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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】至近距離の宇宙 日本の新進作家Vol.16 @東京都写真美術館

【写真展】至近距離の宇宙 日本の新進作家Vol.16 @東京都写真美術館

藤安淳、井上佐由紀、齋藤陽道、相川勝、濱田祐史、八木良太の6名が、身近なものを主題・手法としながら、刺激的な作品世界を展開する。

【会期】2019.11/30(土)~1/26(日)

 

東京都写真美術館が毎年(HPで過去分を辿りきれなかったが、2002年から年1回ペースで、テーマを設定しながら開催)、大体12~2月頃に実施している、新進作家のグループ展。未来の写真・映像表現の可能性に挑戦する創造的精神を支援するという趣旨。毎年とても楽しみにしています。これ面白いんですよ。「今」の写真が分かる、写真で「今」が分かる。

今回、6名の作家がノミネート。それぞれが個性的な表現手法、テーマを展開する。以下、順路の順で紹介。 

 

 

◆藤安淳《empathize》シリーズ

日本語で「共感する、感情移入する」意のタイトルを付されているのは、登場人物らを旧来の「双子」という表象では扱わない姿勢を明確に示している。主題となるのは、双子の二人が別個の存在であり、別々の人生を送っているという事実であり、しかしながら、二人の内に確かに存在する、穏やかで強い繋がりについてである。

既に作者のテーマ及び作品を知っていたので、私は「双子」という枠組みからは逃れ難く鑑賞してしまったが、もし予備知識なく本作を体験した場合、その見え方はどうだったろうかと興味深い。 

本作に登場する「双子」のビジュアルは、双子「らしくない」。言われればなるほど、確かに「双子だ」と思うのだが、一見すると年齢や生活環境の異なる、フラットな兄弟姉妹にも見える。服装、髪型、メイク、姿勢や物腰、表情、部屋の背景など、多くの点で二人は異なっている。似通っているのは遺伝子とその設計に伴い構築された身体だ。二人がそれぞれの人生、生活の中で、無数の選択と分岐を繰り返していった結果として、他者としての差異が日常的に表出する。例外的に、年齢の浅い子供の場合は、親が同質性の高い環境や服装で育てるためか、非常にイメージに適った「双子」の姿をしている。

つまり、双子でない我々(面白いことに「双子」の反対語が見つからない)は、「双子」に対して、ある定まったイメージを期待しているらしいことが分かる。規格品の皿を携えてイメージを受け取り、皿に合わせて摂取する態度、これは何なのか。

 

「双子の写真」でありながら、そう見えない最大の理由は、作者自身が双子であるためだろう。本作は、当事者からの申し立ての写真と言ってもよい。「双子」、ダイアン・アーバスでも、「シャイニング」でも、「きんさんぎんさん」でも、何でも良い。これまで「双子」は、神秘と謎の十字架を背負わされた表象だった。彼ら・彼女らは、マジョリティのための眼の娯楽、視覚の迷宮のために、そこに並んで立っていた。イメージが全てを語り、イメージの消費こそが至上命題であった時代はそれで良かった。だが、昭和も平成も既に終わった。メディアの山脈から流れてくるイメージの霧は晴れ、そこには現実――それぞれの生活と人生、それぞれの意思を有する個人が生きている世界が広がっている。そこでは「双子」の特権的称号も無化される。

藤安作品は、「双子」らをイメージの十字架から静かに下ろし、それぞれのパーソナルな人格、生活、人生へと解放するものとして重要な転機を語っている野だろう。

 

 

本作を観たのは二度目で、初回は「KYOTOGRAPHIE」サテライト展示の「KG+SELECT 2019」だった。その時とは比べ物にならないほど良い展示になっていた。前回の会場は、元・小学校の校舎をほぼその当時の環境のまま活用したものだった。更に、設営に際しては、各作家が与えられた予算に応じて自由にインスタレーションを組めるという、一見好都合なシステムだった。しかし、本作のような繊細かつパーソナルな主題を扱うには、写真の声を丁寧かつフラットに掬い上げ、響かせられる空間でなければ難しいと、改めて実感した。

 

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◆井上佐由紀《私は初めて見た光を覚えていない》シリーズ

生まれて間もない新生児の眼を撮った作品。母胎から外に出てきて5分ほどの間に写された眼は、「見る」ことの根源的な始まりを現わしている。 

私には子供がいないので、赤ん坊という生き物がどういう存在かを知らない。理想的なイメージとしての赤ちゃんしか知らない。本作を通じて、その未知の生命体をまじまじと観察することとなったわけだが、生まれたばかりのその眼は、時にとても人間ぽかったり、逆に時には深海魚のように暗かった。目は開いている、しかし眼の奥にはまだ光が宿っておらず、外界の何処にも焦点を当てられず、「見え」てはいないようでもある。視線未満の眼差しである。

 

生まれたばかりの眼が何をどう捉えているのか、この子たちには何が見えているのか、こちらから知る術は全くない。目覚めの悪い寝起きのひと時のように、遠近も解像もなく、明暗や、ぼんやりした色の塗り分けだけがあるのだろうか。黒目の中にはまだ瞳の表情がなく、ただただ黒い。操作方法の分からないマニュアルカメラのように、「見る」こともままならないのだろうと思う。

初めて外気に触れ、光に触れ、距離感の掴めない奥行きに囲まれ、異物に囲まれ、圧倒的な情報量の中で、試行錯誤を繰り返し、怯えたり驚いたり、不快さや恐怖に泣いたりしながら、「見る」動作を習得し、外界を、圧倒的異物を受け容れてゆくのだろう。

 

思い起こされたのは最近話題の書籍『ケーキの切れない非行少年たち』(2019. 新潮文庫 / 宮口幸治)だ。この本では、犯罪、トラブルを繰り返し起こす非行少年らの多くが、目が合った → 「笑われた」「馬鹿にされた」と極めて短絡的に暴力沙汰に至るのは、不道徳さや非常識さといった精神の問題というよりも、実はそもそも、視覚や聴覚で外界の情報を正しくインプットしたり、それらの情報を整合して処理することが出来ないためであると解説していた。衝撃であった。

年老いた我々にとっては、「見る」という動作はむしろ「見える」「見えている」とでも言うべき、自然現象に近いものになっているが、その動作・行為の元を辿れば、自転車に乗ったり車を運転するのと同じ事だったのだ。眼球という異物を試し、視神経を試し、時間をかけて自分の一部へと手繰り寄せてゆく。本作の連続する眼の写真からはそのようなことを感じた。

 

ただし本作は、そうした新生児の生態を近代的な観測によって伝えるだけの作品ではない。また、生まれた生命の神秘的な様子を賞美するだけの作品でもない。

本作が捉える射程は、生だけでなくその逆側にある老いや死にも及ぶ。その両面における「眼」の光と黒だ。一枚の、高齢者の眼を捉えた写真が、新生児らのコーナの外側に置かれていた。この一枚によって、作者のスタンスが生命の神秘を賛美するだけのものにも留まらないことを物語る。作者はヒトの眼の奥にあるものが、生と死の根底に連なって流れていることを指摘しているのだろうか。生後、何十年も経過してしまった私たちは、既に、確実に、閉じゆく瞳の黒さへと近付きつつある。 

 

 

◆齋藤陽道

今、話題の写真家である。みずみずしい日常の、生命力に満ちていて、強く背中を押されるような写真が人気を呼んでいる。その精力的な活動は、個展、写真集、エッセイに留まらず、ドキュメンタリー映画の制作・公開にまで及んでいる。 

大きな壁面に、1st写真集《感動》(2011)の全作品・121枚全点を展開している。当然ながら、写真集を1枚1枚めくるのとは全く異なる体感があった。全ページを一枚の壁で俯瞰するのだから、文章を一読するように把握できるのかと思いきや、迷路に迷い込んだ。

これまで齋藤作品に積極的に触れてこなかったのは、奥山由之や川島小鳥のように、ある種のファッション性、万人が好む軽やかな瑞々しさ、ともすれば否定し難いエモさの予感から、苦手意識を抱いていたためだが、しかし作品は、簡単には踏破できない重み、濃度に満ちていた。

 

写っているのは、いつも・どこにでもありそうな日常なのに、作者が出会っているこれらの光景は、その瞬間にしかありえない。決定的瞬間と真逆の瞬間は、いかにして開かれたのか。ここに至って、タイトル「感動」の意味が効いてきた。

「感動」とは、作品が素晴らしいですよ、とか、これは感動的な内容ですよ、とか、作者はこんな一瞬一瞬に感動したんですよ!? などというものでは、全くなかった。何か警戒し過ぎていたらしい。作者が眼前の対象、光景に対して、自身の全感覚を開き、しっかりと掴みに行き、受け容れている、その精神の、能動的な運動のことを「感動」と呼んでいるように感じられた。

 

言葉で書くとこんなに簡単に済んでしまうが、事は全く簡単ではない。相手が今、生きていることを肯定し、その周囲に広がっている空気、時間の一切を引き受けて映像化するには、徹底的に、その身を懸けて受け容れなければならない。制度によらない、個人による個人のための、DIYの民主主義を感じた。受け身で心を動かされる消費的感動ではない。相手の生を肯定し受け容れるために自身の精神を動かして開く「感動」だったのだ。

 

 

◆相川勝

写真の手法を、現在普及している新しい画像ツールや映像体験へと積極的に忍び込ませる。意欲的な試みだ。

《landscape》(2019)は格別に良かった。ゲーム世界の可能性へ写真でアプローチしているからだ。

荒々しくざらついたモノクロの風景写真は、オープンワールドのゲーム空間内の光景である。それをプロジェクターで投影し、感光材を塗布したパネルへ印画したのが本作だ。物理の世界にない光景、光学的にレンズで撮られた写真でもない、写真にしては奥行きのない、ガビガビした質感がするのはそのためだ。

ゲーム名は分からないが、明らかに現実の風景(写真)から書き起こしてゲーム内で再構築された、かなり現実的な樹々、建物、道路、雑草などのヴィジュアルは、大容量と高解像度が当たり前のものとなりつつあるゲーム界において、どんどん自然な風景となっていくのだろう。私自身はプレイステーションを未経験だが、現在のPS4の売れ筋ソフトでは、パンデミックや核戦争、人類のゾンビ化などによって荒廃した地球を舞台に、プレイヤー達が自由に散策しサヴァイヴする作品が多数見られる。現実の地球は、全く自由に歩き回れない。

経済や通信のグローバル化による越境が進む一方で、物理的には政治的リスクや突発的な自然災害の多発、そしてこの度の新型感染症の流行など、多くの困難が勃発している。現実、Webに次ぐ第3の居場所として、ゲーム世界が高精度な仮想の地球として開発され、ゆくゆくは馴染み深い「風景」として記憶されることになるのかも知れない。ゲーム世界へ写真がアプローチすることは、個人的にはとても重要なことだと考えている。 

 

 

相川作品は、写真という技法の意味を広く捉えており、本人は撮影行為を行わない。映像の転写と印画、そして発表の形態が写真的であるが、フォトグラムを最大限拡張させてタブレットスマートフォンなど現代のデバイスに適用させる。

他にも《#selfy》(2019)シリーズではAIがランダムに生成した人物の顔をタブレット端末に表示し、印画紙に密着させて印画したり、《layer(photoshop and dragged smartphone)》(2019)シリーズでは、印画紙の上でスマートフォンをドラッグ(PC画面上でファイルなどを選択したまま画面内を移動する動作)させた軌跡を写し込んでいる。操作する作者の手は、photoshopの画面上で起動する「手のひらツール」のイメージと重ね合わされ、アプリケーション内で行われる写真行為の動作を記録・表現したものとなる。

常々感じているのが、OS上やスマホ内アプリケーションでの写真編集・現像にせよ、VRやAR等の新たな映像体験にせよ、これまでの近代的産物である写真技法(=外界の事物を光学によって、平面の映像として記録・表出する) では、的確に捉えることが難しくなってきている。ではどのように「写真」はアップデートされるのか? その問いに切り込む取り組みであると感じた次第だ。

 

で、

調べてたら相川勝はCDsという作品も作っていたことを知った。

 

 

( ´ - ` ) えっ、

 

 

うそやんそれ知ってる、

 

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あうっ。

 

これは衝撃だった、

 

実際の音楽、主に90年代までのロックやメタルなどの世界の名曲のCDを、手作りで力技で複製したものだ。ジャケから背表紙(帯、キャップ)から手書きで模写し、更には自身のアカペラで曲まで複製する。もちろん作者は歌手でも何でもないので、異様な脱力感に溢れた謎歌唱、とんでもないB級C級魔界になっていた。1分も聴いておれぬ脱力だったがそれを複数のアーティストのアルバム全曲分収録したのだろうか、鬼だ。プライマル・スクリームパティ・スミスクラフトワーク等を相手に、そんな徒手空拳をやっていたのである。「人類にはやれることがまだ沢山ある」と、謎の奮起を促されたことを思い出した。会場では気づかなかったが、そうでしたか・・・ あのCDsの・・・ そうでしたか・・・。 

 

 

◆濱田祐史

日用品の見立てによって人工の風景を生み出す作品。回りくどさのない映像は、「~のように」を取り払って、直喩を展開する。それが成立するのは、私達の内部にイメージが先行して搭載されているからだろう。

《Watermark 》(2019)シリーズは、海の波を夜間に長時間露光で捉えたもの、ではない。水をモチーフとしたイメージを印画するため、ソルトプリントの技法で単塩紙を手作りし、紙の上にサランラップを乗せて太陽光で露光している。

海の波が帯びる光の揺らめきや、海中を漂うプラスチックの気配が現わされている。だが、海も水もないところから、作者は写真の技法――光と印画紙と、物体の透過によって、それを現わそうとする。ソルトプリントは紙に塩と硝酸銀を塗布して紫外線で感光させるが、「海」をモチーフとするため、作者は東京湾の海水を使用している。

 

このヴィジュアルは私にとって、同じ「波」でも、無明の中を横に走る電流を思わせるものだった。それは、意識の波である。脳内で無数に興る意識の根源が、物質の代謝と電気刺激の伝達であるならば、世界は電流の走る、暗い未明の惑星へと還元できるだろう。そんな、言葉や像の生み出される前の、意識を生じる元となる波を、そこに見ていた。 

《wall #01》《wall #02》(ともに2019)も、《Watermark》シリーズの一環で、同様に単塩紙を作っているが、紙が1.5m×2.2m近くあり、かなり大きい。それは奥行きが一切なく、黒、グレー、焦げ茶色の斑となっており、また紙の質感がごわごわしているため、写真と言うより銅板か抽象絵画の趣がある。

 

《Primal Mountain》(2011-2019)は、見立て作品の傑作だ。《Watermark》に連なってゆく原点である。

 

それらは様々な山の頂である。

以前からWeb上でしばしば目にしていたが、このミニチュア感と奇妙な遠近感は、本城直季のような撮影上の技術の操作を加えることで生じたものだと思っていた。違った。アルミ箔を皺立たせ、山の頂のような形を作って、空をバックに撮影していたのだ。

だが解説を読むまでの私は確実にそこに「山」を見ていた。そして解説を読んで構造を把握した後もなお「山」を見ていた。不可解な話だ。何故かそれらは「山」なのであって、素材や技法のことは問題にならなかった。だって山なのだから。

 

私は何を見ていたのか?

この山は現実に存在しないので、いくら見つめても正解がなく、名もなく、辿り着くことも出来ないのだ。しかし私は会場にいながら、北や南のアルプスのどこかの稜線上で、空の方に聳えているこれらの山頂を見やり、あれは骨が折れそうだ等と登頂までの時間を計算していて、その二つの自分は違和感なく重なっていた。空のブルーは大気が薄く、零度を下回る冷気と大量に降り注ぐ紫外線を思わせる。白と黒の銀色に輝く山肌は、どこも薄く凍った雪に覆われた岩石の塊で、どこにもアイゼンを蹴り込んで身を固定できない厄介さを想像した。

自然の果てにあるのは人の手の及ばない、死の世界だ。「生」を拒絶する「山」の本性は、身近な人工物によって、逆説的に急接近できるものだった。何やら重要な示唆に富んだ作品だった。

 

 

 

八木良太

「オプ・アート」や「キネティック・アート」と呼ばれる類の仕掛けにも似た、視覚の実験、操作に満ちた一角である。展示のステートメントはこう書き出される。

ひとつのものを見るとき、隣人が同じものを見ていても、同じように見えているわけではない。立体視や、錯視に関する作品を作るうちに、そう感じることが多くなってきた。知覚は交換不可能だから「ある人に見えて、ある人には全く見えない」といった不思議なことも当然起こり得る。

写真の展示というよりも、写真という表現、メディアが依拠しているそもそもの原理、「視覚」について、個々人の身体に直接、問いかけてくる展示である。公園のアスレチックコーナーで遊びながら、全身の様々な挙動を再確認していくように、視覚の受容と処理のプロセスに生じる様々な異変を身体で試してゆく。

まさに現代の写真は、テーマ・被写体、撮り方、伝え方を再考し、多様性、声なき声、他者性といったものへの眼差しを持つよう、態度と文体を自己批評しながらアップロードし続けてきた。だがその苦心は冒頭のテキストのように、その写真を受け取る側の受容器官と処理能については言及しない(できない)ものであった。受け手の正の多様さ、負の多様さは不問のままだ。

 

展示ステートメントの続きを引用したい。

  一般的に、鑑賞者は制作者の見ているものを見ようとする。そういった関係を反転させてみたかったので、特定の色覚を持つ人にだけ見える、色覚検査表のパターンを応用して作品を制作してみた。そうすることで、私には見えないものを提示できると思った。検査表をスキャンして、そこに用いられている色を数値化していると、私の肉眼では同じに見える色のB(RGBのBlue)値が微妙に異なっていることに気づいた。つまり、赤緑色覚異常のある人は、青色のグラデーションの差を、健常者と呼ばれる人たちより繊細に見分けることができるということだ。

 

本作では、色彩や、立体と平面、静態と動態、ゆがみ、拡大と縮小など、「視覚」が様々な形で揺さぶられる。「視覚」が認知に占める割合は極めて大きい。それゆえ自分の視座がまず大前提となり、知らない間に絶対のものとなっているが、その前提がそもそも共有されない可能性について、顧みるきっかけが与えられる。

 

 

∴おもしろかった

 

( ´ - ` ) 完。