nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【学生】2018年度 京都造形芸術大学(通信教育部・写真コース)卒業・修了制作展

【修了展】2018年度 京都造形芸術大学(通信教育部・写真コース)卒業・修了制作展

( ˆᴗˆ )毎度毎度、コンセプトの練りに定評のある京都造形大さんです。学びが多い。最寄り駅が叡山電鉄茶山駅と、マニアックな立地ですが、一乗寺のラーメン屋巡りや古本屋のはしごをしましょう。

 

 

京造と言えばパルテノン神殿です。来るのも今年で3年目で、だんだん母校感が出てきました。おかしいですね。それは私の母校にもパルテノン神殿があったせいです。そこではあたまの出来の次元の違う方々(医学部)が学んでいました。ウェィウェイ。煮干し食って賢くなろうぜ。ならへん。

 

( ´ - ` ) ならへん。

 

さて写真作品ですが、多いので、学内の表彰等々に関係なく、私の個人的に偏向した関心から気になった作品をピックアップして紹介します。

--------------------------------------------------------

1.会場:NA306a

小さめの部屋。風景、建築、コンセプチャルに構築された作品が中心です。

全部に感想書きたいんですが、しんでしまうので絞っております。よよよ。

 

◆中澤賢「空気と時間」

平成の約30年間を振り返り、重大事故・事件が起きた場所のカットと、その事故を報じた当時の新聞を重ねた写真を並置し、2枚一組・計8点で構成している。

風景の方は、その場の空気感や光をしっとりと伝えるためにピンホールカメラを使い、新聞の方は、風景に大手四紙の記事の写真を多重露光、レイヤーを重ねている。新聞の画像の濃淡が作品ごとに異なるのは、報じられた犠牲者(死者)の数だけレイヤーの枚数を重ねているためだという。

 

重大事件の起きた場所を写真化することで、何らかの記憶や想いを呼び起こすという取り組みは数多く試みられてきたと思う。直近では昨年のKYOTOGRAPHIEで、須田一政のポラロイド作品《SPOT》がそのような趣旨であったことを思い出す。中澤氏はあえて新聞の文字情報を過剰に盛り込み、コンセプトを全面に押し出している。

現時点では、風景を見ることと、新聞を読むことが別個の作業として提示されている。この先、イメージの扱いが咀嚼されていくにつれて、現場の風景が持つ空気感が主役となって語りかけてくるものになっていくのではないだろうか。発展の仕方によっては2枚がさらに1枚へ収束するかも知れないし、1枚の風景の中で複数の系が連続して展開されるかも知れない( ≒ 勝又作品?)。今後の展開が豊富そうだ。

逆に空気感ではなく、平成の負のアーカイブとして見ると、新聞の文字情報に匹敵するぐらい風景の細部があれば、読み応えがあるだろう。明石花火大会歩道橋事故(2001)、尼崎・JR福知山線脱線事故(2005)、笹子トンネル天井落下事故(2012)、いずれも悲痛な事故だったが、写真越しに新聞を読んでいて徐々に思い出してきた。つまりもう、全くと言って良いほどきれいに忘れ去っていたわけである。写真の持つ「忘却に抗う」という特質を再確認させられたひと時だった。 

 

 

◆藪川葉月「レンズの向こうにいるあなたを本当の意味で抱き締められない」

写真というメディアと行為は、どこまで行っても相手に直接触れられるものではない。そのもどかしさと、それを乗り越えたいと思う愛おしさのようなものを、私景を通じて語りつつ、想いのオーバーフローは発火を来す。

 

作品の1枚1枚は、複数の写真をジョイントされたものだが、よく見るとその接合面はフチを燃やした写真を重ね合わせたものである。炎でフレームを再成形し、2、3枚を層状に重ねて時系列を編集し、それをまた1枚の写真に収めているのだ。

デジカメ時代、シャッターは極めて軽い。フォルダに溜まり続けるデータが容量の限界を超えたとき、『何処からか幻のような煙の匂いがする』と、発火が始まる。実際には、作者の手による、主体的な行為である。写真(機)は優れた記録装置であり、現実を複製するのだが、同時にそれは時空間の奥行きを伴っていたはずの記憶や想いを切断し、冷徹な一枚の映像に収めてしまう。作者は抗うように、切り離されてしまった個々の瞬間を、再び自分の手によって解凍し、再構築し、手元へ引き戻そうと試みる。

写真作品の下には水が満たされた大きな水槽が置かれ、ライターがぽつんと浮かんでいる。ドン・キホーテが風車に向かっていったような圧倒的不利、抗いようもない日常の流れの中で、作者は炎を手に抗い続けているように見える。

 

 

◆神田武昌「マスコンクリート

モダニズムな、先祖返り感が逆に清々しい。人工物の細部の形状をクローズアップして観察する眼差し。私はレンガーパッチュが好きなので眼が引き付けられました。

キャプションによると『日本で最初のアーチダム・戦後復興事業としてのダム・経済成長時の水確保としてのダム・平成の力学的機能美を備えたダムなど6点の写真で構成しています』とあり、実はこれらは時代区分や用途が異なる。しかし素人目には、壮大な社会主義国の彫刻のようにすら思える。

人工的な構造物とは言え、こうした独特の形状が生み出されるところは生物のようでもあり、面白く感じる。形状の妙・シュールさを突き詰めるか、日本を支えた往年の兵としての威厳を撮るか、社会的風景として柴田敏雄のように追っていくか、今後の眼差しが楽しみです。

 

2.NA308(部屋手前の壁面)

淡河佳代「The Lost Lion, the Witch, the Swan and ..  ーうしなわれたライオンとマジョとスワンと‥ー」

頭一つ抜きん出ていた作品だった。写真、写真集から何本ものか細い糸が伸び、相互に絡まり合っている。一見、関連があるのか無いのか分からないイメージ群は、物語としての原初の姿を見せ始める。一枚一枚の写真は多重に像が重ね合わされ、具体的な風景を留めているものと、浅い夢の中で揺らぐような淡い色彩、抽象的なものとがある。

写真の一部は刺繍に変質し、そこから糸が伸びている。写真の中の、茂みの緑が、光の波の干渉の一部が、回転遊具やシャンデリアの一部が、糸の集合面――刺繍へと変質して、写真の外へ突き破ってまろび出ている。写真という映像媒体から、刺繍という仮の肉体へ乗り移り、そして細く儚い糸となって流出し、次の写真へ流入する。すると、これらのただでさえ朧げなイメージは、一見、糸によって物語の形を成してゆくように見えて、その実、意味が生じることを逃れようと粘菌や植物のように運動しているかにも見える。糸は言語なのか、運動なのか。

不可思議な作品タイトルは、作者が幼少期に親しんでいた絵本『ライオンと魔女 ―ナルニア国物語』や、『失われた時を求めて』(第1篇『スワン家の方へ』)などが引用されている。写真作品および写真集で展開される、この、夢で見たことの記憶をそのまま焼き付けたような掴みどころのない映像は、これらの文学世界を濃厚に反映しているのかもしれない。国籍すら不明の、日本人離れした感覚は何だろうか。夢を見ている作者と、その夢の内容を語っている作者の二つの頭が同時に存在しているような感覚に陥る。

 

3.NA308(室内)

 広いです。作品が沢山あります。インスタレーションもあれば、写真集、ポートフォリオ主体のものまで様々。

 

◆渡邉麻美「女性」

大量の商品、食品、女性が隙間なく埋め尽くされたコラージュ作品。登場する女性は恐らく作者自身だろう。美容と化粧と食欲が一人の人間の体には収まりきらない物量でひしめている。これを「女性の欲望や願望の可視化」などと片付けると手痛い目に遭うだろう。美と健康の過食症の中でほほ笑んでいる彼女が見せる唯一人間らしい様相が、中央を赤黒く塗られた生理用ナプキンだ。しかしそれも赤いトングで摘まれていて、焼肉屋で赤々とした肉を食うのと大差がない。

女性をここまで追いやったのは誰なのか?という問いが突き付けられる。消費社会の煽りのせいなのか? スタイルの画一化を喜ぶ社会のせいなのか? 意外と競争に満ちた女性側の世界の掟なのか? 女性に花や蝶の役割を強いる男性権力のせいなのか? 彼女=作者はその答えを言わず、糾弾も主張もしない。鑑賞者に対して理想的な笑顔を向けるだけである。 

三浦瑠璃というTV御用達の学者がよく「血のコスト」という独自のタームを用いる。三浦氏の主義主張から完全に切り離してこの語だけを使わせてもらうならば、本作は「女性」が社会的に払い続けて(払わされ続けて)いる「カラダのコスト」の過剰さを物理的に体現しているのではないだろうか。身体の各部をまるで商品のように鍛え上げ、誰か(恐らくは「男性」)の理想に叶う姿であり続けるために、ここまでの代償が払われているのだとすると、誰がこれを解呪できるというのだろうか。 

 

 

 ◆牧野友子「なにが良かったのかなんて、にんげん終わってみないとわからないものよ」

(※撮影禁止作品だが、作者の了解を得ました) 

自身の父親の逝去に伴う葬儀の場で、半ば形式化した仏教的な弔いに疑問を抱いた作者が試みたのは、父親の遺品を通じて、「父親」と対話し、「遊ぶ」ことだった。

近親者の遺品を被写体として対話する作品は、石内都《mother》を筆頭に、遺品(衣服)を媒体として親に成り代わる仲田絵美《よすが》の例などが思い付くが、積極的に軸を振り切って「戯れる」ことを選んだ喪の作品は今のところ思い付かない。

 

思えば親類縁者の葬儀とは、不思議な場であった。多感な年頃にあっては、わけが分からなかった。皆がぐすぐす涙ぐみ、厳粛な作法に則って段取りされながらも、火葬、法要まで済ませた後にはなぜか宴席が設けられており、それまでとは打って変わって急に世間話や馬鹿笑いが飛び交い、親族の近況報告の場になる。弔いは究極のケとハレの場である。作者はその慣習を逆手にとり、亡き父と自由に戯れ、私的な弔いを実演する。

個々のイメージは面白かった。個々の写真に込められた物語、そして写真同士がどう関連し合っているのかは今もって謎である。これらが寓話とすれば、そこには基となるエピソードや想いがあるのだろうか。鮮烈な色合いと、不可思議なモチーフの組合せの妙とが強力に組み合わされる文体は、写真雑誌《TOILETPAPER magazine》を連想させた。

この文体は非常に強力で、ともすれば近親者の喪にとどまらず全ての事象をこの形式で紋切り型に語ってしまえる恐れとともに、可能性もある。作者の戯れがこの社会のしきたり、慣習をじわじわと巻き込んでいくとしたら痛快だ。

 

 

 ◆川野恭子「山を探す」

写真集の形で、山を登る行為、過程を丁寧に写し出した作品。作者は40代になって以降、山にのめり込み、なぜ山に惹きつけられるのかを自問自答した。キャプションの『日本の自然観や宗教観によって 山に呼ばれている気がしてならなかった』という一説に深く共感する。私自身が山に非常に魅了されていた時期があり、その時の感覚はまさに「呼ばれている」としか言えなかった。

 作品を読み進めていくと、人がなぜ山に魅了されるのか、答えの一端が解き明かされた気持ちになった。登山口から足を踏み入れ、木々の間を抜けて不確かな道を辿ってゆく中で、木々の音、風、水、陽の光、もやに晒され、徐々にヒトは、「私」から自然の一部へと還ってゆく。そこでは、微小な茸や、鹿や、岩や木の幹などと、「私」が対等な存在となる。それら一切を含めて「山」なのである。ただ、ヒト(「私」)が決定的に違うのは、生物学的にも「山」にとっても本来不要なはずの目的地(=頂上)を強固に抱えていて、そこに向けて歩んでいくという命題に貫かれている点だ。

この、自然と繋がった空(くう)の状態にありながら、目的意識という不自然に貫かれた状態にこそ、作者が「宗教観」と呼ぶ何か、静かな熱、狂気とでも呼ぶべき力が秘められているのだろう。頂上ほど本来無意味なものはない。場の頂点を崇高なものとみなし、物理的には何もないその一点を目掛けて、全身を動かし続ける行い。頂上に至ったところで、鳥にも雲にも私たちはなれないのだが、何故か素晴らしい達成感と、自然との一体化の成就を確信する。山の魅力がリアルタイムで刻まれた、よい写真集だった。 

--------------------------------------------------------

( ´ - ` ) ああ面白い。

 

多数の作品がそれぞれに個性豊かに光っている中で、時間的限界からここで〆とします。撮影禁止作品の中にも面白いものが多数あったが、外部にどこまでどう取り上げて良いのかを斟酌するのが難しいため、撮影OKの作品を優先させていただいた。

 

年齢性別職種問わず、多様な人々がそれぞれの人生観から作品を発表する。そういうことが"普通"になっていけば、文化や芸術に対するこの国のあり方も少しはマシにならへんかなと思いつつ、ならへんかな、ならんか。がんばりましょう。

 

( ´ ཀ` )  ヴェー