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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】小松浩子「第三者遠隔認証」@HIJU GALLERY

【写真展】小松浩子「第三者遠隔認証」@HIJU GALLERY

 

 ギャラリー入口の扉を開いて1歩先の床から、写真が敷き詰められている。床、壁のみならず本来の客動線すら写真が体となり肉となって占拠している。

 

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【会期】2019.2/23(土)~3/17(日)(火水木 休廊)
【時間】13:00~19:00
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小松作品の最大の特徴は展示会場と「写真」が同化していることだ。写真の貼り付いた空間そのものが「作品」である。第一歩目からまず観客はひるむ。足元の床も眼前の壁にも写真がびっしり敷き詰められている。ギャラリーの扉を開けたそこからが写真であり空間だ。昨日の雨の露を吸ってか、扉付近の写真はことさら靴底に吸い付き、音を立てる。視界から溢れ出す写真の量と酢酸の臭いと眼前でうねるロールの重量感とそれをかわして移動するこの振る舞いと靴底に吸い付く感触とそれを引きはがすときの粘着音、隣の部屋や上階の物音や振動、部屋の温度や湿度それらのすべてが作品である。

 

空間自体が作品というと、W・ティルマンスのように壁面をリズミカルに編集したり、トーマス・ルフのように映像を巨大化させて観客が没入するといった代表例が挙げられるだろう。が、それらが観客と作品との間に見る見られるの関係を整然と持つのに対し、小松作品では写真と空間、場が密着し、見る客側の位置まで及んでいる。そこでは「作品」本来の――個々の写真には存在していたはずの「天地」、「上下左右」の規律が無効化される。一応、観客の進行方向に合わせて上下は揃えられ、写真の群は上下の揃った状態で敷き詰められている。が、観客が進行方向を変えた途端にそれらの像は「都市」や「工事現場」の写真作品であることを中断し、別の何かとして揺らぐ。

会場フロア中央、本来なら観客がくつろいだり、作品の全景を見渡す位置を、ロール印画紙が大波のようにうねりながら占拠してしまっている。ギャラリーが本来的に有してるはずの「展示作品をよく鑑賞し、価値を見定め、購入を促す」という市場形成のお株すら小松作品は奪い取り攪乱する。この印画紙のロールの波は面が横倒しになり帯状層状に重なっていて、より一層「作品」における天地の理を転覆させる。

 

ここで問われているのは写真という視覚メディアが有する文法、力の構造とも言えるし、写真や美術作品を鑑賞するときの空間における力の構造とも言えるだろう。写真を成立させるための正しい構図の学びはもちろんのこと、美術品そして美術の場が「価値」を帯びるためにどのような仕組みをこれまで構築しそして守り抜いてきたかが思い起こされる。それはギャラリーに入館する第一歩で「踏み絵」を強いられる瞬間から強烈に投げ掛けられている。あなたはその「作品」、神聖な価値あるものを土足で踏むのですか。しかし踏まないと中には入れませんよ。

美術品は文化的にも高尚であり資産的にも高価であり傷付けてはならないものとされてきた、美術館では常に我々は厳密に監視され、些細な挙動にも注意を受け、価値の体系は厳密に守られている。実際には解体してみれば美術品と呼ばれるそれらは紙や絵具や石、印画紙などの素材を加工したモノである。本会場の個々の写真は酢酸により感光の化学反応を停止された印画紙として解体を強いられ、美術品としての特権を得ることができない。一方で、小松浩子という作家がキャリアの線上からブレることなく渾身の力を以って企画したこの「場」は圧倒的に凄みに満ちており、全体としてある一つの調和が成立していて「力」を発生させ留めている。

それはどこまでも我々が「作品」としてこの空間を見ようと(美術の権威のシステムによって)反応、意思疎通しようと試みるからかもしれないし、作者やギャラリー空間自体もまたメタな次元では破綻のないよう(権威のシステムが許容する限度内で)制作し、その両者が幸福な関係を取り結ぶことに成功するからかもしれない。権威のシステムを伴って「作品」として成立しようとする大きな力と、それを解体しようとする具体的な展示構成の力とが渦巻く場が、小松作品なのではないかと思う。

 

後者の、解体へ向かう力には個々の写真のミニマムな力も大いに寄与している。被写体となっているのは都市の生まれる源泉、工事現場である。展示会場に立ってみると、従来語られてきた「都市」論では鑑賞できないという実感を得た。1500枚に及ぶ8×10プリントは建設現場の資材であり、それらは言わば都市という体を形成するための膨大な細部――組織、器官である。小松氏は一貫して都市の原形であり、人の目に触れないところで形成される器官としての工事現場を撮り続け、展示会場に氾濫させてきた。写真の氾濫と言っても、横田大輔が写真という映像メディアそのものの質、物性について物的検証を続けてきたことと目的は大きく異なるだろう。

写真はどのカットも非常に具体的なモノを写している。が、モノゆえに抽象化を増し、それが面として連続し、これらの写真群は「中心」を持たない。有象無象の「かたち」未満のものが現れてはまた消えてゆく。建設業、建築に精通した人であればこれらのパーツに意味と名前と手順があることを認識でき、具体的に意味のある場として見えるだろう。一般人には写された全ての物体が等価に意味不明で、中心を取り結ばない。よってそれらは役割や体系を与えられる前の世界として現出する。作者の視点、撮り方自体も意味の断定を避けている。言語化、中心化は回避される。つまり一枚一枚の写真としても、どこまでいってもそれらは何かを語ろうとする力に満ちながらも、指示する対象を手放しており、天地や上下左右は攪乱されている。作品として「見る」こと自体が留保される場である。

 

会場内にはもっと端的に印画紙のロールが巻かれた状態で立てかけられていたり、ビニールで梱包されていたりし、写真も会場も建設現場そのものとして扱われている。それらの像を美術品として鑑賞することはもはや出来ない。場の中で立ち現れてはまた移ろいで変わりゆくモノと映像の揺らぐ様を観客自身が組み立て、解体し、近付いたり遠ざかったり進んだり通り過ぎたりしながら意味を構築してゆくことになるだろう。

 

そして最終的にそれらは「意味」を生成しない。

 

生まれる命自体には究極的には意味がない(=必然)のと同じように、小松作品の振る舞い、場に生じている「力」それ自体には意味はない。最も意味のないものとは何かというと、私は命を挙げたい。「意味」を理由や理屈、価値付けと言い換えようか。発生後の命に対しては様々なところから慎重に丁寧に確実に、定義、意義付け、管理がなされる(それこそが権力の御業であり使命である)。だが生成する過程にある命には、誰かの規定、「意味」は及ばない。会場にはただ、生まれる、という現象の場の力が湛えられている。流れる体液や厚みのある胎盤その他の諸々と共に、今後しっかりと形成されてゆくであろう何者かが、上下左右を問わず身をよじり動き回る。この後に生まれてくるのは「都市」、我々の生活世界である。

 

小松氏の見つめ、立ち上げたこの空間は本来非常にソリッドな被写体と展示方法で、展示方法は圧倒的に攻めている、にも関わらず、妙に暖かいというか「優しい」感じに満ちているのは、それが命、生まれることを語っているからだと思えてならなかった。私が都市に生まれ育まれてきた世代だからだろうか、否それだけではない。建設現場という不可視の母胎内で起きている命の生成の場、それは都市生活者として生まれ育った私のような人間には根源的なものかもしれない。それだけでもないと感じる。

 

以前のニコンプラザ大阪での展示でもしみじみ実感したことが、「小松作品は優しい」ということだった。その謎に一歩迫った気がするし、また謎が深まった気もする。

 

 

なお本展示は副題として以下の命題が与えられている。

    「   」は

「   」がなければ

    存在できない

 

これを作者からの問いかけと見るか、それとも名状し難きものについて展示によって言及していることの表明と読むか。皆さんも会場で感じてみていただきたい。

 

( ´ - ` ) 完