nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展/talk】2026.2/21-3/22_勝又公仁彦「Remains」@PURPLE(2/22、トーク×青山勝)

広島・長崎に今も残る「被爆樹木」を撮影した写真集『Remains』が2025年12月に刊行され、このたび写真展とトークショーが催された。事前に少しだけ写真集をめくって目を通したが、これは聴かないと分からないと思い、久々に生トークを聴講した。

(以下、敬称略)

写真集はA4ヨコより少し大きい。ヨコ位置の写真で構成され、左側にそれぞれの樹木名、所在地、撮影年月日が記載されている。多くは暗い時間に撮られている。星が流れていて揺れた葉が溶けている。

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巻末のテキスト3本(伊藤俊治、鈴木雅和、作者自身)を読めば、テーマ、世界観、作者の作家性など多くのことが分かるのだが、いったん真っ白な状態で頁をめくる。

 

何も知らないで頁をめくっていると、街路樹など都市の木々のスナップ写真~風景写真、あるいは記録写真としか思わないだろう。だが頁ごとに日付と所在地が付されているのを目にすることで何かが始まる。なおここでスナップでも風景写真でも記録写真でもなくそれらのいずれでもありうる写真であることも効いてくる。

 

個々の木の姿と場所と時間の情報が結び付き、それらが頁ごとに積み重なって、更に「被爆」=戦争・原爆の歴史事実という枠を埋めてゆく。様々な要素が集まり組み合わさったところで写真のビジュアルを改めて受容すると、認識の中に空間のようなものとなってゆく。この奥行きの質感が恐らく「歴史」というものの現れだ。

 

記録上のラベル的な歴史ではなく、何かしらの質を持った体感としての「歴史」を得るためには、次元を組み合わせて立ち上げなければならない。トークショーではそのエレメントを獲得することができた。

 

◆トークショー

聞き手は大阪芸術大学教授・青山勝。

美学・芸術学、視覚文化論。写真、映画、現代美術等が専門で、多数の写真・芸術関連本の翻訳等に携わっている。写真関係者にとって身近で代表的な仕事としては、あのヘンリー・F・トルボット『自然の鉛筆』(2016,赤々舎)の編集・翻訳がある。

akaaka.com

また現在はニセフォール・ニエプス関連書籍に取り組んでおり、世界で最初の写真と言われる《ル・グラの窓からの眺め》が1827年に撮られてから200年後の節目となる2027年、つまり来年に出版が計画されている。なお、撮影年としては1826年説がかなり多く出回っているが、1827年-2027年の軸が語られたことは、恐らくそうしたニエプスの史実に関わる研究本なのだろう。

また研究では実際に当時の古典写真技法を実験し、1週間もの時間をかけて撮影・露光、現像を行っているという。写されたものが像として現われ、定着するのに膨大な時間と手間を要するのだ。この検証の様子は下記論文で触れることができる。

 

<★Link> 青山勝「ニセフォール・ニエプスの太陽印画法の実際 ─カメラ・オブスクラを用いた撮影の再現実験─」
(大阪芸術大学大学院芸術研究科 藝術文化研究第27号)

https://www.grad.osaka-geidai.ac.jp/app/graduation-work/bulletin-paper/geibun27.aoyama.pdf

 

氏の自己紹介と本作「Remains」の主要エレメントとは結びついている。後述するが青山の指摘する4つの時間レイヤーを考慮すると、①露光時間 ②ラベル記録的な歴史の時間  ③作家側の時間  ④樹々の生の時間 という観点をトークから拾い上げて考えていきたい。そのためトークの時系列的記録の形はとらず、私個人の気付きや推論を交えながら記載する。

 

 

① 露光時間(現象)

「Remains」は夜間に長時間露光で撮られている。「被爆樹木」とは爆心地からおおよそ半径2㎞内にあった木をそのように認定して現在に至るまで調査、保存が図られている。特に広島市内は都市部なので街灯・照明が多いためか、明るく、時に奇妙な、非自然的な色味を見せる。

青山が実験を通じて「光が溜まって写ったんだな」と実感したという通り、長時間露光はまさに暗所で、少ない光を取り込んで何とか感光させて像を宿させる行為だ。古典写真技法とは露光(感光)と定着をめぐる技術の格闘といえる。近代写真はその時間技術の進歩によって工程が極限まで圧縮してゆき、瞬間芸術としての特異なアイデンティティーを獲得したわけだが、対して勝又作品では「Remains」を筆頭に、「あえて」露光時間をかけて撮影されたものが多い。ここに「時間」と「写真」の関係、つまり「存在」という主題があることを見てとれる。

 

長時間露光といっても古典写真が要した時間(数時間~数日)とは桁違いの速さで、本作は4~8分の露光で撮られているが、それでも我々生活者の時間感覚からすれば圧倒的に、遅く、長い。本作は2005年にフィルムで撮られているから、2026年の感覚でいえば、この露光時間は撮影当時よりも更に遅くて長いものに感じられるだろう。露光には時間が必要で、私達にも時間が流れていて、その両者が合致していない。むしろ私達は待機せねばならない。

青山はこの点についてベルクソン『創造的進化』から「砂糖水の作り方」の一節を引用する。砂糖を水に溶かす・・・水に溶けるまでの時間、私達は「待ち」の状態にあり、そこには私の「じれったさ(待ち遠しさ)」がある。この飛ばせない時間は私自身の持続と一致していて、まさに長時間露光撮影における写真と作者の関係を連想させるのだと。

そしてこう続く。露光時間がもたらすものは科学的、数学的な反応であり、作者の想いなどが写るわけではない。ゆえにそこには物理的時間には還元できないものがある。そのうえで青山は4つの時間のレイヤーを指摘する。樹の生命の時間。被爆後の放射能の半減期の時間。長時間露光撮影の時間。作者の生の時間。少なくともこの4レイヤー分は現在進行形の「時間」として「Remains」には内在している。

 

 

② ラベル記録的な歴史の時間 

本作の最も重要な鍵が「被爆樹木」というラベルで、すなわち、2つの原爆投下の場所と年月日(=1945年8月6日・広島、8月9日・長崎)を意味する。本作が特徴的なのは「8月6日」「8月9日」という、他に代え難い歴史的日時を以って、その歴史的記号性と歴史の中身との双方を作品化しようとしている点だろう。

前者については、本作ができるだけ原爆投下日の1日 × 2都市で撮られている点に現わされている。「戦後○年目」といった節目の年数とともに数字は重要で、絶対的な地点を表わす。揺るがない歴史的事実として固定させるラベルは必要不可欠だ。

写真集を見ると必ずしも全ての日付がぴったり揃っているわけではないが、可能な限り特別な1日の中で撮ることが試みられている。しかし夜間に長時間露光で撮影しているのだから、限界がある。

 

「被爆樹木」は現在、広島で約159本、長崎で50本が登録されている。半径2㎞と思うと多くはないが、1人で一夜に回って撮ろうとするにはあまりに膨大だ。しかも、他の複数の樹木に混ざって特定困難だったり、広島城のように地点名は特定されていてもエリアが広くて探すのに難儀したり、夜間は立ち入れなかったり低木だったりで撮影方法に工夫が必要だったりと、即興性ゆえの撮影現場での苦労話があった。最初は露光時間を8分で撮影していたが、到底間に合わないと気付いて4分に短縮し、プラス補正の増感現像とすることでしのいだという。

www.green-greetings.com

nagasaki.kusunoki-project.jp

撮影年が2005年というのは、戦後・被爆(1945年)から60年、という節目ではあったが、その時点では色々あって公表されず、結果的に2025年=80年後(昭和100年目)という区切りでの発表となった。

年数の区切り、歴史的事実としての年月日の線引きが意味を持つのは、写真が記録メディアであり、被写体が歴史的記録物であり、真の焦点が歴史にあるためだ。冒頭のニエプスの話と接続される。

また、後述するが、歴史的日付にまつわるものを撮るだけでなく、その日付を空間的な制約へと読み替えて撮影を行なっていることが、本作の重要な特性へ繋がっている。

 

 

③作家側の時間 

当然ながら作家にも「時間」がある。

まず被爆樹木に相対し接触するための写真行為として、夜間の長時間露光と、撮影のためのリサーチや移動といった身体的・物理的な時間がある。これは被写体との関係性の中でもミニマムな時間にあたる。

なおかつ作家個人に内包されている時間として、それまで生きてきた人生、作家としての活動キャリア・テーマ性、さらに家族親族など血や系譜の記憶も絡まってくる。前者に比してスケールも形も掴みどころのないものとなるが、「被爆樹木」という歴史的・公的な植物群と相対することで、しかるべき時間性が引き出されることになる。作者と被爆樹木との間に結ばれる大きな、公的な時間は言うまでもなく「戦争・被爆」という長期的時間、歴史だ。

前者のミニマルで物理的な時間と後者の公的で大きな時間は質が全く異なるが、「8月6日(広島)」「8月9日(長崎)」という指標的時間の下で継ぎ合わされ、一つの写真となって表されている。指標だけで自動的に接合されるわけではないし、写真機の機能によってでも接着力は生み出せない。この非なる次元をあわせて一枚に収めるために、作家という人間のテーマ性という名のエネルギー、実存的な懸けが必要となる。

 

作家活動のうえで本作の制作契機として、2005年の個展「硫黄島へ」(ニコンサロン東京、大阪)が挙げられる。本作の撮影を行ったのと同時期で、テーマもまさに太平洋戦争の激戦地となった硫黄島に関するものだった。前年の2004年にクリント・イーストウッド監督、スティーブン・スティルバーグ制作という巨匠タッグで硫黄島を題材とするハリウッド映画の企画が報じられたことで、メジャーな話題になる前に「戦争」の記憶について作品化しておきたかったという。実際、2006年には『硫黄島からの手紙』と『父親たちの星条旗』の2作が同時発表され、日・米それぞれの立場から見た硫黄島戦を描き出したことで大きな話題となった。

 

2025年7~8月に催された作者の個展「WAR REQUIEM Ⅰ」(KOKI ARTS)では、この「硫黄島へ」と本作「Remains」とが連続するテーマとして提示されていた。

critique.aicajapan.com

「硫黄島へ」の概要や制作動機は上記展評や写真集『Remains』寄稿文(伊藤俊治「生命樹の徴」)でも触れられている。「戦争」が作者の親族との関係性によって語られていて、作者の父親は陸上自衛官で、母親の伯父は海上自衛隊員、その伯父の兄にあたる人物が10代半ばで志願兵として硫黄島で戦死している、という背景がある。

家族親族も他者と言えば他者だが、戦後生まれの作者は当然経験しておらず、また直接見たり触れたりすることもできない「戦争」という過去へ、身近な人の記憶そして喪失それ自体を充填するがごとくして捉えていく。いわば「戦争」は喪われた人間の物語によって語られ、それを語るとき作者は喪失の主体となって、喪われた人たちの時間の一部を引き受け、宿すことになっているように感じられる。

 

また写真集での作者自身のテキスト「樹々に寄す」では、樹木を見つめる中で自然と科学文明とヒトとの関係を顧みて眺めわたしているが、その時間の幅は実に大きい。小中学校の同級生を訪ねるエピソードを交えつつ、原爆に代表される現代の文明から、人々の暮らしの営みであった器づくり、太古の土器づくり、そして神話を見渡している。プロメテウスの盗み出した火は土と木とともにヒトに文明を与え生活を変え、土器はその最たるもので、器をつくる営みは今も継承されているが、一方で近代・現代の技術発展によって火はヒトの制御不能な原爆へと姿を変えた。

 

当事者らの喪失も含めた「記憶」を自身の時間として宿しながら関わること。古代、神代から続いてきた時の気配を辿り、「今」のうちに認め、引き出すこと。記憶への携わり方に作家としてのテーマ性があり、政治、社会、文化・・・戦争そして原爆に対する作者の問題意識が作者の時間を形成している。かたや、木々がそうさせたとも言える。

 

 

④樹々の生の時間 

作者のテキスト「樹々に寄す」はこう締め括られている。

古代の人々は山火事のような自然の火のうちに陶土の焼成の原型を見たのかもしれない。火を盗んだプロメテウスは永遠の劫罰に処せられている。土器を焼き始めた時代から我々は随分遠いところまで来た。お前たちは今後火をどのように使うのか?夜風にそよぎながら佇む樹々たちは、死者たちの声をその身に集めつつ沈黙のうちに発光し、私に問う。

 

樹々が作者に(時間を)催させているのだ。

樹々はまさに③作者の時間と対になって、物理的時間と歴史的時間の中身を与えていて、諸々の時間系は独立したレイヤーとして切り分けることの難しい関連の根を張っている。作者のテーマ性によってそれらは接合された、しかしそれが現れるためには樹々の存在が必要だった。眼前の樹々にこそリアルな「記憶」が刻まれているからだ。作者の作品世界が、記憶という時間を現前または想起させるためのビジュアルアートであるとすると、樹々の生と傷の時間こそ根源である。

 

樹の寿命は種類によってかなりの差がある。雑に調べただけでもクスノキ、イチョウは数百年から千年を超え、サルスベリ、シダレヤナギ、ソメイヨシノなどは数十年で、100年を超えるかどうか、命のスケールの差は大きい。ただいずれも被爆しているのだから我々ヒトよりもずっと長く生きており、そして爆風と放射線で深いダメージを負った後も、80年もの時間を生き永らえてきたことは事実であり、見逃されがちな点だ。

 

樹によって傷の現われは大きく異なるが、写真集の樹々は想像以上に葉が茂って生きている。幹の最も太い部分だけを残して全て失われた樹もあるが、「被爆樹木」という歴史のラベルが無ければ素人がそれと気付くのは無理だ。作者も気付かないと言っていた。専門家は爆心地の方向に面しているか否かで発育の差があることを見てとれるらしい。農学・造園の研究者・鈴木雅和は、超広角レンズでの撮影と補正作業、そしてGPS、地上レーザースキャンによる解析を重ねた結果、被爆樹木(幹が一本で移植されていないもの)の8割が爆心地に向けて傾斜していることを明らかにした旨を写真集に寄稿している。

 

傾きはすれど、燃えず枯れず倒れずに樹々は生き残ってきた。80年の間に多くの樹々が力尽きて消えていったのだろうが、写真集の樹々は少なくとも2005年時点では生きていたのだ。被爆を抱えて。生物の体として負った傷、歪みこそが、物理的な事実としての被爆を伝えるものとなる。

 

人間中心の時間の流れの中では、木々はただ立っていて、無言で不動に見えるが、その身には数々の出来事か刻み込まれ、蓄えられている。神話の題材となり、神話を催させるのは、立ち姿それ自体が超越的であるからか。

時を蓄積し、時を象徴する存在。

タイトル「Remains」の由来について、作者はミルチャ・エリアーデ「一度生まれたもの・存在しているものは永遠性を有している」との言を引用し、人間より遥かに長命な樹木はその記憶をとどめながら生きてゆく、永遠性を持つものと捉えている旨を語った。まさにエリアーデこそ「宇宙樹(生命の木)」としてヒエロファニー、聖なるものの顕現する場について、古代インドにおけるイチジクの木を参照し指摘している通り、本作ではヒトという生物種に対する樹木の永遠性、神話や聖性への繋がりが重要となり、作者の他の作品全体を通底するテーマ性としても重要な世界観となっている。

 

夜に長時間露光で撮られていることが、ここで意味を持つ。星は動き、枝葉の一部は揺れ、樹は止まった時間の中で生きている。都市空間で人工的な波長の光が干渉し、夜空と木々は異様な妖しい色をも宿し、目に見える現在景を超えた時空を感じさせる。テクノが生み出す現代都市的なアウラは古代の神聖を実感させる。(こればかりは写真集よりもやはり生プリントに対峙して強く胸を打たれたところだ。)

 

だが、やはり樹木には生物個体としての寿命がある。

 

 

⑤歴史を語るもの 

戦後80年という時期は絶妙である。

「人間でないものも戦争を経験している」という作者の言葉にひどく納得した。近い将来、被爆樹木しか戦争・被爆のことを語れる生命がいなくなるという時代に突入するのだ。

私が長らく実感し懸念していたのが、戦争や被爆の実態・実体験を語る当事者がいなくなると、「戦争」「原爆」などは著作権フリーの物語素材のようにして拡散されるだろうということだ。戦争は事実(史実)から離れて、解釈自由な物語、そして改変・創作自由な物語として扱われるようになる―戦争のフィクション化を意味する。

その兆候は個人的体感でいうと、小林よしのり『戦争論』(1998)ブームあたりからむらむらと露骨に起きていて、第2次~第4次安倍内閣(2012~2020)において異様にライトな国家観、歴史観への顕著な変質があり、靖国参拝はファッション化し、百田尚樹『日本国紀』(2018)ブームは、「歴史」は個人の主観と好みで編纂してよいものという、完全なフィクション化であった。

かたや、並行して地球上に強烈な加速と破壊をもたらし続けてきた「フェイクニュース」旋風は、第2次トランプ政権(2024~)に至ってもはやSNS上の社会現象、トランプ大統領の選挙戦専用ミームであることを超え、ホワイトハウスから発せられる行政権力、軍事権力、そして国家間の外交圧力そのものへとステージを移し、フィクションどころか「事実」を破壊または無視して主観的好都合の「真実」へ置換する政治が実際に執り行われている。 

 

後段は日本の話ではないにせよ、「歴史」や「事実」がここまで徹底的に破壊され、上書きされて流通される時代が他にあっただろうか。他の時代も今と同様、もしくはもっと際どく酷い権謀術策、情報戦、流言飛語の争乱の場であったかもしれないが、しかし戦争・被爆という「歴史」が実体を失う節目を迎えようとしているのは事実である。それを歓迎し、既得権からの奪取だとばかりに喧伝して私的フィクション的「真実」を語り販売する層が出てくるのが目に見えている。真実の物語は経済なのだ。

 

作者の活動は「被爆樹木」という新たな・そして最も古い歴史証言者の存在を表にし、歴史破壊の暴風に抗することに繋がるだろう。

 

 

こうした様々な時間の系を「「8月6日(広島)」「8月9日(長崎)」という指標的時間によって接合し、壮大なエネルギーや歴史性や社会的警句へのリンクを備えたインデックスとして提示するのが現代美術における現代写真の手法の一つであるが、これについて考え語る時間がないので割愛する。まさにトークでは作者の師匠である畠山直哉『津波の木』が参照項として示された。

www.shogakukan.co.jp

またもうひとつのルートとして、樹々の神聖さと古代の時間、そして火の力について考えたかったのと、それらの力を催させる「夜」という空間についてもルートを拓いてみたかったが、旅をする時間と文字が足りない。本作には超考古学への誘いがあるのだ。これは皆さんにお任せします。

 

( ◜◡゜)っ 完(終わってねえ