nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真表現大学】2018年度 修了制作展 作品レビュー(1年目生)

私の通う「写真表現大学」(大阪国際メディア図書館)の2018年度・修了制作展が開催中である。今年度は映像系の「Eスクール」、音楽の「デジタルサウンド」講座の受講生も作品を発表し、総合的なメディア学科としての展示会場となっている。 

【会期】2019.3/12(火)~3/17(日) /【時間】12:00~19:00(最終日は17時まで)

 

 

( ´ - ` ) 全50人近い展示である。

筆者の時間的余裕がレッドゾーンとなっているため、やむなくピックアップしてレビューさせていただく。基準は、まず写真表現大学の生徒に限定すること、その中でも、Facebookのグループ内でレビュー希望の手を挙げた方と、今までの授業を通じて制作を見てきた方を中心とした。

 

この投稿では、入学1年目の方(基礎コース、総合コース)を特集する。
(※1年目でも研究ゼミに所属になった方は除く) 

 

ゼミ生はこちら。 

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◆小川美陽「Scorched Into Memory ネガ(記憶)を炙る」

記憶の定着を問うた作者は、留学の日々の思い出が刻まれた貴重なフィルムネガを炎で炙り、その歪みを作品として提示した。

作者にとっての写真とは、「記憶」を再燃させるための行為である。「記録」であってはならないのだ。作者が「写真」に対して要請するのは、「現象」としての強さである。ニューロンの発火として、今ここに立ち現れるものでなければならない。そのために熱エネルギーを加え、形が定まることを許さず、何ものでもないギリギリの状態に追い込む。

 

ネガは焼却されてはいない。燃やされたが、焼き切ってしまうのではない。炙るのだ。焼いてしまうと、記憶・過去の忘却、封印にしかならない。作者が求めるのは、再記憶である。どんなに素晴らしい「記憶」も、時間の経過と共に多くは分解、消失し、あるものは化石のように骨だけ残して、うず高く積み重なった「記録」の地層の一部と化してゆく。作者はその地層の上に立ち、「記録」を1つ、また1つと摘み上げて、崖っぷちに曝す。崖に向かって手を放したとき、「記録」の中に秘められていた化石が「記憶」へと覚醒し、一瞬だけ、鳥や花のようなものへ生き返って飛翔する。それもまたやがて、地面に落ちて、新たな「記録」の地層の一部となるだろう。 

例えば荒木経惟が腐食したフィルムからプリントを起こしたのは、彼の生涯のテーマである「生と死」に根差した表現であり、本作とは大いに趣旨が異なる。小川氏にとって、フィルムは2巡するメディアである。一度目は写真としての像を得るための、二度目は「記録」を「記憶」へと立ち上げるための媒体である。すると、提示されている作品は、メディアとしては完全に失効した後の状態(=「モノ」)であると言えないか。炙られてねじれた剥き出しのフィルムを見たとき、どこか「もの派」のことが頭をよぎった。

その等価交換として得られたものが、写真の下に添えられたキャプションである。ここには、撮影当時の作者のみずみずしい実感、心境が綴られている。この詩のようなダイアログを呼び覚ますために、全ては行われる。 ソフィ・カルの扱う写真とテキストが「痛み」と「他者性」の関係を問うているのに対して、小川氏は純粋に自己の再記憶を試行する。

 

一定の再記憶作業にけりがついた時、作者の炙りの動機はどうなるのか、何を欲するようになるのかを見てみたい。 

 

  

◆金村静男「竹の声」~太陽系の誕生から四十六億年~

雨の後の竹は、表面に模様が浮き上がる。原理は不明ながら、作者はこのことを発見した。そして雨天を待ちわびながら、竹がオートマチックに描き出す不規則な模様を撮り貯め、その形なき形に思いを馳せた。原始のアブストラクト絵画は、作者に花鳥風月、生命の多彩な姿を連想させ、そこに宇宙を感じたのだろう。

もしかすると昔話「かぐや姫」の着想の元となったのも、案外そのような発見だったのかもしれない。何気ない日々の山仕事の中で、竹の描き出した抽象画が偶然、小さな子どもの影として見え、いつしかそんな小話が不可思議な伝説へと昇華された。金村氏の話を聴いていると、そんな連想をしてしまう。 

全く関係ない話ですが、本作はタイトルの壮大さがやはりすごくて、冊子にすると、まるで一代で会社を興して引退したワンマン創業者が自費出版した自伝のような迫力があり、これはもう会長の自伝にしか見えず、個人的にツボです。 会長。

 

◆好崎志保「より添う窓」~時の流れ~

入院した時の不安で心細い経験が、作品制作の発端となっている。外界から切り離されてしまった自分を、外の世界と繋ぎ留め、美しい風景をもたらし、癒してくれたのが「窓」であったという。

「窓」はこれまで多くの表現者にとって重要なテーマとなってきた。あまりに幅広い性格、意味付けが可能となるモチーフだ。本作では「私」と「外の世界」をつなぐ存在として捉えようとするものだが、その反面、これらの「窓」からは入院のエピソードとは裏腹に、私性をほとんど感じられない。これはもともと作者の関心が「窓」を建築的なモチーフとして注目しているためではないだろうか。例えば田原桂一の撮った窓の、深くどこまでも強い「私」情とは真逆で、非常にクリアなところが特徴的だ。

 

◆竹内紗希「写真遺伝子」~れい子 90 写真ことはじめ~

デイヴィット・ホックニーのフォトコラージュでは、同時系列に属する時間と空間がキュビスムの技法で再構築されている。竹内氏は同家系、同家庭内で共有されている暮らしの時間を、スナップ写真により再構築、立体化させようと試みている。

副題の通り、主役は90歳の祖母と作者自身である。二人はそれぞれ日々の暮らしの中で、撮る・撮られるの役割を行き来しながら、対話するようにして、螺旋のつながりを描き出す。美術家の取り扱う時空間に比べ、写真家のそれは、より幅の広い時間軸の中から、大切な普遍性をドキュメントしてゆく仕事のように思える。当初は立体インスタレーションでの展開案もあったらしく、今後の応用の幅が広そうな作品である。

 

◆汤泽洋(湯澤洋)「ネームカードにかける留学生の夢」

中国からの留学生である湯(トウ)氏は、実に流暢に日本語を使い、屈託ない笑顔で日本人社会で学生生活を送っている。仕送りだけでは生活できない彼ら留学生の、アルバイトの時に胸に掲げる「ネームプレート」が本作のタイトルだ。当初の案ではネームプレートを象徴物として撮っていく構想があった。その名残である。

被写体となった作者の同胞らは、日本のサブカルを愛し、日本の学生生活を満喫しているように見える。作者のキャラクターもあるだろうが、これまで日本での苦労話を全く聞いたことがない。作中でも、実にくつろいでいて、タイトルが無ければ留学生とは気付かないかもしれない。

昨今、残念な物議を醸しているのが、外国人労働者や難民申請者に対する、まるで人権を認めないかのようなこの国の振る舞いである。「留学生の夢」とは、文字通り彼らの個人的な将来の夢であるとともに、彼ら外国人が日本に対して抱いている期待感、期待値そのものでもある。国やメディアは株価や好感度なる格付けの数値には敏感だが、彼らの内に灯る期待、夢について注意を払えるのは、こうした写真家個人の眼差しに頼るしかないのだろうか。 

 

◆薮田正弘「眼差しとの出会い」~肖像と象徴の記録①Jazzmen~ 

会社を定年退職した作者は、自身と同世代の人々を取材し、人生を伴走してきた思い入れ深い「もの」と共に撮影した。作者はアウグスト・サンダーを手本とし、なんと中判デジタルカメラも購入して、戦友とでも呼ぶべき同世代の「顔」と「もの」を1枚の写真に収めながら撮り続けている。 

本格的な人物撮影も、デジタル中判も初めてという状況で、当初は機材の基本的な操作にすら苦労していた作者だったが、ものの半年ほどで整った写真を撮れるようになっていった。作品数についても、展示されているのは3枚だけだが、ポートフォリオには数多くの作品がキャプションとともに収められており、作者のバイタリティの高さと、今後のライフワークとしての広がりが大いに伺えた。 

 

◆齊藤叶華

(写真)「小さな声が時代を変える」~シンガーソングライターの思い~
(映像)「シンガーソングライターの日常」~「黒と白」私から見た姉~

 

シンガーソングライターとして路上やライブハウスなどで活動を続け、メジャーデビューへの夢を追う姉の姿を、「妹」という付かず離れずの距離から見つめる作品。

作者は決して器用なタイプではないが、驚くほどの粘り強さと実直さで、写真・動画・サウンドの3講座を同時平行で学び、この1年でマルチな基礎力を習得した。特筆すべき資質である。本展示でもそれぞれのジャンルで出品している。

写真が良くなった。夏、初秋頃には、姉というにはあまりに距離の遠い、遠慮のかたまりのような写真だったが、確実に、少しづつ距離が近付いている。もっと図々しくなって良いと思う。姉の持つ表現者としてのエゴを、カメラマン・映像作家としてのエゴで引き出し、姉妹にしか出せない相乗効果を起こしてほしいと思う。

 

◆岡本紀江「野良カフェ家メヂカラ」~人間社会を鏡に映す福祉の不在~

通勤路が変わったことをきっかけに、作者は団地の駐車場にたむろする猫をケータイで撮り始めた。

『野良猫、カフェ猫、家猫、と住む世界は様々で、しかし、はっきりと区別することなんて出来ない。』と作者は語る。猫の世界にも、恵まれた猫もいれば、厳しい状況の猫もおり、その現実に、人間社会に通ずるものを見たという。作品3点はそれぞれ、野良、猫カフェ、家という3つの世界に暮らす猫たちの姿である。

猫は愛玩動物として歴史的に愛されてきたが、《岩合光昭の世界ネコ歩き》などを見ても、今なおカワイイの代表格としてぶっぎりで君臨している。その実、人間社会とぴったり対となる存在で、エイズにも罹るし、増えすぎれば駆除されるし、街との共存のためにと積極的に避妊手術が施される。猫とは一体何なのか。私にとっても重要なテーマのような気がしている。 

 

◆酒井悦子「ぷわぽわキララん」~心と遊ぶ夢の世界~

写真の醍醐味は、光そのものを手にすることができる点だろう。光の捕獲、定着、保存だけでなく積極的に操作を加え、戯れることもできる。ヒトは悲しいかな、自力では発光できず、直接触れることも叶わない。光は永遠の欲望、願望なのだと思う。

作者は入学当初から「光」が水やレンズにより干渉を受けて、美しく変容する姿に魅せられ、その輝きをなんとか表したいと苦心してきた。本作はその試行錯誤の成果と言えよう。 

展示作品では、間隔の広さとフレームの質感とが相まって、かなり穏やかな印象を受ける。一方で、ポートフォリオでは黒い台紙で余白を切り詰めていて緊張感がある。美しいもの、癒されるものというより、得体の知れないもの、海中生物の器官に近いイメージのものまであり、意外と作者が求めている「光」の姿はタイトル以上に広いような気がする。実験的精神が豊富という意味では、真逆のモホリ=ナジあたりも触れてみると、逆説的な刺激があるかもしれない。

  

◆永田晶子「たどりつけない」

写真の大半が黒くて暗いため、写真で撮ると反射がすさまじく、作品の主旨が全く伝わらない点をご容赦いただきたい。既にこの現象からして「ここには辿り着けませんよ?」と念押しされている感がある。

作者が現わすのは、亜風景である。これらの水平線は実際には風景としては存在せず、身近な生活空間の壁面などを水平線のある風景に見立てて解釈されたものだ。言わば、舞台装置によって立ち上げられた真空地帯である。

真空の領域には誰も立つことができない。可視化はされたが、ここに立ち入ることは出来ない。もしかすると作者自身も、生身の人間として長時間立つことは出来ない領域なのかも知れない。水平線は結界であり、その先は作者の内面と密接な意味を持つことが、ポートフォリオの末尾で記されている。岩宮武二の時代には、結界とは宗教的・歴史的文脈を持って、建築・造園の観点から見い出されるものだったろう。現在、結界とは個々の人間が私的に備えるもので、そのため自分一人でそれを護らなければならないことを示しているかのようだ。

 

◆小塩睦子「日々かさね物語」

こちらも写真に背景がかなり写り込んでいるので、実際の作品とは異なるものになってしまっている点をお詫び申し上げておく。

オールオーバーな光の絵画としての美しさを湛えている。しかし光に溢れた前景から奥をよく見ていくと、そこには具体的な景色と、そこを歩いたり佇む人々の姿が小さく写り込んでいる。「美しさ」を求める写真や絵画では、ともすればノイズとして排除されてもおかしくない無名の「人々」が、意識的に取り込まれている。光の網膜的な表情を表わす印象派と、民が風景の一部として点々と描かれる浮世絵、その両方の性質を備えたような作風である。

作者は人々の暮らす姿を見つめ、前景を越えて、自身をそこに重ねてゆくのだという。この「覗き見る」視点の動きは、写真そのものだ。絵画と写真のハイブリッドな表現を非常にうまく形にした作品である。

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( ´ - ` ) というような感じで皆さん取り組んでおられます。

世代も職業も全くばらばらの方々が、テーマを決めて、それに向かって表現を試みています。 

作者が会場にいたらつかまえて苦労話を聞いてあげてください。たぶん苦労話は喜んで喋ります。

 

( ´ - ` ) 完。