nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART】六本木アートナイト2010(4)六本木クロッシング2010(前編)

六本木アートナイト2010(4)六本木クロッシング2010(前編)


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(1)六本木駅到着→東京ミッドタウン→21_21 DESIGN SIGHT
 http://mareosiev.hatenablog.com/entry/20100327/1270306044

(2)六本木通り六本木ヒルズ
 http://mareosiev.hatenablog.com/entry/20100328/1270373655

(3)六本木ヒルズアリーナ;ビフォア・フラワー
 http://mareosiev.hatenablog.com/entry/20100329/1270390079
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午前3時半頃。
六本木アートナイトもいよいよ佳境に入って参りました。
最後は森ビル(六本木ヒルズ森タワー)53階、森美術館です。




六本木クロッシング2010展:芸術は可能か?」
副題;「明日に挑む日本のアート」


会期は3/20〜7/4。
通常は入館料が一般1,500円だが、この日は展望台「東京シティビュー」を含めてたったの500円。
朝5時半まで入場可能という、本来ありえない時間帯に入れるのが嬉しい。
夜に美術館。オールで美術館。



今展示においても、疲弊した新兵みたいに、美術館内途中のベンチで見事に果てて眠ってる人がいっぱいおりました。
かくいう私もたいがい眠くて、集中力は無いに等しかったです。



さて、このイベントですが、今年で3回目です。
「交差」(クロッシング)は、ジャンルや世代を越えて作家・作品が刺激しあうこと、また、観客も作品との交流を行い、トークに参加したり自ら「オーディエンス賞」に投票を行ったり、写真撮影ができる(一部作品は禁止)というもの。



サブタイトルより経緯を辿ると

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2004(初回):日本美術の新しい展望
2007    :未来への脈動
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となっています。
「日本の現代美術」な特集では必ずどこかで目にするアーティストらが参加していました。
ヤノベケンジ会田誠小谷元彦オノデラユキやなぎみわ
飴屋法水、榎忠、岩崎貴宏、四谷シモン名和晃平



2010年のテーマは「芸術は可能か?」

「アート」ではなくあえて「芸術」なのは何だとか、「可能」って、今まさに芸術やってるじゃないか、というあたりの中身について、詳しくは公式ガイド本を買うと非常によく分かります。



「芸術は可能か?」という言葉は「ダムタイプ」というアーティストグループのメンバー、故・古橋悌二氏が1993年に残したもの。


当時はバブル経済崩壊直後。アートがアートの枠に留まらず、社会に影響をあたえることで成立する可能性を問うたという。
世界的な金融危機、先進国の不況、アート市場の加熱と作品の高騰といった現状を踏まえ、古橋氏の言葉を引用し今展示で「アート市場の活況を享受した後に外的要因により市場が不況に陥るという構図は93年と現在とでパラレルである」とし、世に再び問うものである。


また、古橋氏は「芸術家と呼ばれなくてもいい」すなわち「芸術という名の城に閉じこもりたくはない」と考えていた。
そこで、批判的に「芸術」と「アート」という二つの言葉に対して、ある種の負の面を指摘する。

それは、

「芸術」=旧来の、ある種の権威主義的なもの、権威に守られたもの。
「アート」=注目され人々の興味を呼んでいる一方、未成熟(環境・作品・作家・観客ら全てにおいて)。口当たりの良いイメージ。エンターテイメント。安易なコミュニケーション、地域振興のツール。



「芸術の本質を見定め、本来の価値や存在意義を取り戻すためのスローガンが必要だ」とし、
「あえて、美術のジャンルにこだわり、芸術という権威性をも利用することに躊躇せず、「芸術は可能か?」という疑問符を本展のテーマに冠した」
(公式カタログ P23・木ノ下智恵子)


「こうしたグローバリズムと徹底した資本主義による圧倒的な潮流により、現在の芸術世界における芸術作品は、金や株などと同様のコモディティ(商品)や投機対象として扱われるようになってしまった。
しかしその一方では、アートマーケットと距離を置きながら、芸術の可能性を模索し続けるアーティストは常に存在してきた。
六本木クロッシング2010展」では、そのように市場の影に隠れて見えにくくなっている表現に焦点を当て、芸術の役割を再興して観ることの重要性を3人のキュレーター全員が共通認識を持っていた。」
(公式カタログ P16・窪田研二)


「芸術の持つ本来的な可能性」を検証するという試み。
日本の現代美術というと、「サブカルチャー」「ポップ」「オタク」的な文脈がほぼ刷り込みに近いぐらい作られてしまっているのを私自身でも実感するが、それを再考するというのだ。いいぞいいぞ。もっとやれ。


だから、このように力強い目的意識が表明されている。


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「個人の内面世界をナイーブに描く作品、マンガのようにカワイイ作品、「ゆるい」日常を表現する作品などが、現在の日本美術の「流れ」とされているが、果たしてそれだけなのか?」「市場価値ゼロ=作品価値ゼロという図式になるのか?」
(公式カタログ P6・近藤健一


(本展における参加アーティストは、)「個別の作家性や作品世界の差異があるにせよ、いずれも、個別の関心事項から端を発するも、ナイーヴな自己の内省活動やオタク的な趣味世界のリミックスではなく、時代や歴史を我が事として認識している」
(同      P23・木ノ下智恵子)
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それが成功だったかどうかは、私には解りません。
単純に、ほどよく面白かったです。
パリパリに電撃の走る類の刺激ではなかった。もっと何か…。


っていうか帰宅して公式カタログをよく読んで初めて趣旨を知ったぐらい。
だから会場では「はあ」「へえ」「ほう」と感心して回っていた。
撮影も忙しかったし。
立ったまま寝そうになるし。


他のレビューを見ると「古臭く、手垢に塗れたものも見られる」「こういった展示では玉石混交となるが、石がひどかった」という指摘があり、どのあたりの作品のことなのか、そっちの方が気になった。成功だったのかどうか。私は今も解ってません。そのぐらい私はアート、現代美術のことを知らないのでアレなんですが、徹底的無知を貫いて行こうと思います。



本展では5つのテーマを基に作品・作家が選ばれている。
○「社会への言及」現代美術が本来持つもの
○「越境の創造力」領域横断による可能性
○「協働の意義」孤高の芸術家から開かれたコラボレーションへ
○「路上で生まれた表現」ホワイトキューブの外で生まれた力強いアート
○「新世代の美意識」その表現や思考



私は「社会への言及」と「路上で生まれた表現」において特に強いテーマ性を感じました。
今まであまり観たことのない作品、アーティストを知るにはいい機会で。
路上っていうても、日本全国であまねく活動するわけにもいかないですしね。大阪住まいで、特にストリートに強い仲間がいるわけでもない。こういう時しか知ることができないわけです。



美術館における展示だというのに、一部を除いては撮影自由だったのが何より有難い。
撮りながら見ることには、絶対に意味がある。
これで観るだけだったら絶対、作品のことなんか忘れてる。



では、例によって観た順に写真をあげていきます。

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http://img.f.hatena.ne.jp/images/fotolife/M/MAREOSIEV/20100328/20100328034526.jpg
照屋勇賢≪来るべき世界に≫2004
デリバリーピザの箱が並んでいる。内側には絵が描かれている。
大人が描いたものや、子供が描いたものなど様々だ。



現代社会の諸問題に、身近な素材で切り込む作家。
自らの出身地である沖縄に関する作品や、消費社会に対する作品が有名。




これは2004年8月、米軍ヘリコプターが沖縄国際大学に墜落し、現場が米軍により封鎖された後も、ピザ配達だけは入場がゆるされたという事件を基に作られている。
当時のヘリコプター墜落事件における封鎖は徹底しており、大学関係者、宜野湾市当局はもとより沖縄県警すらも立ち入りが許されなかったという。


参考URL;沖縄国際大学―概要
http://www.okiu.ac.jp/gaiyou/index.html
「その他」の項目「米軍ヘリ墜落事件」より、事態の重さが解る。



絵は地元住民の協力を得て描いてもらったもの。
そしてピザの箱を見てみると、「ピザくさい支配に県民怒る」と。
「A Crash'n the Scent of Pizzatocrasy」


これすげえなあ。
面白いなあ。既製品に見せかけて実は毒が効いてる。




いたいけな子供の絵と、実際に起きた墜落―封鎖事件を重ね合わせると、身近とまではいわないまでも、沖縄基地問題のことを考えざるを得ない。


こういうアイデア見てたら、別に自分で優れた絵が描けなくても、手先が器用でなくても、何かを疑問に思ったり「ちょっとそれ、おかしいんちゃうん」という眼とアイデアがあれば、何かを世に問うことって幾らでも出来るんだと実感する。方法は無限だったか。



http://img.f.hatena.ne.jp/images/fotolife/M/MAREOSIEV/20100328/20100328034656.jpg
照屋勇賢≪告知―森≫ 1999〜現在


ブランドの商品袋やマクドナルドの袋など、身近な消費アイテムの紙袋を使用。
原材料である樹木の形を切り抜いて作る。糊で精巧に貼り合わせているようだ。
この繊細な作品には多くの観客が携帯、デジカメを向けて撮影していた。




これが手作業の切り抜き、貼り付けかと思うと、気が遠くなる。
手先の不器用な私には一生やりたくない仕事( ゚〜゚ )”



作品のテーマやメッセージとは別に、観客は「わー」「これすごーい」「きれーぃ」と撮影を繰り返す。
さすがに思考停止して撮るのに夢中になる造形だ。



紙袋の中に立つ樹木。


何気なく畳んで捨ててしまう紙袋に小宇宙を見ました。


http://img.f.hatena.ne.jp/images/fotolife/M/MAREOSIEV/20100328/20100328034751.jpg
紙袋のブランド名忘れました。
実にクールだ。



エルメス




みなさんお馴染のマクドナルド。
見慣れた、完成された企業のブランドが別のものへ転化されると
意味が二重三重になって、力強くて面白い。



http://img.f.hatena.ne.jp/images/fotolife/M/MAREOSIEV/20100328/20100328035059.jpg
ブランド名忘れました。
見事な木です。



他にも照屋勇賢は≪さかさまの日の丸≫(2006/旗・ネームプレート・琉球松製木箱)という作品を出している。
一見、何の変哲もない国旗だが、「さかさまの」というタイトルをつけられることでその意味がずらされている。
作者自身が日の丸について考えを巡らすうちに「もしかしたら日の丸は逆さなのでは」と発想するに至ったという。


日の丸のデザインとしての完成度を保つ為、アーティストのサインはステンレスプレートに掘り込むという形で制作されている。
木箱は日の丸の保管用。


説明されると色々と考えさせられる。
見た目以上に奥行きがあった。

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八幡亜樹≪ミチコ教会≫2008/ビデオインスタレーション

写真に撮ってません。
一見、ドキュメンタリー映像のような、現実社会の周縁を掬い出す一コマ。
しかし彼女自身が「日常の予告編」と呼ぶように、これは日常の「本編」には表れてこない、見えない要素を集積したものだ。



≪ミチコ教会≫は夫に先立たれた老女が一人で営む教会を訪ね、あたかもドキュメンタリーの取材のような作り方で描いている。作家解説を読んでいたら、どうも創作のようだ。
現実と虚構の間。
現実にありながらどこにも回収されていない、意識にも上らない「周縁」の存在を抽出した作品とか。


この「教会」というのが凄い。
何もない山に建てたあばら家で、トタン板を張り合わせただけの簡素な代物。
例えるなら、ホームレスが作った我流の家を教会の形にしただけ。


取材を始めたあたりで夫の具合が悪くなり、亡くなって、老女ミチコは山を下りるかとどまるかの葛藤を抱く。
以前、この教会で結婚式を挙げてもらったという若いカップルがそのことを聞きつけて、


ええと、


・・・
後は観てないので展開を知りません。
観てる時は「なんて凄い老女がいたものか!」「こんな教会がこの世にあったとは!」などとやたら驚いてしまった。
やられました。
いやあれはドキュメントだと思うって絶対!
完成度高すぎ!


(※徹頭徹尾、作品らしいです。フィクション!
  そうは思わなかったぐらい妙なリアリティがあった…。)

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http://img.f.hatena.ne.jp/images/fotolife/M/MAREOSIEV/20100328/20100328035428.jpg
志賀理江子(作品名失念)


この人の写真は圧倒的なイメージの表現力に満ちていて、手に負えない。非常に濃厚な描写力、闇をベースに光が横溢する幻想的な作風、かと思えば室内灯の下でのスナップ。


しかしどの写真も現実をただ切り取って、時を止めるだけでは絶対に映し得ないものが写っている。
神秘とグロテスクとが交錯していて、機材がどうとか、ちょっとしたテクニックがどうという問題ではない。この世で撮られたものでありながら、日常を凌駕する何かが生々しく息づいている。日常に潜む魔性を完全に呼び起こした感がある。


作品はどれもCプリント(カラーネガから焼き付ける、もっとも一般的なカラープリント写真)で作られている。
しかし解説によれば「いわゆるストレートフォトではない」「撮影環境の演出、被写体との出会い方や撮影理由、写されたイメージを再考する手法としての加工、といったストイックなメソッドに基づいて自問自答を重ねた上でイメージを定着させ、深化した構成写真へと発展している」という。
(公式カタログ P96・木ノ下智恵子)



http://img.f.hatena.ne.jp/images/fotolife/M/MAREOSIEV/20100328/20100328035932.jpg
不吉なぐらいの力がある。
写真集『Lilly』『CANARY/カナリア』で2008年・代33回木村伊兵衛写真賞を受賞したというが、当然の実力だ。



悔しいがこれはどうにもならん。
同じ写真をやっていても、こんなこと絶対できない。
いたた。



現実に従順なだけではそれは作品とは言わないのよね。
さあどうしようか( ・_ ;)
痛いところを突かれた。
いたた。


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雨宮庸介≪わたしたち≫
 2008/ビデオインスタレーション+身体


写真撮影不可のため文章のみで。


≪Truth≫(2005);FRPにより液体のように溶けかけたリンゴを作った作家。
本物と見まがうほどに精巧なリンゴが、溶けるという本来ありえない現象を伴うことで、現実と虚構、事物と存在の間にある関係性を問いなおす。



この≪わたしたち≫は面白かった。
現実と虚構の世界がねじれるような感覚が愉快だ。


≪ムチウチニューロン≫の発展形。


別室に入って、床に座っている大勢の観客のけつやスカートに注意を払いつつ、少し暗いフロアの中をそろそろと渡り歩く。前方に目をやると、長方形の壁にはまるでこちら側;観客をそのまま鏡で照り返しているような映像が浮かんでいる。


鏡か? と思い、若干手を振ったり首をコキコキしてみる。
向こう側には反応がない。
よく比較してみると、こちら側;観客らの前列は座っているのに対して、向こう側;映像の人物らは横一列に並んでぶらぶらと立ち尽くしている。


そこで思いついた。これは時間差映像なのでは?
こちら側が映像で記録されていて、数十分とか数時間のタイムラグを付けて再生され、観客は別時間にそこにいた観客と対峙しているのでは?と。


だがそれも違った。
確かにこちら側と向こう側では、置かれている物体;机、花、床の静物などは共通しているものの、向こう側で立っている人物らは明らかに演出として、こちらを見ながらぶらぶらと立っていて、仲間同士で喋ったり明確な表情の変化を表すことなく、次々に左手のドアから現れるのだった。


そして一人の男性が、こちら側の前方にふいと歩き出て、置いていた静物をガサガサといじり始めた。挙句、床に座って胡坐をかいたり、寝ころんだり、しばらく「なんか傍若無人な人がいるなあ」と思っていたのだが、どうもこれは向こう側で中心に立ち、向こう側の世界でイニシアティブを取っている男性とほぼ同じ風貌であることに気付いた。


作者!
こっち側にも雨宮庸介が登場。
なんだ、なんだこれは。


現実の照り返しだと思っていたものが、実は虚構だった。そして現実だったはずの場に、虚構が持ち込まれた。虚構だと定義したはずの向こう側では、しかし現実よりもむしろしっかりしてるぐらいの存在感を持って人間たちが出入りしていて、あれ、俺の主観はええと、何だっけ・・・結局どっちもどっちだな、もうちょっと観てたいな、という作品だった。
面白かった。


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Chim↑Pom(チン↑ポム)≪SHOW CAKE, XXXX!!≫
 2010/インスタレーション


オーギュスト・ロダンの彫刻『接吻』をもとに作られた像。
ダンテの長文叙事詩神曲』における悲恋のワンシーンのはずが、周囲にブチまけられた無数の食材(を模したサンプル)によって、飽食、大量消費、バカ騒ぎの刹那を極めた壮絶な現場になり変わった。
この迫力は凄い。



Chim↑Pom(チン↑ポム)≪TOKYO in the PARTY≫
 2010/カラスのはく製、食品サンプル、ゴミ袋、ミクスト・メディア
       ≪ART is in the PARTY≫
 2010/食品サンプル森美術館サイン


どっちがどっちかもはやよく分からないんですが、メモしてなくてすいません。
食材まみれです。
パーティーの嵐が瞬間最大風速を発揮して吹き荒れたまさにその瞬間を捉えている。
何とも浅ましく、欲深く、面白いものかと思った。



「まだ足んねえだろ?」「これでもか!」という作り手のノリの良さが伺える。
小難しい理屈より、目で見て一瞬で解るほどのノリの力が溢れていて気持ち良い。



このメロンも作品の一部。



Chim↑Pom」は6人組のアーティスト集団。作風は、我々もよくやる妄想ネタトークっぽいのだが、ネタに留まらず自分たちで実現しているのが特徴だ。
ヒロシマの空をピカッとさせる≫(2009)では、原爆ドームの真上、ヒロシマの青い空をセスナ機で実際に飛び、「ピ カ ッ」という飛行機雲の文字を残した。


≪SUPER RAT≫(2006)は、リアルなネズミともピカチュウともつかぬ、気味の悪いネズミ像が印象的だが、実際に渋谷センター街で捕獲したネズミを剥製にし、黄色に染色してピカチュウのような姿にし、路上に並べたものである。


≪BLACK OF DEATH≫(2007)は羽を広げたカラスの剥製を手にし、拡声器からカラスの鳴き声を流すことで無数の生きたカラスが集まってくる様を、渋谷109前や国会議事堂前で行う。


映像や写真の形に作りこむのではなく、実際に行動して現実空間に作用を及ぼす点で他に類がない作品ばかりだ。
それもある程度までやったら、他の感心事へすみやかにシフトしていくというフットワークの軽さがある。
個人的にかなり気になる作家。



http://img.f.hatena.ne.jp/images/fotolife/M/MAREOSIEV/20100328/20100328042435.jpg
ポッキー的なものを口渡ししている。
饗宴饗宴。


http://img.f.hatena.ne.jp/images/fotolife/M/MAREOSIEV/20100328/20100328042449.jpg
もうえらいことになっています。


50mm単焦点で寄って撮ったから全体像が見えませんが、
俯瞰しても全体的に溢れ出すような食事の洪水、寄ってガラスに張り付いても
個々の食器の乱れっぷりと食品(レプリカ)の暴れ度は冴えています。




なんだか美しい、かっこいいという印象から入ってしまう。
その後で「たべもの もったいない」「ぜいたくは敵」「飽食」とか色々浮かび上がり、考えがあちこちに伸びる感じ。
作ってるときすごい楽しそうだ。。


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相川勝≪CDs
 2007/カンヴァスにアクリル、ケントボード、紙にインク、CD-ROM


個人的に非常に気になる作家。 



作品はこのように、CDの中身(歌、曲等)およびCDジャケ、帯、歌詞カード等、
商品としての「音楽CD」に付帯している全て。


でもこれ、既存のアーティストの代表的な有名曲じゃない?
はい。

それらを、相川勝というたった一人のアーティストが全て自分の肉声と筆でコピーしているという
わけのわからん無茶苦茶な作品群
です。




まさかとは思ったが一枚一枚のアルバムごとに全ての楽曲をアカペラしているとは、
この膨大な手間の掛け方は一体何なんだ、と戦慄が走るのだが、
視聴してみたら全部ほぼ同じ調子。


「ふゃふやゃふゃふぅ〜〜〜んチャッチャッチャッァ ハ〜〜ン」
「ラララーラララーーーンラ ダンダン ッッ ァア〜〜」




( ゚〜゚ )”
うあはあ。

破壊力高ぇ。


http://img.f.hatena.ne.jp/images/fotolife/M/MAREOSIEV/20100328/20100328042825.jpg
全て手書きで複製。
一枚二枚なら、真似して描いてみても不自然はない。
展示数は36タイトルに及んでいる。
ここまで同じものを列挙するのはもはや何かとの戦いである。



絵が上手いとなんでもできるんだなあと、ちょっとうらやましかったですけどね。
本来、一点モノとしての価値が売りである芸術作品と、
大量に製造され比較的安価で流通する音楽作品、
その二つの重ね合わせ方がうまい。



http://img.f.hatena.ne.jp/images/fotolife/M/MAREOSIEV/20100328/20100328042948.jpg
何気に、置いてるタイトルが、いいナンバーばかりだった。
普通に欲しい。
この相川さんが歌ってるのはおなかいっぱいですけど( ゚〜゚ )


相川勝の言葉。


最後の二つ、『私の歌は展示会でしか聴くことができない』
『これらのCDはコピーであると同時に〜』がキモとなっている。



クラフトワークのアカペラは壊滅的な仕上がりで衝撃でした。


こんな珍奇なアーティストがいたとは。


一気に全部を紹介しきれないので、ひとまずここで小休止。
次回は『六本木クロッシング』後半と、最後に残した路上アートの回収です。
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(後編)
 http://mareosiev.hatenablog.com/entry/20100331/1272181948