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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【KG+_06】2024.5/2-12_田口るり子「OPEN YOUR EYES」@ギャラリーガラージュ

【KG+】No.06_田口るり子「OPEN YOUR EYES

目と手が強烈に印象に刺さる。

 

写真の展示とインスタレーション展示の中間帯にあるような、枠の揺らぎを伴う展示だ。揺らぎというより型がシームレスに移ろいを伴う。

まず会場自体がギャラリー名通り、まさしくガレージ的に開け放されていて、外部と内部がシームレスに接続され連続している。そして写真も、額装されたプリントからコラージュ的なもの、大伸ばしのプリント、プリントを引き裂いて重ねたもの・詰み重ねた山・・・と様々な形態をとる。あくまで写真は1点ずつのプリント・作品として単数形で表わされる。

型をシームレスに遷移してゆく形態でありつつも、写真展示の枠を備えた作風である。

 

展示品は単数形だが、個体内部で複数性を持つのが特徴的だ。と言っても複数枚で時間経過のシークエンスを表すのではなく、時間は一定のまま存在感の一部が複数化している。主役となる老齢の人物写真は手が幾重にも連なる。動きというより存在感の圧となって、掌、指、腕の大きさ太さの増幅を以って「その人」の存在感が増感されてやって来る。

作者曰く「私にはそう見えた」という。写真は当人にどう見えたかは反映しない、光学的に観測される結果のみを反映する。だが作者にとってこの人物の並ならぬ存在感は、手が複数形であるような動き、圧を伴うものだった。なので率直に増感させることになり、同サイズの巨大な写真プリントを引き裂いて上から貼り重ね、コラージュ的に仕上げている。これは作為的というより必然的な流れだったようだ。

 

写真は単数形だが中のイメージは部分的に複数性を持たされ、像の増幅が作者の実際に感じた相手の存在感を反映させる。

入口に積まれた写真の束も、千切られており重ねられたイメージの繰り返しが増幅を招き、存在感の増感をもたらす。

 

この人物は何者か?母親や祖母なのか? 近しい血縁者、絆や記憶を辿るべくして家族を撮ったにしては目が、手が、実に猛々しい。獰猛なイメージが見る者を襲う。手の増幅・複数形と、その過剰さに釣り合う目力。謎である。向かいには二分された仏像の顔。安易に私的な親しさや血縁を語らない、ビジュアルの強さから来る関係性を対置され、緊張感が漂う。

 

会場で説明を受けたのと同じ内容がInstagramにも上がっていた。作者の友人である水墨画家・土屋秋恆(しゅうこう)の母親・土田比佐子との出会いで、直感的に存在感に感じ入って撮影することになったという。彼女も書家であり、同じ作家という種族ならではの波長、気迫でシンクロするものがあったのかもしれない。ここで存在感は光学的な観測に基づく「顔がひとつ、手がひとつ」の写真的了解線から踏み越えて、直感的印象を具体化する増感写真へと舵が切られた。これらは計算や計画ではなく直感、インスピレーションの力強い連鎖によって成されている。

 

向かい合わせに掲げられたモノクロの観音像の写真もまたインスピレーションの賜物だ。老人と観音の顔写真の取り合わせは通常の文脈なら被写体個人の人生観や内面、作者との関係性や記憶の深掘りを語るところだが、ここでは作者が経た偶然の出会いの縁、出会って一撃で感じ入るような存在感を、瞬間的な直感に終わらせず写真によって強度を保ったまま持続させることが試みられたといえよう。その意味で、スタイリッシュかつ現在的な見せ方の写真だが、芯の部分は非常にモダニズムな、瞬間に移ろい消滅してゆく物事や印象に永続性を宿す――そこに真実を見出すという表現なのだった。

 

 

だがモダニズム写真的な要素と枠組みにとどまらないのが作者の持ち味である。写真は独学で、元は絵画をやっていたため、制作・イメージの発想は絵画が原点にある。手を用いて作る、組み合わせる、重ねる、破るといった行為が写真にも強く伴い、写真は行為の中にある。写真の像がストレートにそれ自体で真実を語るのではない。行為によって型を崩しモダニズムの単数唯一性がブレて崩れたり分裂する中のモーメントに作者の感じ入った真実性が発揮されるのだ。

 

2年前の「KG+」にて、同じ会場で展示された「CUT OFF」と展示形態は大きく異なっている。前作は髪を切るセルフヌード写真をモノクロで壁に一列に並べていた。短編映画のような写真の列である。その意味ではストレートな写真展とも言えるが、会場中央にはネガのコンタクトシートが並べられ、似たイメージが延々と繰り返されつつ時間が進行していて、そこに行為性が表現されていた。

 

本展示で最も行為性が強く打ち出されたのはやはり破いた写真の「端材」としての山である。主力作品である老書家のポートレイト、顔面の部分がたっぷりと残った巨大なプリントがうねりながら詰み上がっているので、主力作品級の存在感を発しているのだが、作者にとっては更にそこから何か手を加えて加工してゆくための素材である。展示物だが素材でもあり、全ては行為性と共にある。他の写真も増幅による再構築が多々見られ、壁には前作「CUT OFF」の作品も一部加わっている。

 

反復や増幅による像の複数化、その行為によって自身の直感を増感し、感じ入った瞬間のリアリティを真実として提示する。そういう展示であった。

 

 

( ´ - ` )完。