nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART】2026.1/17-3/22「笹岡由梨子のパラダイス・ダンジョン」@滋賀県立美術館

これは展示レビューというよりも、作品への出逢いと執着のようなものだ。

 

《プラナリア》(2020-2021)に再会できた。いや再会しに来たと言っても良い。規制と抑圧に満ちたコロナ禍真っ只中の2021年9月、京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA(当時は堀川御池ギャラリー内)でのグループ展「Lost in Translation」にて、その作品と遭遇した。8組ものグループ展だというのに《プラナリア》の記憶しかない。圧倒的だった。私の意識の一部を書き換えられる儀式となっていた。

 

暗黒が踊っているというのはこういうことだと痺れた。

 

死がテーマ、というか主役である、しかし私の知っている「死」とは手触りや実感が違うし、由来からして全く異なる。私達が知っている「死」の扱い方は、葬りや弔いや役所的手続きとセットであり、あるいは死は医学的・科学的に定義されて管理されている。つまり私達にとって「死」には形があり、闇ではない。だが《プラナリア》は「死」を暗いまま立ち上がらせ、暗いまま活発に振る舞うことを奨励(招霊)する。黒い猿人の司祭がギャングのような出で立ちで蝋燭に火を灯し、魚の頭をした亜人間が様々な「死」の供物となる、そうして様々な死因が招霊される。死という主格が降臨し、そこには見えない「死」が超人格的に降り立っている。

こちらの常識を侵食して覆して書き換えてしまう力に、完全にやられて、痺れた。畏れたと言ってもよい。普通でないことが起きている。

異常な事態をもたらしている要因に、徹底的かつ多元的なコラージュの構成がある。それ以前の映像作品、例えばデビュー作《Untitled》(2011)と続く初期作品《Anima》(2013-2014)、《イカロスの花嫁》(2015-2016)などは、あくまで映像の画像自体が平面上で切り貼りされたコラージュで、ネタ動画的、ミームの延長線上の香りや手触りを残していた。一枚平面のブラウザ内での現象だったのだ。

しかし《プラナリア》は現実としての奥行きを備えたうえで、その中を動く登場人物・事物がコラージュを備えていて、そして繰り返される歌もその歌詞は切断から接ぎ木され、断面が意味の墜落と急浮上の高エネルギー運動をもたらす。一切合切がその調子で、民族衣装、畳みかけてくる要領を得ない警句、様々な国の言語で謳われる死因の名称、それらは戯画化された「死」自体となって迫ってくる。深い谷を刻みながら意識へじわりと速やかに迫ってくる。

 

谷間。

動画なので時間的に連続しているにも関わらず、細かな断崖、谷がある。

 

過去作から最新作まで一望してみると、ここまでの振り切り方をしている作品は他にはなく、むしろ初期作品であるほど谷間を感じさせる。それ以降の作品になればなるほど情報量が増えていくのに谷間は消えていき、協調的な、一枚の「絵」としての調和が高まっていくのを実感した。装飾が増し、立体化し、構造が複雑化し、グループワーク・参加型アートとして仕事量と関与者が増えていき、カオスなように見えるにも関わらず洗練されていくのだ。

つまり制作技法はコラージュ的であるかもしれないが、一作品の中でのパーツ群は一つの大きな意味に向かって揃ってゆき、断絶や段差が見られなくなっていく。《アニマーレ》(2024-2025)、《ラヴァーズ》(2024)はそれまで映像内で構築していたコラージュ性イメージを物理のオブジェクトとして組み上げ、物理空間側に前景化させた。だが表現手法は映像作品の画作りと変わらない。複雑化とともに一枚の「絵」としての完成度が高まっていく。

これは動画映像の制作と性質に関わる話かもしれない。最初期の《Untitled》(2011)《Anima》(2013-2014)の源流には、当時流行していたニコニコ動画の「やってみた動画」シリーズの土壌があった。その逆側にはメジャーで流通するリアルかつ流麗な映像として、ピクサーの3DCG映像、そしてTVで繰り返される東日本大震災の津波と瓦礫のクリアな映像があり、前者のような超リアルな作り物が後者のような現実映像との境界を破り、震災の映像は映画・フィクションと見紛うような非現実さを作者にもたらしていた。

まさに作者は、現実が極まって非現実の域に達してしまった地点から、自身の手でリアリティを取り戻す活動を始めることとなる。主流なメディア映像がフェイク感をもたらすプロセスを簡易に逆転させ、現実のつぶさなパーツを手で組み上げて非現実的なイメージを制作しフローとして流すのだ。映像制作の知識も技術もない状態から「ビギナーズラックで面白いものができて現在に至」ったのが、パラパラ漫画の実写動画、バリ島の影絵芝居めいた、非連続的なガタガタとしたフレームだ。人形を使うのは『チャイルド・プレイ』のチャッキーに着想を得ているらしい。

絵Aと絵Bと絵C…を直接カメラの前に持ってきて手動で操作するという逆説的なリアル動画は、絵と絵の間にいくつもの断絶を孕んだまま一つの「映像」としてパッケージ化される。この雑味の不協和音がコラージュとして作動し、シュールレアリスム的な力を発動させる。一つの表現物の中に複数の由来、次元が、断絶を孕んだまま切り貼りされ、併存しているという状態。そこには谷間の落下エネルギー、そして同時に、全体を維持しようとする反落下エネルギーとの拮抗が満ちている。

 

空間の撮影スケールが拡大し、一画面で同時にキャラ=演者が振る舞うようになった《イカロス》でも、その落下エネルギーは衰えない。キャラクターや舞台の造形が雑であることがシュールさを湛えている。雑というか、永遠に溶け交わらない異物さがそれらをコラージュに留め置いている。

更に洗練され、個々のキャラクターや舞台装置がひと繋がりの映像世界となり、絵柄のコラージュ感が消えたのが《プラナリア》だ。

だがなぜより強く大きな落下エネルギーを体感するかというと、映像画面としてはシームレスだが、意味や常識、日常的感性の地平からはそれらは狂馬のように跳ねて掴めず、意味の同定を許さないものだったからだ。死は理不尽にやってくる、何かが死ぬという自然現象ではなく、祭りの場に降臨する神のようにやってくる、人か猿かそれとも魔族か判らぬものがそれを執り行う、誕生日パーティーの陽気さをY軸として高さをそのままにX軸だけ負へと反転させたような場が、そもそも現実にはありえないシュールとして強烈な落下エネルギーをもたらす。快楽ですらある。

 

その後の作品は調和がある。コラージュは巧みで洗練されたものとなり、矛盾のない一つの造形、一つの「絵」として完成されてゆく。

「完成」とは一つのキーワードかもしれない。本展示では《プラナリア》までの出展作は「完成」を脱していた。原理的に完成しないといってもよい。その後の作品はコラージュの情報量・作業量が飛躍的に高まるがいずれも「完成」がある。労働(労働者)の哀しき責務と宿命を鑑賞者に強引なまでに転写せしめる《 アニマーレ》は歌といい挙動といい不穏な祭典・祭壇そのものだがそれでもオブジェクト内できちんと総合がとれているのは間違いない。

成熟したと言うべきか何なのか分からないが、他者との協働すらも吞み込んで一つの作品としていく中で明らかに力の原理は変質しているように感じる。《ポロニア》(2025)とその関連作品《スクウォドフスカ=キュリーの人生》等のシリーズ群は、自身の親族に映像への出演や木彫りや刺繍などの制作(労働)を協働し、そして本展示での集大成的な《タイマツ》(2026)は、滋賀県大津市の就労継続支援B型作業所「蓬莱の家」利用者とのワークショップ、また滋賀県立美術館などの多数の出演者の協力を経て制作された。

これらはいわば労力のコラージュを成したとも言えるだろうか。祝祭的で見事だった。祭りは一人ではできない。皆で神輿を担ぐ必要がある。そんな美しさとともに生理的な気持ちの悪さも残していて、そのうえで総合をとることに長けていた。

 

最後のインタビュー動画で興味深い話を拾った。子供時代に通っていた絵画教室では、知的障害の子らも席を並べて学んでいたが、作者はずっと悔しい思いをしてきたと語っていた。嫉妬であるという。「やりたいこと全部やられてるみたいな」と。

 

この言葉の意味に、私はしばし後に強襲された。

本展示を出た後、続けて入った同館コレクション展を眺めて歩いていたら、平田猛の作品群に偶然出くわした。それらは脳髄をかき乱した。

no-maarchive.com

シュールレアリスム、コラージュという概念すら超えた世界…  言葉や図像やそれらを取りまとめるフレームが、見たことも聞いたこともない原理によって駆動している。情報の概念をぶち壊す羅列とリフレインと秩序。全く新しい体構造と啼き声をした生物、いや、計算式のようなものに、襲われた。「私」が生まれてから10代までの間にインストールして維持管理してきた数々の基礎演算機能を強引に書き換えるような、未知にして恐ろしく強力な計算式が、否応なく侵入してくる。

不快ではない、しかし感動でもない。美と呼ぶには困難な、ともかく何か野生の計算式―儀式が、「私」の中へやってくる。

 

 

《プラナリア》は全くそういう作品だったと思い至った。

 

「私」を書き換えようとする力に、私はどこまで出会い、そしてどこまで受け入れることができるだろうか。

 

( ◜◡゜)っ 完。