写真をやっていれば必ず名を聞く「写真の町 東川」「東川国際写真フェスティバル」、だが北海道に行けなくて詰んでいる人は少なくないはず。そんな人(私)にとって嬉しい展示。
「東川国際写真フェスティバル」、間違いなく日本有数の歴史ある写真イベントで、写真に関わるのなら知っておくべきなのだが、北海道旭川町あたりですからね。まずそんな所にまで旅に出る機会がない。北海道まで飛んで、ピンポイントで写真を観に行くというプランはなかなか立てられず、ゆびをくわえて10年ちかくたちました。はよいかんと。
展示イベントや受賞式、受賞作家の作品の収蔵などが主な内容だが、最も知られているのは「写真の町 東川賞」だろう。写真作家の表彰で、1985年に「写真の町」誕生を宣言してから毎年行われている。
「写真の町 東川賞」は単体の賞ではなく、「海外作家賞」「国内作家賞」「新人作家賞」「特別作家賞」「飛彈野数右衛門賞」の5部門から構成されている。
今回の展示は「海外作家賞」について、初回から第40回までの展示から、写真家32名・計92作品をピックアップして紹介している。
展示ではスペースの関係から一人三点ほどの展示に留まっており、ただでさえ名の知らない海外写真家勢であるから、作家性や世界観について直ちに深く入り込めるわけではない。展示はどちらかというとサムネイル画像的なイントロダクションとして作用する。HP「収蔵作品データベース」ページを見ると、各受賞作家の作品数はもっと多い。
幸いにもこのページがよくまとまっている。本展示はこの海外作家賞アーカイブをピックアップし生の作品で示したものだと思ってもらえればよい。
収蔵作品からの紹介ということで、展示品はほぼ全て、マット入りで額装された、単体としての写真である。近年の受賞作にノーフレームのものが少しある程度で、即興性や空間演出のコラージュ、インスタレーション系作品はない。
また、会場で作家名と共に掲載されていた二次元バーコードには、経歴と活動、主要テーマと作品、受賞歴などについて簡潔にまとめられている。この作家解説と合わせて作品鑑賞することで理解が進む構成になっている。だがこの作家解説ページ、HPを幾ら探しても見当たらない。本展示のためだけのテキストなのだろうか?ぜひアーカイブ画像と共に開示してほしいところだ。
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展示の序盤、最初期の受賞者はまさに戦後の現代写真史そのものである。ジョエル・スターンフェルド、ルシアン・クレルグ、ジョエル・マイエロウィッツ、ルイス・ボルツと、教科書のように著名人が並ぶ。だが程なくして、写真家の出身国、知名度がバラバラになる。知らない作家ばかりになるのだ。
「海外作家賞」の定義を見てみよう。
世界をいくつかの地域に分割し、年毎に、その対象地域を移動させ、やがて世界を一巡するものとし、発表年度を問わず、その地域に国籍を有しまたは出生、在住する作家を対象とします。 国内作家賞及び新人作家賞は、発表年度を過去3年間までさかのぼり、写真史上、あるいは写真表現上、未来に意味を残すことのできる作品を発表した作家を対象とします。
多彩な国・地域から、より幅広く写真家を選出しようという姿勢が窺える。
こうした幅広い枠からの選出であるため、国・地域の事情、写真文化の受容の違いなどもあって、展示全体としての特徴、時代区分(受賞回)における特徴を語ることは難しい。また、作品制作年と受賞年とに数年~10年近いギャップのあるものもあって、何を以て傾向と見なすべきかは難しい。
強引に言うなら、前述のとおり最初期の受賞者はニューカラー、ニュー・トポグラフィックスの写真家に集中している。
そこから1990~2000年代は、世界各地のドキュメンタリー写真(家)が主力と感じられる。
石小華(シ・シャオファ)(第5回、中国)の新彊での棉花摘みなどの暮らしの写真、グラシエラ・イトゥルビーデ(Graciela Iturbide)(第6回、メキシコ)の個性的な衣装で生活する《フチタンの女たち》シリーズの力強さ、ウィリアム・ヤン(William Yang)(第9回、オーストラリア)の壮大なドラマを感じさせる風景・日常景の写真、金秀男(キム・スーナム)(第11回、韓国)の伝統的シャーマニズム文化・シャーマンの儀式、グンドゥラ・シュルツェ(Gundula Schulze)(第12回、旧東ドイツ)のベルリンの壁に閉ざされた旧東ドイツ末期の人々の暮らしの情景、クラウディオ・エディンガー(Claudio Edinger)(第15回、ブラジル)のブラジル各地でのカーニバルの活気づいた様子、金寧万(キム・ニョンマン)(第21回、韓国)の急速に民主化が進んでゆく1980年代以降の韓国の姿を・・・
といった具合で、写真家の活動を通じて「世界」を、日本の外側の動向を取り込もうという動機が感じられる。名前は知ってる国の中のこと、名前も知らない地域・町で起きていること、生きている人のこと。ただ世界情勢を知るためだけではなく、そこに散発的に/普遍的に存在する躍動感や生命力を伝えている。
次の波として2000~2010年代、写真先進国以外の国からのノミネートが見られる。写真文化・教育の波及が欧米・日本以外の国にも達し、それこそ欧米の外から欧米評価基準に応えられるような「優れた」写真(家)が輩出されてくる流れが見える。
ケタキ・シェス(Ketaki Sheth)(第22回、インド・ムンバイ)、マニット・スリワニチプーン(Manit Suriwanichpoom)(第23回、タイ)、クラウス・ミッテルドルフ(Klaus Mitteldolf)(第24回、ブラジル)、アリフ・アシュジュ(Arif Asci)(第28回、トルコ)、 ミンストレル・キュイク・チン・チェー(Minstrel Kuik Ching Chieh)(第29回、マレーシア)・・・といった具合に、世界の至る所から、「世界水準」の写真(家)が各国・地域の感性や土壌、状況を踏まえた作品を発信していることがわかる。
そしてドキュメンタリー、事実の記録と伝達だけでなく、演出的・作為の写真、イメージのシークエンスや連鎖・連想の写真、古典や歴史を複写し引用する写真など、創作的・美術的な観点の写真がやってくる。
マニット・スリワニチプーン(Manit Suriwanichpoom、第23回)の《ピンクマン・イン・パラダイス》とペーター・ドレスラー(Peter Dressler、第27回)の《Tie Break》はよく似ている。前者はショッピングカートを押すピンク色のスーツの男性が仏教風景の中に配され、後者も社会的地位のありそうな男性が建物内で一人でテニスをプレイしている。これらは風刺や隠喩に富んだ演出であり、静止舞台作品となっている。
ミンストレル・キュイク・チン・チェー(Minstrel Kuik Ching Chieh、第29回)は《ドリアン狂い》で連続的な人物スナップ、ドリアンを食べる家族?にフラッシュを浴びせて動きをつけ、日常景に動画映像的な真実性とドラマティックさをもたらす。
グレゴリ・マイオフィス(Gregori Maiofis、第36回)は古典写真を装った演出・演技 極めて知的かつ挑発的な作品で、投票箱に票を投じる「サル」、バレリーナの踊りをかぶりつきで鑑賞し喜ぶ「クマ」、暗視スコープ装備でライフルを構える老夫婦…と、まるで強権に暴力的に支配されたロシアの構造そのものを寓話的に表している。最も心に響いた作品のひとつ。
アストリッド・ヤーンセン(Astrid JAHNSEN、第39回)の古めかしい複写写真は、祖母から譲り受けた百科事典の写真から「背景」として写り込んだ「女性」らをクローズアップして切り出し、提示する。歴史や事物を語ること、アーカイブすることの行為や制度の中に埋もれた存在を再発見し、再投入する。現在的な取り組みだ。
ヴァサンタ・ヨガナンタン(Vasantha YOGANANTHAN、第40回)《二つの魂の神話》は直近2024年の受賞者で、より現在的な写真、ピンクや黄色が鮮やかでありつつフラットに抑揚の効いた色調が主張を抑えつつイメージの喚起力を高めている。インド各地を旅して現地の人々に叙事詩「ラーマーヤナ」の場面を演じてもらったという、現在と古典をリンクさせる作品だったのだが、そうとは知らずに見ていて(知ったとて原典を知らないので分からないのだが)、しかし吸い込まれるようなイメージであった。古典・古代と現代は連結、連動しうるのか。
現在になればなるほど写真表現の幅が広がり、多彩になっていることはよくわかった。良い時代だ。思いません? フフフ
( ◜◡゜)っ 完。