや広告などの、文化的で高級さを表出した写真のセンスに似たものを感じたのだ。手間暇と時間とセンスをかけて作り込んで撮られていた頃の、上品で高密度な写真だ。
個々の造形物は下地、背景、隣接する他のオブジェらとの組み合わせによって個・単体としての表情を潜め、自然光の表情と厚さとが合わさってラグジュアリーな響きが満ちる。豊かな「光」の表情が個々の物質を「作品」へと押し上げているのだ。写真家の技術力と構成力の高さを物語る仕事だ。
2-②【展示】「Souvenir」「flowers」シリーズ
「Souvenir」シリーズは記憶をテーマとし、従前の「Recollections」シリーズの発展形に当たるという。レトロさと博物的さが同居した作品だ。
自然物が木箱や、カンバスのような白い台に並べられている。小分けされた木箱の中に収められているのは「中新世」(約2300万年~500万年前)の貝殻などだ。植物の種類やノートの意味は分からないが、それぞれの標本と下地の組み合わせには関連・意味が込められていると思われる。
総じて自然史、と呼ぶべきだろうか。個人の手元で記述される私的な歴史や記録を超えたものを、手元に集めて並び直し、スケールの異なる空間を提示する。博物学的な佇まいで試料が並んでいる。
さきの「Red line」「Window Light」シリーズではモチーフの一部に水晶が用いられていた。「Souvenir」シリーズは貝殻や植物の標本だ。どちらも地上、自然から生まれ、歴史を刻んできた証言者だ。全体としてこれらの作品は大きな枠組みで「記憶」や「歴史」を喚起させる。
「flowers」シリーズは、トークショーのために2枚のプリント作品は外されており、スライドショー画面での紹介となった。
アーヴィング・ペン「FLOWERS」にインスパイアされ、敬意を表して同タイトル・小文字で名付けられている。
何気ない花の写真だが、被写界深度合成によって全部分にピントが合っている。マクロ撮影ではピントの合わない部分が必ず出るが、少しずつピント位置をずらして連続撮影した写真を重ね合わせることで、画面全てにピントを合わせる技法だ。
プリントで見たわけではないが画面のアップでその特異さは伝わった。植物のどの部位をアップしても明瞭な線で描画されている。二度とやりたくないほどの作業量らしい。これは「写真」(=光学的な遠近、ボケを孕んだ像)の領域をはみ出て、「もの」、モチーフそのものへ近付いているとも言えるし、「Red line」で書いたように絵画的な領域(=人為的に全てにピントが合った像)へと踏み込む試みとも言えるかもしれない。
まとめると、これら4つのシリーズは手元で構成され自宅スタジオで撮られたスティルライフ写真だが、自然の産物を通じて人為を超えた過去や歴史に触れるものであり、また、オブジェの配列や関連付け、描画技術によって「写真」の領域を越境してゆく(絵画にも言及する)ものだとも言えるだろう。
なお、トークで語られた関西における写真動向、1970~2000年代の動きや色合いについては手元に紙資料はなくWebにも記事がなく、私自身の体験もないため展示深く中身を語れず、スライドで紹介された固有名詞を列挙するにとどまり、もどかしい。もどかしいのだが、村中修の作品と、大阪・関西の写真史、ビジュアルアーツの写真文化などと関連付けて論じるには自分自身に具体的な参照材料がもっと必要であると思った。がんばろう。非常に興味深いトークと展示であった。
( ´ - ` ) 完。