nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】イシダマイ「In a Car Washing Machine」@ナダール

【写真展】イシダマイ「In a Car Washing Machine」@ナダール

 

 「洗車機」というパワフルな、異世界の装置が再発見された。 そのパワーの源泉とは。

【会期】2020.1/22(水)~2/2(日)

 

表参道の青山通り、エイベックスビルの横の道へ入り、更に小道へ入っていくと、ビルの2階にギャラリー「ナダール」がある。アットホームな空間だ。

 

Web版「IMA」での前情報、作家ステートメントや展示タイトルから、作者の人生や死生観と「洗車機」の機構とがリンクされていることが知れたが、一体どんな作品なのだろうか、想像がつかなかった。

 

車を所有しない私にとって、「洗車機」はいつまでも更新されざる、遠い子供時代の記憶そのものだ。(それは長年、レンタカー会社の領分である。) 父親に連れられて、ある日曜日の昼下がりに、不意に突入した非日常なる隙間、エンターテイメントの要素は全くなくて、何かとても衝撃的だったことを覚えている。自分が工場の機械の中に放り込まれたような不思議な思いがしたものだ。外観からでは想像も付かなかった、前後を箱と回転ブラシで覆われ、水を浴びせられながら視界がなくなり、回転の渦の中に曝される衝撃は、注射を打たれるときの時間のゆがみにも少し似ていた。洗車が終わって車が外へ出てきた時には、車のボディだけでなく、自分自身の視界も明るくなったような気がした。そういったことを覚えている。

 

本作もまた、洗車機を介して記憶と今を繋ぐ。そして生まれ変わりにも似た体験が語られる。 

会場入ってすぐ、多数の色あせた小さな写真が壁面を流れ落ちるように並ぶ。家族など親しい間柄の人たち、そして過去の自分の記憶であるそれらは、どれも満ち足りた時間、遡れない輝かしさに満ちている。その隣に、巨大な白い機械が近代的棺桶のように佇んでいる。

 

作者はこの洗車機を「火葬場」に喩える。火葬場は人の生を死へと、最も直接的に、物理的に橋渡しする機構である。言われてみればこの冷たく白い洗車機の横顔は、車のスケールを超えて、私達の生活から切り離されたどこかに、静かに佇む火葬炉の、死を秘めた姿のように見えてくる。

 

壁面いっぱいに大伸ばしの写真が貼り出された細い通路を抜けて、突き当りを左に入ると、小ぶりな部屋の四方は、また更に大画面の写真でぎっしり包まれている。部屋の真ん中に立つと、洗車機にかけられてゆく車の内側から見たように、正面には回転するブラシのブルーが映えている。

洗車機の洗浄の挙動、車の内側から体験するビジュアルはかなり斬新だ。それは機械というよりも、海の生き物や、海の波に近い。視界が濡れていることも生々しさを駆り立てる。写真でその姿を見せつけられたことは今までなかったように思う。

 

作者がステートメントで語っているのは、身近な人達との死別のことを想いながら、棺桶のような洗車機に取り込まれて、死へと身を寄せてゆきそうな、穏やかな誘惑の感触である。だがしかし、洗車機の挙動の中で作者が体験したのは死への傾斜ではなく、むしろ全身を洗い流し、水平に車を「前へ」と押し出してゆく、背中を後押しされるような実感であった。

 

濡れた暗闇はいつしか晴れる。ステートメントの語り出しとは裏腹に、相当な生命力に満ちたビジュアルは興味深いものだった。 

 

作品の展開方法と空間との兼ね合いによって、意味合いが大きく変わりそうだと感じた。

大伸ばしのプリントは洗車機、特に色の濃いブラシの持つ、過激なポテンシャルを予想以上に引き出し、それ自体が独立した生き物のごとき力を見せていた。会場のスケールと写真のサイズ感がそのような効果を生み出したと思われる。作者が本来語りたかったであろう、身近な人達との関係性と別れについては、ブラシの生命力が飲み込んでいた。その意味では予期せぬ、新種の生物を発見したような思いがした。身近にどこにでもいたはずの「洗車機」という装置のパワフルさと異世界の可能性を、ここに再発見したのだ。

思い切って洗車機の作品のサイズを抑えた場合、語られるのはよりパーソナルな思いの方へシフトしたかもしれない。同じサイズでも、例えば会場がニコンサロンやそれ以上の空間で、余白を持って展開された時には、また浮かび上がる意味が大きく変わるだろうと感じた。

 

しかし、ギャラリーからはみ出そうな展開と、こちらへ襲い掛かってきそうな洗車機の生命力は、間違いなく作者の人生観、前を向いて生きている姿勢がそのまま表れているように感じ、意欲的な展示に、刺激を受けました。

 

( ´ - ` ) 完。