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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】R5.1/21~3/26「川内倫子 M/E 球体の上 無限の連なり」@滋賀県立美術館

地球と私。近代的な写真の主要エッセンスを存分に活かした本展示の作品群は、近代写真の終着点の一端を語るものではないだろうか。

 

【会期】R5.1/21~3/26

 

滋賀生まれ、4歳まで滋賀で育った作者の大規模な個展が「東京オペラシティ」から巡回。滋賀では初の大規模個展となる。

また展示室2「関連特集展示」として会期を重ねる形で川内倫子と滋賀」(会期:R5.1/11~5/7)を開催し、滋賀県甲賀市福祉施設「やまなみ工房」を特集した作品<やまなみ>シリーズを主に展示している。

つまり美術館全体でこの10年間ほどの川内倫子の集大成を見ることができる。

 

展示タイトル「M/E」は「Mother(母)」と「Earth(地球)」の頭文字であり、スラッシュを続けて読むと「Mother Earth(母なる大地)」であり「Me(私)」である。といった説明がまず書かれているのだが、たとえ読まずとも本展を見れば、そうした意味を自ずと見い出すことになるだろう。

今回特集されている<4%>、<An interlinking>、<あめつち>、<M/E>のシリーズ群は、まさに展示テキストで「川内のまなざしは、身の回りの家族や植物、動物といった存在から、火山や氷河といった壮大な自然に対してまで等しく注がれています。」と書かれている通り、手の届く数十㎝先の世界から、数m先、数十m先、そして地球の球面を感じさせるほどの遠距離まで射程が多岐に富んでおり、展示を観終える頃には地球規模で五大元素の力を体感した思いがする。

そんな地上の全てを大らかな光へと包む作品群を、仏教的な世界観へと引き付けることもできよう。だがあえて冷静に物理的な視点に留まるならば、本展示では光学的に目視可能な世界のスケールを網羅したものと見なすこともできる。作者/私達が肉眼で体感しうる「世界」の幅と質を広く探求し網羅しており、決してスピリチュアルへと遊離し忘我するものではない。あるいはトーマス・ルフのようにメディアや観測機器の見る視座を取り扱うのでもない。

 

頼みとされているのは作家自身の身体であり生命である。あくまで川内/私達が身体を通じて日常的に得ている総合的な体験として「世界」と「私」がある。どの写真も川内作品としての確からしさ、川内倫子らしさがあるが、それは作者の「見る」「触れる」「感じる」から発しており、よって鑑賞者にとって未知なものではなく寧ろ「見たことがある」「触れたことがある」「感じたことがある」という自己の経験・体験とどこかで地続きであるためではないか。

似て非なるのが野口理佳「不思議な力」で、野口は地上に働いている種々の見えざる「物理」の力を扱っていた。物理の力という共通OSの上で我々人間も、動植物も、水や酸素も関係しあって存在し、稼働していることを写真と映像から語っていた。

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川内倫子の写真は徹底的に身体性、自身の体感・体験であり、己が「生きている」ことを通じて獲得されたビジュアルである。とはいえ荒木経惟のように作者個人が前へ前へと乗り出してくることはないが、フレーミングの揺るぎない矩形とそこに満ちて溢れる「光」、白や橙の透明な霞に包まれた写真群は、川内倫子という固有の肉眼、角膜の濡れ=眼差す主体としての身体性・生命性を雄弁に物語る。

<4%>シリーズはやや趣の異なる像が提示されているが、基本的には被写体が要素分解されて提示されているだけで、被写体を眼差す主体としてはどのシリーズにも常に、写真のフレーム内に濡れた角膜のようにして川内倫子が存在しており、それが鑑賞する際にこちらの視座として憑依する。一見、それはスピリチュアルでエモーショナルである。だが実は、そこにこそ作者がいる。

 

展示はインスタレーション風に工夫されており、<4%>シリーズではサイズの大小のリズムを付け、<あめつち>シリーズは通路の壁全面を写真で覆ってトンネル化し、<M/E>シリーズではフロア中央に雪の宮殿のような薄布のトンネルを設置するなど趣向が凝らされている。だがしかし、個々の写真がその矩形と独立性を失うことは決してなく、間隔を保って提示されていることには注目すべきだろう。同時に展開された映像・スライドショー(<One surface><M/E>など)との差異化の狙いは当然あるとしても、写真1枚1枚を眼差す行為性、写真1枚1枚の光と雫と炎の中に宿る川内倫子の存在感を、鑑賞者が受け止めながら歩を進めていくことに重きが置かれている。

 

そうして鑑賞者にもたらされる体験の1つが、心地良い初期化である。

溢れる光、炎や水、生命の実感と死、といった生命・エネルギー循環の写真群は、近代化を通過し現代的に洗練され複雑化されてしまった私達に、素朴で原初的な身体性に立ち返って、地上、この星のポテンシャルを再認識するひと時をもたらす。こちらのがちがちに情報化されて強張った心身を解きほぐして「地球」へと回帰させる力は凄まじい。作者が2001年に写真集『うたたね』を発表した際にはそこまでのスケールは無かった。

そもそも『うたたね』でデビューして以来、エモーショナルな描写で人気を博し、写真界的には社会現象ものだったが、よくある悲劇――その路線を過度に推し進めるなどしてコマーシャル的に消費されて流行で終わるといった悲劇を回避し、ここまで一貫して生命の循環、生死のサイクルというテーマ性を深く・大きく育んできたのは見事としか言いようがない。作者自身が母親となって妊娠・出産を経験しただけでなく、作家として大いなる世界=地球の生命感を孕み、産み出し、自身もまたこの星から命として産まれ直す、そしてそれらを何度でも繰り返すようにして作品を育んできたのだ。ゆえにそれらに触れる我々もまた、生まれ直しの円環に巻き込まれる。

 

だが本展示はもう一つの事態をもたらしていた。近代写真の締め括りである。

これまで書いてきたとおり川内作品の特徴は、①光学的に、肉眼によって得られる被写体、②作者の主体・身体性を伴う、③プリント1枚ずつの個別性・唯一性を有し、それぞれの写真が写された対象と一対一で意味を持つ、といったものである。

つまり「目で見て、自分の日常/命で触れて、その唯一性を個別のプリントによって提示する」という、撮り方、見せ方、観方において限りなく近代的な写真である。1枚ずつの写真が光学的に生成され、写された像は各自の指示対象を持っており、それは作者の身体性と密接であるが、それでいて政治的・宗教的・経済的な正義、ヒューマニズムといった立場もとらず、公私という分別を超えた枠組みで「世界」に接続する、という状況は、「近代写真」の現在形を端的に力強く示したと言えよう。

では「近代写真」と対置されているであろう「現代写真」とは何か?との議論になるとたちまち解を持たないのだが、恐らくはそうした解自体を持たない状態、「写真」構成要素が解体されたり混成されたり、既存の主体性やメディアを問わない形で展開される情報転写・複製表現技術のことを幅広く指すだろう。現代において「写真」は単体の姿形としては語ることができない、その語れない状況へ突っ込んでいく写真表現をここでは「現代写真」と表している。

 

話を戻すと、川内倫子森山大道とは別の領域と角度で、私達が従来的手法としての、90年代あたりから続いてきた写真行為においてやれることを、一定やり切って見せたと言えるだろう。「私達」というのは印刷物、TV、Webを通じて「写真」に慣れ親しみ、そのテクノロジーと表現手法を日常的に浴びたり活用して生きてきた人間全般だ。90年代頃からずっと続く「身の回りのもの・こと・人を撮って自己表現とする」世代と絞り込んでも良いかもしれない。その表現形態におけるミクロとマクロ、アルファからオメガを、本展示では見せつけたのだ。

もっと言えば戦後日本という近現代――昭和から平成に至るまで、特に多くの男性写真家らが扱ってきた主要な技術、テーマ・世界観を、川内倫子は自身の人生と身体性によって網羅して提示してみせたと言える。「私」であるとか、日常だとか、生命の誕生から、死別から。地底から湧き上がるマグマや炎、地上に降り注ぐ雨や雪や光、「地球」というものの姿と質について、多くの男性らが機材と身体と人生において極めようとしてきたもの、すなわち近代的な主題とスタンスにおける「写真」を、川内は総決算的にその身でやってのけたのだ。20世紀までの、男性写真家達に彩られていた近代写真史を女性の立場から更新したように見えた。

 

つまり「M/E」とは「近代写真の終点」(Modern-photography's Endpoint)の姿なのではないか。

本展示が近代写真の全てを終わらせた、というドラマティックな宣言ではない。「終わり」の姿の一つとしてだ。これだけのものを見せられたら、さあ、何をどう撮ったものか?森山大道とは別の(もっと深刻な)「やり尽くされた」感じ、ここから先の「写真」表現はもう、ますます大変だ、などと実感した。

たぶん現代写真を探す旅に出なければならない。

 

 

<4%>シリーズ

 

<An interlinking>シリーズ

 

<One surface>  

 

<あめつち>シリーズ

 

 

<M/E>シリーズ

 

 

 

( ´ - ` ) 完。