nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【KG+SELECT 2023】R5.4/15-5/14_【A1-A6】堀川御池ギャラリー  

「KYOTOGRAPHIE」のメインプログラムと対を成す重要プログラムが、公募で審査員から選出される「KG+SELECT」である。今回は全10組の作家が2会場に分けて展示されたので、会場ごとにレポートする。

まず、「堀川御池ギャラリー」で展示された【A1】~【A6】の6名を紹介する。

「KG+SELECT」は2019年から毎年、約10つのプログラムを1つの会場で展開してきたが、会場を2つに分けたのは私の知る限り初めてである。(ちなみにそれ以前は、「KG+」でまとめられていたが、2015年に「AWARD」として参加者の中から優秀な1組を投票・選出する仕組みができ、2017年に「AWARD」展自体が別枠となった) 

 

今回は「堀川御池ギャラリー」で6組、「京都芸術センター」で4組の展示に分けられている。だがテーマや展示形態で分かれているわけではない。10組の作家のセレクト自体が国籍、テーマ、ジャンル、手法などの点において特に偏りや傾向がなく、どういう作家・作品が選ばれていたかを一言で言おうとすると「色々、満遍なく」としか言い表せない。

 

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特徴がフラットだった要因として、複数の審査員がそれぞれに選出した結果ということもあるだろう。年によっては似た傾向・テーマの作品が被ることもあるが、今回は特に傾向の偏りが見られなかった。

もう一つ考えられる要因として、会場の質と密度があるだろう。どちらの会場も展示スペースとしてはゆったりと広く、照明や形状が似通った、余計な装飾や突起の無いフラットな部屋であり、また各部屋が十分な間隔を保って離れていた。なおかつ、あまり込み入ったインスタレーションがなされなかったことで、例年よりも落ち着いた、フラットな印象を受けたものと思われる。(別のグループ展示でも、例年より広い会場となり、各作家が十分なスペースを保って展開したことで、それまでのカオスな迫力が薄れて平熱化したということがあった。)

 

 

【A1】ユーリア・スコーゴレワ(Yulia Skogoreva)「SALT AND TEARS:The story of Nana

女子相撲に取り組む学生「ななちゃん」(取材当時14歳)の姿を通じて、ジェンダー格差の問題、女子相撲という競技自体の存在について認知を広めるプロジェクトである。

まさに、相撲をやっている人自体が周りに全くおらず、女子力士となると非常に縁遠いもので、たまにニュースで地方の話題に出てくるのを見ることがあるぐらいで、その将来を想像したこともなかったが、やはり「学校や大学の部活としてアマチュアレベルでのみ受け入れられている」「卒業後は継続する道がないので、ほとんどの女の子は最終的に相撲の道をあきらめる事になる」という。

 

日本相撲協会が管轄する「大相撲」では女性力士の参加はおろか、女性が土俵に足を踏み入れることすら禁止されている(救命処置を行おうとした医療者でさえも!)が、女性力士については、アマチュア相撲の位置付けにある「日本相撲連盟」の下部組織として日本女子相撲連盟が設置されている。

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相撲は他のスポーツと位置付けが異なる。伝統や神事についてジェンダー格差を指摘し「問題」として取り上げるべきなのか、見直しを図るべきか、個人的には疑問もある。が、男子らに混ざって本気で練習し取り組んでいる女子がいるという事実はしかと受け止めるべきだろう。事実、体格、取り組みの姿も男子と比べて遜色がなく、戦う人の体つきをしていることが、本作では明らかにされている。

あらゆるスポーツ・格闘技に共通する前提として、経済性=客がつくかどうかと、ゲーム性=その競技の見方・楽しみ方が共有されているかが大きい。パラスポーツも、いつの間にか道徳の授業めいた、ハンディキャップを持った人たち・守られるべき人たちの会などではなく、「高度に鍛錬された身体と技術を鍛えた超人たちの競技」として目に映るようになっていた。女子相撲も、やりようによっては変革のスイッチが入るのかも知れない。

 

 

【A2】高橋こうた「80°05’」

若き冒険家・阿部雅龍(あべ まさたつ)の姿を追う作品である。阿部は、明治時代に人類初の南極点到達を目指していた探検家・白瀬矗(しらせ のぶ)の足跡を追っており、白瀬が引き返すこととなった「南緯80度05分」地点から先、人類未踏の「しらせルート」の踏破に挑み続けている。

作者は阿部の「夢を追う」姿に着目し、かつての白瀬矗の姿と重ね合わせて提示する。2019年11月の挑戦は飛行機会社の都合で延期になり、2020年には新型コロナ禍の影響で再度の見送りとなり、それでも諦めない姿を見て、本作の制作をスタートしたという。

面白いのは、本作が探検に密着したドキュメンタリーではない点だ。通常、想像するのは、写真家も探検に随伴して撮影・記録するやり方だが、本作はむしろ、なぜ阿部雅龍という人物が困難な挑戦に取り組んでいるのか、夢を追い続けているのかを追うもので、その原動力の一つに白瀬矗というヒーローの人生・境遇とのリンクを見い出している。白瀬矗も苦労人で、南極観測船「しらせ」の名前の由来になるぐらいだから、さぞ華々しい人生だろうと思っていたが、政府から資金援助を受けられなかったり、老後は探検の費用の借金返済に追われるなど、苦難の方が多く見受けられる。

shirase-kinenkan.jp

恐らく作者・高橋にとっても阿部雅龍という人物は理解の及ばない、不可解な存在なのだろう。白瀬矗もまた知れば知るほど意味不明な怪人である。彼らはなぜ過酷な道を選ぼうとするのか。一体何を見ているのか。その意味では、さきのユーリア・スコーゴレワが取材した女子相撲の選手も似ている。夢を追う行為自体が非合理的なのかもしれない。

 

ちなみに延期されていた「しらせルート」への挑戦は、2021年11月に着手され、2022年1月に中断・離脱している。開始直後からクレバス迂回のため歩行距離が100㎞プラスオンになるなど非常にハードな行程だったことが伺える。なお、2019年にはメスナールートから南極点に到達しており、ただ夢を語るだけの人ではなく実力を備えていることが分かる。

www.asahi.com

個人サイトで阿部自身からの日々の報告が読める。

www.jinriki-support.com

栗城史多の一件以降、冒険者などの夢追い人を応援することが、いつしか感動の際限なき消費へと膨張すること、更には冒険者がその欲望に過剰に応えようとする、悪しき回路が形成される恐れについて、皆が反省・学習したところは少なからずあるだろう。まさに本作のように冒険者の動機について向き合う取り組みは重要である。

なお本作では展示もさることなあがら、フォトブックが非常によくできており、阿部雅龍という人物の日々の暮らしがよく見えた。加えて、その冒険が、白瀬矗の足跡と重なり合ってゆくところがうまく表現されていた。「Reminders Photography Stronghold」でお馴染みの編集手法に思えたのだが、RPSで名前が上がってこなかったのは意外だった。独自に学んだのだろうか。

 

 

 

【A3】西村祐馬「Savepoint」

<Touched(Skin)><Daily life in the bottle>の2種類の作品で構成される、静かで不思議な場である。どちらも写真というよりデザイン性の高い作品だ。

 

<Touched(Skin)>はまさに皮膚の像が特殊な質感の素材にプリントされており、手で触れて、そのツヤやざらつき、厚みの差異を触覚で見る作品となっている。ステートメントではパンデミックの話題に触れられているが、VR技術やオンラインコミュニケーションが普及するにつれて、身体の物性、肉体の感触は不要となるのか、それとも反動的に欲求が駆り立てられるようになってゆくものかを考えさせられた。例えばAI画像生成によってより精巧な人物像が目の前に現れるようになったとき、肌や肉は不要なのか、それともやはり要求されるのか、そうした先々の欲望について示唆を含んだ作品だと思う。

 

<Daily life in the bottle>は小さな写真を封入したガラス瓶の作品で、3段の棚が3組並んでいる。1段につき11本なので棚には99本、入り口に1本あるので合計100本になる。

写真は日常の暮らしの中で目にする建物や街中の光景、拡大されたパーツ、人物のスナップで、主に海外の光景である。一言で言えば、お洒落だ。デザイン性が高い。だがお洒落なだけではここ「KG+SELECT」には選ばれていない。見せ方・並べ方で印象、作品の語る意味が大きく変わるためかも知れない。例えば「TOKYO FRONTLINE 2022」アワード受賞(多和田有希個人賞受賞)の写真では無機質に縦横等間隔に並べられていて、同じ作品でありながら全く異なる意味を語っている。

www.tflphotoaward.com

今回の展示に即して言えば、写真=作者の精神、ガラス瓶=写真を守る身体、であり、それぞれの瓶詰め写真は作者の分身・タイムカプセルという見立てになっている。だが情緒的に過ぎるきらいがあって(個々の写真が普通に「良い」から尚更)、むしろ「TOKYO FRONTLINE 2022」での提示のように、どの「記憶」も特別な瞬間も等価なピースとして切り出され、前後左右の配置が交換可能であり、「記憶」と呼んでいるものの唯一性や確かさがとことん無くなるような局面を見せてもらえるほうが、読解の可能性が飛躍的に高まるように感じた。

 

ミニ写真集では個々の写真について詩的なキャプションが寄せられており、上で私が書いたような無機質な等価さとは真逆の、個別具体的なエモーショナルを大切にする眼差しがある。無機質に等価に流れ去ってゆく日常をポエティックに受け止めて投げ返してあげることが作者の本意だとすれば、本作はそれが一定実現されているだろう。言葉がなかなか合っているので、共に提示しても良いと思った。

 

 

 

【A4】レオナール・ブルゴワ・ボリュー(Lēonard Bourgois Beaulieu)「Les corps lucides(the lucid bodies)」

ステートメントの日本語訳のためか作品の理解に混乱した。一つの作品に複数の技術が重ねて用いられているのか、挙げられているそれぞれの技術を用いた作品が一堂に会しているのか。恐らく後者であると想定して個別に切り出すと、3種類の表現手法による作品で展示が構成されている。

  • ソラリゼーションによって人物が光を帯びているように表現
  • ネガフィルムの表面で微生物を培養し、写真の表面に第二の「肌」を形成
  • ネガ現像時に取り出した薬品を数年間保存し、黒く変色したペーストを写真に塗布することで第二の「肌」を形成

これらは「社会からしばしば拒絶され、疎外される人々のポートレイト」であり、「流動的なアイデンティティーを持つ人々」を撮影する上で、その変化に寄り添いつつ、物質的な実体を持たせるために開発した技術であるという。

 

ただし各人が置かれたアイデンティティーの状況などは何も触れられていないため、ステートメントに書かれている技術について、それぞれの写真で確認するに留まった(それだけでも十分に謎めいていているため理解が容易ではない)。肖像の肌と背景が同化する色味がミュシャの絵のように美しいとか、神秘的であるといった賞美に終わってしまったのは残念である。美しいのは良いのだが、例えば性差の問題、人種・民族上の問題、所属コミュニティの問題など、各人がどういったことで揺らいでいるか、もう少し深入りをしたかった。

 

 

 

【A5】ガレス・フィリップス(Gareth Phillips)「Ligatures of Ivy」

初老の男性が送る余生、といった風景だが、淡いグレーの中で、どこかコミカルさと孤独を伴う。男性は作者の父親だが、「1980年代の英国における脱工業化の中で事業に失敗」「家族を経済的に支え保護する役割を果たせず、殻に閉じこもるようになる」「30年間にわたる失敗への恐怖と家長としての無力感から鬱病を発症」「最近、生死に関わる重病の診断を受け、神経衰弱状態に」と連続で叩きこまれるプロフィールは、深刻である。本作が父親との「共同作業」としての構想から始まったのは、作品制作というよりケア的な意味があったのではないだろうか。日々の父親との関係を想像しただけで息が詰まる。

経済的な落ち込み、孤独、プライドの喪失に見舞われた中高年については、陽性症状的にこじらせた場合の分かりやすい事例として、トランプ支持やQアノン、反ワクチン等の陰謀論への染まりやネトウヨ化などの問題として表出されよう。だが本作のように、陰性症状というか、ネットやSNSでも姿を見ることのできない窪みに落ち込んだ人達が、想像以上に多いのではないだろうか。身近な人がこうなったら非常に辛いなというのが実直な感想である。写真行為を通じて、家族や外部との関係を結び直すことができるとしたら幸いだ。

ただ、ケア的な観点を抜きにしても、本作は視覚言語として面白い。カメラと被写体=父親との距離、画面内の収まりは映画のようにうまくバランスを取られていて、父親は登場人物として1日の暮らしを営み、鑑賞者側は負荷を押し付けられることなくそれぞれの場面に入っていけるのだ。

 

 

 

【A6】ソン・ソグ(Seok-Woo Song)「Wandering, Wondering」

韓国の都市風景の写真かと思ったら、小さく人物が写り込んでいる。彼らは単独あるいは集団で統制された配置と動きを見せ、誰かの指示に従っているかのように見える。演出写真だということを抜きにして、というより写真(家)の意図よりも大きなところから来る要請に従っていることを感じさせる。風景に行く手を阻まれ、最小限の選択肢しか許されていない。

本作は「急速に変化する社会構造の中で適応できない20代の青年たちを表している。」という。

舞台が韓国、登場人物が若者というだけで、ステートメントを読むまでもなく本作から受けるイメージは方向づけられる。韓国の若者を取り巻くあらゆる状況がいかに厳しく、行き詰っているかの内実についてしばしば報じられる。超学歴社会、超格差社会、競争社会、徴兵制、就職難、少子化、ひきこもり・・・ どこまでリアルな実態が日本で報じられているのかは分からないが、もう何年もの間「韓国では小さい頃から塾に通い、必死の思いで大学を出ても正社員になれず、バイトに就くしかない」といった若者世代の苦境が語られている。そうした閉塞、手詰まりのイメージにしっくりくる写真であった。

触覚を切られた昆虫が虫かごの中で動きを止めているような。刑務所で囚人が体操をしているような。社会の歯車ですらない。歯車未満の状態で、しかし社会によって個体としての生を完全に規定されている姿がある。

 

 

( ´ - ` ) 「京都芸術センター」展示へ続く。