みんな大好き塩田千春。2019年の森美術館とまた異なる見せ方で、明るくて、フラットな展示。それゆえに新たに見えたものがあった。
意外と、あまりにあっさりと観終わったのでびっくりしてしまった。
あの塩田千春作品だから、全身の内側からずーんと、情緒の重力に補正が掛かって重たくなるような変容を想像(覚悟?)して行ったのだが、たいへんフラットな展示だった。
本展示は森美術館での大規模個展「塩田千春展:魂がふるえる」(2019.6/20~10/27)と対照的な見せ方だった。森美術館は、個別の部屋に大型作品ひとつひとつを充てて、作品の世界観を増幅させて満たし、内面的な深度を高めていた。深度とは、部屋を部屋と思わなくなるほど高い密度で張り巡らされた糸による没入感、支配力だ。また個別の部屋の照明によって明暗のコントラストがつけられ、舞台演劇にも似た周辺の暗さが作品を「作品」たらしめていた。
本展示は真逆で、フラットな照明と、ひと続きに連続したフロア構成によって、作品を明るみに引き出して並べていた。言わば、演劇的な舞台=作家個人の神話的な力場から、「塩田千春という作家の仕事」を博物的に平たく提示している。没入感、精神世界の代わりにアーカイブとしての作家論へ切り口を大幅に変えている。フロアはほぼ仕切られず、大きな空間が連続し、作品は平たく等価に同居した状態で並べられる。
世界観への没入と陶酔は、序盤に集約されている。エントランス前に重厚感をもって張り巡らされた赤い糸とドレスの列《インターナルライン》、続いて入口入ってすぐのフロアの上部を埋め尽くす白い糸と天を映し出す水面の床から成る《蘇る記憶》で、観客はお馴染みの大規模インスタレーションとしての舞台仕掛けに心を奪われる。
だが2フロア目で上映される映像「塩田千春 クロノロジー」は、28分30秒かけて、作家自身が過去作品一点ずつの制作意図やその時の自身の状況を語るもので、まさに神秘的な精神世界(多くの人にとっては解釈自由ゆえのセルフィー狩場的な欲望の増幅、あるいは主観の増幅を投影する場)から、神話のヴェール(観客の主観の増幅)を作家側の言語化によって剥ぐポイントとなっている。
以降は平たく、同一面に、明るみの下で作品が並べられる。
赤い糸で家を模した《家から家》シリーズ、天井から吊り下げられた白く巨大なドレスと赤い環がぐるぐる回り続ける《多様な現実》シリーズがフロア中央の天地を占め、壁面には過去の映像作品や絵画、新聞での小説連載に合わせて描かれた挿絵などが並ぶ。いずれも従来の塩田千春作品・展示ではお馴染みの、過剰なまでの自閉的にして開かれた暗い没入感、袋小路の中で深い夢に目覚めてその夢の底の圧が臨界突破して逆転、現実感を支配しそれそのものへ成り代わってゆくような反逆的な力、というのはなく、もっと表層上の、客観的に観察し説明が可能な部分、言語化に力点があった。
展示構成と塩田自身の映像の語りによって言語化されるキーワードは「記憶」「皮膚」「つながり」「ネットワーク」といった、その通り・そうですよねというワードばかりで、納得である。これが塩田作品の分かりやすさと複雑さの両方をもたらしている。糸が張り巡らされている=最低でも二点間を線が結んでいる=何かと何かが結ばれているので、「つながり」や「ネットワーク」は非常に素朴に想起される。
そして糸の張りの密集自体が作品なので、直接的なモチーフがない。絵画や写真や彫刻と違って確たる形:支持体の基盤も指示対象もなく糸の張り=孤立するテンションだけがあるので、その張りと交錯の中に鑑賞者は印象を催され、そして湧き上がる情感のうちに過去的なものを見る。言葉の通りだ。また赤や黒の糸は血肉の生命感やエモーションの暗部を強く連想させる。深い夢の底のような、隔絶された記憶的世界でありながら、作者やキャプションの解説の言葉はきちんと作品と結びつく。
言語に最も似つかわしくない体感型・エモーショナル型のインスタレーションに見えて、実は非常に言語的である、そのことを本展示は明らかにしていた。
素人でも一目でよく分かるインスタレーションによって、場を作家個人の神がかった力に転じさせ、ポピュラーエンタメとしてアイコンとして尊ばれている点では、草間彌生とも共通性があるだろうか。学生ぐらいの若い観客がやたら多かったので対比したくなった。どちらも写メにしてSNS等で流通させる際にはデジタルネットワーク上でのアイコン=疑似通貨的な効力を発揮する。要するに誰でもその価値が分かる。穿った見方っで言えば、趣味がよくて見栄えがして生活や生き方に価値をもたらし自身の接続先に価値を表明できるものとして機能する。
だが草間彌生作品は塩田千春と真逆の分かりやすさと分かりにくさがある。絵柄としてはとてつもなく分かりやすいが容易には言語化ができない。せいぜい本人が繰り返す「愛」という言葉ぐらいにしか還元しようがない。水玉ですら難しく、網目と点を徹底的に繰り返し下手なのか上手いのか全く分からない意匠を伴う作品群を説明する言葉を持つこと、あるいはそこから受けたものを言葉として持つことは難しい。言葉が穿たれてゆく。真に抽象的なのだ。
塩田千春作品は逆に言葉を催させる。大量に張り巡らされた赤や黒の糸が、記憶と血肉の情感から、あるいは糸の物理的・機能的な側面から、何かしらの言葉の波を呼び寄せる。言語性の高さ、森美術館やその他の地域アートイベントでの仄暗い舞台演出においては表面化しなかった――情念と記憶のヴェールによって隠蔽されていたものが、本展示で明らかにされたように思う。
塩田作品と言語・言葉との結びつきの強さを最も象徴するのが終盤のトリとなる《つながる輪》で、赤い縦糸の列の中に無数の白い紙が、渦を巻いた吹雪のように舞っている。紙は会期前に一般公募されたメッセージで、不特定多数の人が「つながり」をテーマに書いた言葉だ。抽象性ではない。言葉が塩田千春作品のコアだったのだ。暗い展示会場の没入感からは見えてこなかった。いちど明るいところで作品の表層を見る必要があったのだ。
言葉と情そのものが連なって渦巻いていて、知らない人たち同士が糸で結ばれ合っている。
没入感と引き換えに本展示で得られたのは「つながり」を外から見る視座で、「つながり」の解釈の自由度、つまり塩田千春作品の解釈・言語化の自由度であった。
意識や目的を持つよりはるかに早く・先に、過剰に接続され続け、共感や思慕や義憤や反感や怒りや疲弊その他に縛られている「つながり」地獄、そのインフラ生活者である私達にとって、塩田千春作品はもっと素朴で原初的な「つながり」の形の力を見せていて、その力に惹かれているのかもしれない。
( ´ - ` )完。