nekoSLASH

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ卒業。関西・東京の写真・アート展示のレポート・私見をup。

【写真展】R3.4/2~4/30_清水穣キュレーション「showcase #9」"visions in and out"(岡本明才、佐藤華連)@eN arts

写真評論家・清水穣(しみずみのる)氏のキュレーションによるグループ展「showcase」。9回目となる展示は、ピンホールカメラの原理を用いて光と像を操る岡本明才(おかもとめいさい)氏と、自分の内面を投影した夢のような風景を表す佐藤華連(さとうかれん)氏の二人展。

 

写真は見づらいけど外からギャラリーを見たところ。展示スペースが入口扉からの通路になっている。

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 【会期】2021.4/2(金)~4/30(金)

 

 

◆全体の概要

清水氏のステートメントによれば、テーマはVISION、一つは文字通り「映像」の意、もう一つは「visionary」(幻想家、夢想家)のニュアンスで言うところの『客観的には存在しないが、特定の人にだけ見えるヴィジョン』とのことだ。

前者は暗室で生まれ、後者は頭蓋の内で生まれ、すなわち両者とも「閉ざされた場」を必要とする。二人の作家による閉鎖性や遮断でのヴィジョンが、外部とどのような関係を結ぶのかが論点となっている。

 

事前に特に予習していなかったので、会場内でステートメントを読み返したが、作品の現物と文章・理論を照合させようとしているときには、写真の体験の方が強く、言葉は入ってこなかった。逆に今、こうして作品と空間を思い出しながら言語化しようとするとき、ようやくステートメントの言葉が作品の内側(作品体験後の私の考え?)へと絡み合ってくれる。

会場では、意味が分からないまま、1枚1枚の写真の中に引き込まれていたように思う。作者二人の作風やビジュアルは全く違うが、力があった。

力とは何か。こちらの意識を引き込む引力だ。なぜ力があるのか。岡本氏には写真=現実の複写であることを超えて、光そのものがそこに在ることの力がある。佐藤氏の作品では今そこにあるはずの現実空間が物理の奥へと、本の中へと入り込むように遠退き、写真のフレームはこちらを地下道への階段のように引き込んでゆく。

 

 

◆岡本明才

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ギャラリーの表通りに面した通路、その壁に掲げられた縦長の2枚の作品は、不思議だった。光と色が写真離れしていた。足を止めて凝視してしまい、「美しい」という言葉から身動きが取れなかった。それは二重の像が印画紙の内に宿った美、光そのものの透明な輝きだった。生の輝きの質感だ。

美しいものを「美しい」と言ってしまうトートロジー症候群に襲われるのは大概、自己の語彙の外にあるものに遭遇した時よりも、語彙の中枢を物理的に撃ち抜かれた時の方が多い。ここでは色と光が写真の語彙に当てはまりながら閾値を超えていた。

 

どうやって撮っているのか、そもそも「撮った」のかどうかも分からなかった。ファインダーを覗いて時間と空間のフレーミングを定めてシャッターを切る、という「撮る」工程を飛び越えて、空と桜の光がそこに「ある」写真だった。しかも光と像は重ね合わせになっている。

 

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日本の和の美が展開されるのかと思いきや、次の部屋で写真・カメラの機構と光学に関する作品であることが分かってきた。資料配布もあり、作品制作の方法や技術について、カラーの写真入り資料が丁寧で大変参考になる。ここまで手の内を明かしているのは珍しい。

 

答えは、ピンホールカメラである。作者は「ピンホールカメラで撮る」のではなく、カメラオブスクラ(暗い部屋)、カメラの機構を拡張した内側に回り込んで、光と像とその場が重なり合うものをデジカメで撮っている。 

「暗箱に穴を開けて光を入れればピンホールカメラになる」という光学原理それ自体に着目していて、部屋自体をピンホールカメラと化したり、箱を地面に置いてピンホールから差し込む光と像を重ね合わせて、作品にしていたのだ。

 

撮影用パソコンとも言うべきデジカメに慣れきった我が身にとっては、写真=加工済みの平板な画像データという認識がベースにあるが、それ故にこの、艶めかしく蕩けるような像にはひどく魅了される。フィニッシュはデジカメで写しとどめていても、なお艶かしさは生きている。そういえばカメラオブスクラで生きている像を体験した時に謎の感動をした。スーパーの刺身しか知らなかった人間が、獲れたて・今生きている魚を目の前で捌かれて食わせてもらった時の「次元の違い」体験に通じるものがある。

 

 

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横位置の、部屋を撮った写真は意味が分からなかったが、外光の射し込みによって室内がカメラオブスクラと化している状況だという。床が青くなっているのは、光とともに外の景色が投影されているためだ。

 

「写真」がどこから来たのか、そこに写された「像」とは何なのか、眼で触れながら考えるような作品だった。光そのものを直接見ることはできないし、作品はあくまで吸収・反射された結果をデジカメで写したもの:光の代替物だが、それを私達はリアルで唯一無二の「光」だと知覚し、感嘆してしまう。不思議だ。

 

 

◆佐藤華連

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岡本氏と逆にノーヒントなのが佐藤華連氏の作品で、本人のステートメントも短文だ。自己の意識や記憶に何らかの対象が化学反応を起こすことで現れる風景、それを撮っているという。

では心理描写、心象光景なのか? そうではない。具体的な生活のシーンや作者自身の身体や肉声といったものではない、日常的な「私」を突き放したところにある「風景」を撮っている。

「撮っている」という表現もどこかそぐわない。「写った」と言うべきか、そこに「現れた」という方がしっくりくる描写だ。2010年「写真新世紀」グランプリ受賞時の作品ステートメントなども参照すると、やはり言葉は少ないが、自身の撮った写真をコピーなどで複写することで、自分自身の「頭の中」を表しているようだ。

 

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上下2段の計10枚で構成される写真群は、雑誌の切り抜きなどのイメージを並べたりコラージュしたみたいに、写真だが、「写真」なのか、捉えどころがない。1枚ずつで単一の「現実」や「事実」があるわけではなく、どれも単独では意味が分からないし、物語として繋がっていくものでもない。しかし1枚の中で像自体の重ね合わさったり歪んでいるものもあるし、上下左右での隣り合いからイメージが関連を生じて意味が溶け出す作用もあり、想像以上に前後左右に奥行きがあって引き込まれる。写真の「意味」の意味が違う。

写真を見ていても単体の像を見ているわけではない、という事態は、同じガラス面の反射でも、例えば森山大道が切り出すショーウィンドウ等の反射物とは圧倒的に異なることをとっても比較できる。こちらの見ている対象が指し示すものの意味や単語へ焦点を絞れないことが、いわゆる「内面」というところへの言及に繋がるのだろうか。

 

何かを眼で「見る」とき、集中力を上げて「見」れば人は、「それ」・モノそのものを知覚して画像処理する・・・ように思われるのだが、現実にはそうではなく、何かを「見る」ことによって同時に誘発される何らかの想起や連想の作動があって、それは喋り言葉でも映像でもあったりするのだが、それらが眼前のモノの像と混ざり合う。そうした像の内的体験=「内面」として、作者は可視化を試みているのではないか。そのようなことを考えた。

だから夢のような光景だし、一見とりとめがないように見える。だが芯が通っている。意味らしきものの重ね合わせは迷宮で、仄暗いトーンは一貫していて、一歩一歩をゆっくり歩み進めていくことになる。

 

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横一列に並んだ六ツ切のシリーズは暗い。こちらの反射した姿が見えるぐらい。まさに夢の中を歩くような、と言いそうになるが、像の輪郭線は明確に出ていて夢とも異なる。ここはどこなのか。時代も不明、時間の経過がここにはない。それが心地良い。

 

 

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最後の部屋:地下の真っ暗な部屋には1枚、荒々しい岩の海岸の写真がある。暗い部屋の中でそれは、写真を見るというより、昭和初期の油絵のようで、写真離れしていて、周りも暗いし、何かの作品というよりそういうイメージ自体に出くわした感じがした。

「そういうイメージ」とは何だろうか? 現実にはないものを現実の身体で認知する感覚だ。だが写真である以上これは現実のはずだ。制作方法が分からないので確証はないが、「現実」とは各々の「イメージ」の連続と重ね合わせでもあるのだろう、と気付くに至った。

  

 

両者とも面白かったし、どちらも美しかった。

 

 

( ´ - ` ) 完。