nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【KG+_S8】【写真展&トーク】2025.4/12-5/11_伊藤妹「Intangible~カタチノナイモノ」@京都駅ビル7F 東広場北ピロティ

人との繋がり、関係性と記憶について。「KG+」参加5年目で「香水」という新テーマを発表した作者に、トークショーで話を聴かせてもらった。

1.香りを巡って

トークの依頼を受けた際に「今回は香水の写真」と聞いて、どんな展示になるのか想像がつかなかった。貰った展示イメージ画像も、光のゆらぐ束の抽象的なもので、作者が一体何をしようとしているのか見当もつかなかった。

 

テキストを受け取った段階では、香水や記憶といった「見えないもの」を扱おうとしていることだけが分かった。

作者が香水に関心を抱いた理由は、「香り」というものがどうしようもなくダイレクトに記憶を呼び起こし、具体的なモノの香りから季節の空気の何となくの香りまでもが強く働きかけることにあった。なぜ記憶が無意識で強く喚起されるのか?

 

「香水」も「記憶」も目には見えない。目にはモノとして見えない「記憶」を、遺物やランドスケープや建物から、存在感の痕跡あるいは地名などの記号から喚起させる、そうした作家と作品には具体例がある(石内都、米田知子、大坪晶など)。しかし、香水の香りそのものをいかに写真と結びつけるのか?

 

ここで作者は意外なことに、自分自身の記憶や感情巡りをするのではなく、他者を巻き込んだプロジェクトとして本作を進めていく。香水にまつわる個々人のストーリーを聴き取り、更にその言葉を作者のみならず、協力者の手を借りて刺繍することで、言葉=記憶の共有、伝達を図っていった。

なぜ自分個人の言葉ではなく、あえて身の回りの友人知人らをつてに、香水についてインタビューしていったのか。ひとえに「他者に関心があるから」だという。常に人との関係性を考えている作者にとっては、「香水」を切り口にすることで人々の記憶やパーソナリティを掘り下げられるだけでなく、「香り」というものの実体にアプローチすることにもなるからなのだろう。

 

だが作者のアプローチは想像を超えていた。話を聴いたその人から香水を借りて、その香水を付けて1日を過ごすのだという。何故、その人をまとうのか? その人になりきることで、その香水の匂いから、その人の存在や言葉を思い出すまでになるという。

香りの持つ記憶の喚起力に注目させられる話だが、もう一点重要なのは、関わり合った人と、自身とを重ね合わせ、距離・境界を限りなく無くしていくこのアプローチは、過去作「抱きしめる人」シリーズと全く同じなのだった。

 

 

2.作品・展示のすがた

実際に展示を見るまでは、コンセプトとアウトラインは理解しつつも、実際に「見えないもの」を作品・展示でどう具体的なビジュアルへ立ち上げるのか、また、これまでの作品との関連はどうなるのか、全く想像できずにいた。

 

4/12(土)、KYOTOGRAPHIE開幕日、もとい「Intangible」展開幕日に現地に行ってみると、天井とガラス壁に囲まれた駅ビルのピロティを風が吹き抜け、天井から吊り下げられた大小の作品が揺れていた。小さな写真作品の方はもはや舞い上がっていた。大きな作品の方はタペストリー式で、ゆっくり回って前後の向きが変わる。香り、形の無さ、しかし確かに在るもの、を表現するのに、風が絡むのは合っているように思えた。

が、ビル風は強すぎ、作品が本当に飛ばされる恐れがあるため、安全面から展開方法を再考するとのことだった。4/13(日)トークのため再来した際には、垂れ幕は紐でウェイトに固定されていた。今後も会期中に展示形態は変更されていく可能性がある。

 

実装された展示と作品を見て、更にトークで次々に流れ出てくる言葉によって、展示やステートメントのピースは「作品」として一つの形となり、読むことができた。

 

作品は3系統から構成される。①香水のイメージ写真(垂れ幕の上部、壁に直貼り)、②インタビューで語られた香水にまつわるエピソードの刺繡(垂れ幕の下部)、③作者のスマホから再発見された様々な写真(吊り下げ)である。

①と②はほぼ一体のものとして提示され、香水の瓶を光に照らし、瓶の姿や透過光を撮ったものだ。香水のブツ撮りが目的ではないのと、ブランド名を隠してイメージを気化させているため、多くは抽象化され色のついた光のイメージへと還元されている。意味の同定を避ける写真だ。

 

②の刺繍に、本作の最大の意味がある。知り合いなどから聴き取った香水にまつわる想い出、エピソードをまとめたもので、言葉が手縫いされている。

言葉は意外に多彩で、香水の香りに言及する人もいれば、香水が家や手元にあることの意味や、香水をつける個人的な意味についてであったり、自分自身の観点から香水への思いを語るものから、香水をつけていたパートナーや親などとの関係性を語るものもある。

こうして「香水」の「香り」から、その人達の知られざる面が露出し、様々な角度から乱反射するように、本人にも見えていなかった角度で、その人の顔・表情が、人物像が映し出される。この構図は、作者の代表作「エイリアンの子」で作者が準・セルフポートレイト的に自画像を分散させながらそれらを自己として掴み直したのと、相似形を成すのではないか。

 

 

3.つくられる記憶

香水についてインタビューし、語りを刺繍する工程では、「記憶」について深掘りがなされている。

 

香水という形のないものについて語ってくれ、と言われると、商材として扱っている人でない限り、恐らく多くの人は嗅覚や視覚に基づき、私的な記憶を語ることになる。今そこにあるモノや情報としてではなく、かつて感じた嗅覚として、あるいはそれを使っていた人物の話として、記憶から語ることになるだろう。

「記憶」を語ろうとするとき、再構築がなされる。まだ活性化された直近の記憶、直近の「思ったこと・感じたこと」であればセットものとしてそのまま取り出せるが、これまでアウトプットの履歴がないセンテンスや、不活性な記憶は分散化されて眠っていて、問いによって話者は情報や印象を再結合させ、再構築して出力する。

警察の自供・自白があてにならないのは、取り調べが不可視で暴力的だからというだけではないだろう。「思い出して語る」という行為自体が常に再構築、不確かな想像や創造(そして棄却や忘却)に満ちているからだ。言ってしまえば大なり小なり、誰もが創作の泡の中に生きている。作者はその度合いが大きかったために、記憶というものに向き合わざるを得なかったのだ。

 

そうして再構築により出力された「記憶」の言葉を、話者とは異なる人たちが刺繍の作業により定着させる。手間暇の掛かる作業を通じて、他の人へ記憶の共有化、身体化がなされ、印刷物ではなくモノ化することで、観る・読む側にもまた別の印象をもたらす。例えば、展示初日時点では刺繍作業が間に合っておらず、画数の多い漢字が下書きのまま飛ばされたりしていて、単なる文字情報とは異なるコミュニケーションの実践のようなものがある。

 

スマホ写真については、更に話題が先に行く。ここでは記憶の死蔵と記録性の話がある。展示された写真のセレクトは作者のスマホに溜まっていた写真群だが、言われなければ香水とエピソードに合わせて撮られたイメージカットのようにも読めてしまう。写真の可読性と誤読性の話題も孕みつつ、ここではスマホ=身体化した記録デバイスの特徴と役割である、無制限の記録性が焦点となる。

スマホ写真とは、人間のメモ撮り、記憶の外注化をしたもの=反自然的な「記憶」の形、であると言えよう。しかしスマホ(内の記録媒体)に記録はされるが、スマホ自体がそれらを再構築して情緒的意味の繋がりのあるエピソードを語ってくれるわけではなく、すなわち「記憶」として生成することはなく、状態としては死蔵のままである。実際に、不意に出てきた過去写真を見ても、それが何だったか思い出せないという事態もしばしばある。

このことは香水などの「香り」が理性の制御を無視して記憶を呼び起こすのと対照的である。

 

何かを思い出して語ろうとする行為は、形のないものを紡ぎ合わせて再構築して意味を生起させることであり、その行為は忘却と常に紙一重である。かたや、忘却を防ごうと外注化すれば、それはそれで記録のデッドストックとなりうる。①②に③が加わることでそうした記憶と記録という似て非なるものが提起される。

「つくられる記憶」、固定された機械的な正答ではなく、不安定かつダイナミックな再構築行為に対して、作者は肯定的に捉えているように感じられる。

 

 

4.テーマ性

こうして、見えないものを写真で扱うこと、「記憶」をめぐる再構築・物語性、そして記憶の他者への共有化、記憶の定着化、記憶と記録の違い、死蔵と忘却の違い ・・・といった、複数のテーマが本作にはある。いずれも現時点ではテーマ性の発見と提起というか、様々なインスピレーションを孕んだ複合体として本展示はある。作品自体やテキストからはテーマの構造がまだ見えないが、話を聴いていると次々にそれらの繋がりが明かされたことから、体現されるのは時間の問題のように思われた。

 

まず前提として、作者は個人的な事情から離人感や現実感の喪失を抱えていて、記憶の定着に難があると公言しており、トークでは過去の交通事故の影響が語られた。また、過去のステートメントではナルコレプシーの影響にも言及されている。全く違和感は感じなかったので何とも言えないが、作者自身が長年、意識や記憶について問題視し、そのことをベースに考える中で、他者との差異、他者との関係を重視するようになったと察せられた。

香水などの「香り」が引き起こす突発的で強いリアリティを伴う記憶の喚起は、こうした事情から負っている既視感(デジャヴ)と未視感(ジャメヴ)の体感と近接するものがあるという。

 

過去の主要作品「エイリアンの子」と「抱きしめる人」(と、その元になった「SLOW SLOW」)はそうした作者自身の異質さ、周囲からの扱い、周囲との記憶・認識のズレ、他者との関係性の再考、そして癒し…などを出発点とし、主テーマとしてきた。

 

2020年の初個展「エイリアンの子」(@IG Photo Gallery、2020.11-12月)以来、作者は外部(社会)との接点を写真で探り、都市のガラス面や路面に乱反射し分散する自身の像をスナップしてきた。この時、参照項として明示されたのはリー・フリードランダーである。

www.igpg.jp

自身(個人)と社会との接点として、都市空間に反射し散乱する自己像が撮られ、自己も含めた世界そのものがリアルなきイメージだけから成り立っていることをフリードランダーは示したのだが、一周二周回って伊藤妹の世代ともなればイメージの散乱・分散にこそ、モノラルな逃れ難き自己の救済地点として唯一性の回復を求める領域が見いだされるのだ。そして前述のように、本作「Intangible」イメージ乱反射の主体を他者(相対する二人称)にずらして適用させ、逃れ難き・選択肢なきリアルな「私達」にその他でもありうるという「可能性」を担保させ、癒しとして確保することと対応している。

 

一方で、「抱きしめる人」(前「SLOW SLOW)シリーズでは、裸で他者と抱きしめ合う自身をセルフポートレイト撮影し、相手を癒そうとする行為によって、逆に自らが癒されるという関係性を表現した。他者との距離をゼロにし、自己を無化してゆくことで「私達」という新たな人称を得て、却って自己が回復し、生存を得る。これは本作「Intangible」で他者の香水=エピソード、記憶、存在感を作者自身が纏って一体化し、不特定の「あなた」と「私」が混ざり合って「私達」として再構築されることと同一の取組みである。

www.hyperneko.com

 

これら2シリーズの従来作では、「自分」という存在を一点のコアに集中管理することが困難なことを作者自身が認め、自己対他者(外部)の二元論を脱し、拡散的に反射し散乱する関係性の中に自己を在処をセルフケア的に容認していく。そして同じく異物感を感じている人と一体化するというボディケアを通じて、「自分」を飽和させ散乱を収めることが試みられている。

本作「Intangible」との関連性が、トークによって明らかとなった。これはトークショーがなければ気付くことができなかったポイントである。

 

 

更にもう一つ、作者の主要な活動として、「函館写真館」という、生まれ育った地元・函館の漁業や農業など一次産業従事者を取り上げた写真シリーズがある。2024年「KG+」では「函館」というタイトルで発表され、これまでの2シリーズとの違いに驚かされた。完全に自己の外部の人達を撮る、広報やドキュメンタリー方面の写真だったのだ。

tasselhotel.jp

だが他者(それも特別ではなく、市井の、普通な人)の存在感、言葉を、できるだけそのまま尊重して受け取り、ビジュアル化するという表現スタイルは、まさに本作「Intangible」で試みられた会話、インタビューと刺繍に共通する。「抱きしめる人」のダブル・セルフヌードの印象が強すぎて見落としてしまうが、実は根底でやっていることがどれも共通しているのだ。

本作は従来作のエッセンスを複合化した取り組みであるということが、よく分かった。あとは練度で、見せ方、語り方が工夫されていく中で、明確になっていくものと思われた。

 

 

リー・フリードランダーに寄せて考えるなら、かつての写真の議論でいう「鏡と窓」の分類論でいうと、作者はそのどちらでもなく、お風呂の水面のように、反射しつつ、主体を受け容れ、一体化しながら互いの存在を温めてゆくものに思われた。

 

( ◜◡゜)っ 完。