写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【KG】KYOTOGRAPHIE 2019「VIBE」(プレスツアーを巡って)

【KG】KYOTOGRAPHIE 2019「VIBE」(プレスツアーを巡って) 

2019.4/12(金)KYOTOGRAPHIEプレスツアーに参加。

展示について、主に空間とテーマの関連性から、KG全体を通して見てみたい。

 

 

( ´ - ` ) 「VIBE」

 

今年で7回目を迎えるKYOTOGRAPHIEでは、これまで以上に、より一層「写真」の意味、形態が拡張されていた。

もう「作品を観る」とは、写真を個々に見ることではない。その場を歩き巡ること、場の時間を過ごすこと、体験それ自体が作品だ。そのライブ感こそ、今回のテーマである「VIBE」の意図するところなのだと感じた。 

 

ここでは、全11のプログラムについて、展示の空間とテーマの関連性から、テキスト、現場のトーク、そして独自見解から概観する。個別のレポはまた別で上げたいと思う。上がらないかもしれない。どうかな(白目)。

 

(以下、アソシエイティッド・プログラムはツアー外のため除いている)

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◆アルフレート・エールハルト《自然の形態美―バウハウス100周年記念展》@両足院(建仁寺山内)

書院の内では、黒い畳が静寂を深めている。縁側は陽を受けて輝く。その縁に、黒い写真の波が押し寄せている。

地球の強い力をそのまま留めたこれらのモノクローム作品は、20世紀前半にドイツの前衛写真家が写し取った「干潟」である。

エールハルトはバウハウスで学び、干潟、貝殻、鉱物といった自然の持つ形状・形態のディテールに、写真という科学の眼で肉薄する。この西洋近代の感性を包むのは、禅の空間である。建築家・遠藤克彦は、これら前衛写真と庭園とを一つの風景として感じられるようにデザインした。

あるがままの形を徹底視されることで抽象的な美へと至った「自然」と、禅の思想によって人の手を入れられた「自然」とが出会う。それは西洋と日本の育んできた「知」が出会う場とも言えるだろう。

 

 

◆ヴィック・ムニーズ《Shared Roots》@ASPHODEL

バウハウスの時代ではモノの「形」はその外側から捉えられていたが、現代では「関係性」と切っても切り離せない。

歴史的なシャンパーニュ・メゾンであるルイナール社のプログラムに招聘されたムニーズは、ブドウの樹の「形」を木炭や木切れを組み合わせて再構築する。作者は約30年に亘り、砂糖やチョコレート、ゴミ、化学物質といった様々な物を使って、コラボレーションでの活動を行ってきた。

階を上がると作品制作のプロセスが明かされ、これらの作品が人の「手」と深く結びついていることが分かる。企業やワイン製造農家は時間をかけ、丹精を込めてブドウを育ててきた。そしてムニーズはその想いを汲んで、時間と労力をかけて作品を作り上げてゆく。

そうして生まれた「樹」のビジョンは、まるで別の生き物のように振る舞い、時には人の腕・手指に驚くほど似ている。人と企業、地域とが長い年月をかけて育んできた関係が、作品の形状には込められている。

 

 

◆ヴェロニカ・ゲンシツカ《What a Wonderful World》@嶋臺ギャラリー

ゲンシツカの舞台仕掛けは、「写真展」というフォーマットを軽く越境している。

1950~60年代のアメリカのストックフォトに見る「パーフェクト、模範的」な家庭・家族像を、80年代生まれのポーランド人の眼から再考する。

展示空間では当時の模範的なアメリカの家庭環境が再現され、写真作品は当時のストックフォトを模している。が、完璧であるべきはずの写真の中では、顔面の一部欠損、人物の重なり合いと一部行方不明、四肢の延長といった、奇妙でシュールな操作が施されている。

ソファに半身を沈めていると、家具と写真が「家庭」というフォーマットを及ぼしてくるのが何となく分かる気がした。それらは平静を装うが、ゲンシツカが何かしら綻びを与えているので、いかに凶暴なフォーマットか、違和感に気付くのだ。

それは健全で・一般的な・あるべき家庭像――男女、親子、幸せといった各種の社会的役割を、個人に強力に(無言で)要請している。その指摘は、SNS上で「完璧に」振る舞おうとする現在の私たちを射程に捉えている。

  

金氏徹平《S.F.(Splash Factory)》 @京都新聞ビル 印刷工場跡

陽の射さない地下の旧工場は、光と影の立体アトラクションと化していた。

ゲンシツカより更に「写真展」というフォーマットから遠く、とてもダイナミックな劇場が広がっている。観客は、空想の滑走路のように動線上に置かれたペットボトルの光を頼りに歩きながら、広い工場跡に点在するオブジェ、抽象画や映像と出会ってゆく。

実は抽象画に見える作品が、写真である。工場の壁面に着いたインクの染みやキズ、汚れを写した画像から、Photoshopの作業によって壁面を除去し、ペンキやインクの痕だけを取り出した。それらをまた新工場の機器の写真に重ねている。

ここでは「写真」は、展示の一要素として身を潜めているように見える。だがデジタル化によってマテリアルを越境し、如何なるところにでもプリント出来るようになった現在の「写真」を思うとき、メディアとしての可変性と展示場との関係を逆流させ、可変性を場に横溢させたのが、本展示ではないだろうか。

 

◆イズマイル・バリー《クスノキ》 @二条城 二の丸御殿 御清所

会場は、映像を投影する展示としての場と、外界の光を取り入れるピンホールカメラの内部という、二つの属性が併存している。

会場は閉め切られていて、暗い。

真っ暗な中に、光が灯っている。

ここでの作品(光)は2つある。1点目は、作家が配した動画映像やオブジェだ。日々の世界の中に確かに存在している、風や重力、光が起こす微細な運動を捉えたもの、そして母国チュニジアとの結びつきを語るものだ。

もう1点は、会場に射し込む戸外の光だ。更に言うと、光の先を覗き見ようとする観客の行為そのものが、作品だ。壁の穴やスリットに貼られた紙から、光がぼんやりと射し込む。暗闇を泳ぐ観客の眼はそれらに引き付けられ、その向こうを覗き込み、外界を見ようとする。

タイトルの「クスノキ」とは、作家自身がそのようにして外を見やったときに目に留まった、クスノキの木のことだ。それを発見するとき、観客の眼によってピンホールカメラが完成する。

 

 

◆顧 剣亨《15972 sampling》@Sfera

空間は動画メディアの内側と化している。

壁面に並ぶのは15,972枚の連続写真だ。これらは中心や起承転結の構造を持たない。「作品」として観客に向けられたものというより、この外側にいる"誰か"に向けて出力されるべきもののように見える。我々観客はイメージの貯蔵庫へと裏から入り込んで、その内側を見ているようだ。

現在、動画メディアは趨勢を誇り、「写真」を過去のものへ押しやってしまった感がある。されど、全ての動画はそもそも1枚ずつの静止画から生まれるのだと証しているようでもあり、写真寄りの人間としては何だか嬉しい。

15,972枚という物量は、作家が京都を歩く間(約52時間に及んだ)、15秒に1枚のペースで自動シャッターが切られて集まったものだ。「歩く」行為と「撮る」行為とが密接不可分に同化していることも、また、「写真」の意味を拡張させてゆくものだろう。 

 

◆ベンジャミン・ミルピエ《Freedom in the Dark》@誉田屋源兵衛 黒蔵

写真自体が、躍動の舞台、動きの現場と化している。

作者はダンサー、振付師、映画監督として活躍しているためか、人の動きへ強い注目がある。ダンサーが自己と向き合う身体行為として踊る姿と、一般市民がロサンゼルスの都市を往来する際の無自覚、無機質な動きとが、それぞれ壁面いっぱいに展開される。

「時間そのものを撮っている」と作者は言う。写真という構図の枠組みを超えて、動きが飛び出してくる。写真は本来、動きを凍結させて閉じ込めるものだろう。ミルピエが独特なのは、時間を停止させるのでもなければ、会場設営の妙によってでもなく、写真そのものが根本的に「動き」であることだ。

写真をシームレスに面で並べられた本会場では、観客は「動き」をかなり強く体感できる。私たちが体を「動」かしたのは、何時だったろうか?

 

 

◆「Magnum Live Lab / 19 in Kyoto」、「パオロ・ペレグリン 《Antarctica/南極大陸》」、「岡原功祐《Ibasyo―自傷/存在の証明》」@堀川御池ギャラリー

「ドキュメンタリー」についての考察。1会場で3展示が催されている。

1Fの「Magnum Live Lab / 19 in Kyoto」は、4/21まで10日間の公開制作が行われる。パオロ・岡原の両名が京都市内を散策し、それぞれの関心から撮影したものを、その日のうちに編集・プリントして1日分ごとに壁に張り出す。最終日にはまた異なる形へと編集が施されているかも知れない。

特徴的なのは、会場内に作業場そのもの(事務所のように机やPCが置いてある)が設営されており、観客のいる前で編集のやり取りがなされるという。「ドキュメンタリー」の生成過程そのものについての展示と言えよう。

 

2F「パオロ・ペレグリン《Antarctica/南極大陸》」では、大きな壁面の一つに南極の空撮動画を流し、周囲の壁面には細長い台を這わせ、蛇腹状の写真でパオロのカメラマン人生を一挙に提示している。

氏は世界を股にかけて飛び回り、紛争などを取材し続けてきた。動画では、気候変動の影響を調査するNASAのプロジェクトの一員として、南極が危機に瀕していることを、壮大な風景から伝える。これらの仕事は、地球規模のダイナミックな「ドキュメンタリー」だ。 

 

2F・もう一つの会場は、「岡原功祐《Ibasyoー自傷/存在の証明》」を展開する。

岡原はパオロと対照的に、圧倒的な「個人」に向き合う。自傷行為を繰り返してしまう5人の女性らの日常に寄り添い、社会の誰の目にも明かされていない「家」の中、「傷」の生まれ出る現場でシャッターを切る。何気ない穏やかな日常から、救急搬送される様子、入院中の姿まで、眼が離せない展開が続く。

展示室の中は暗く、更に5つに区切られている。これは5人の女性らそれぞれの孤立を表わしてデザインされたという。だが、外の喧騒や眩しさを思うと、この暗闇の部屋は、被写体のモデルらが外界から避難し安らぐことのできるシェルター、繭のようでもあった。 

 

◆「彼女、私、そして彼らについて」キューバ:3人の写真家の人生と芸術 @ y gion

堀川御池ギャラリーがドキュメンタリーのマクロとミクロを表わすなら、y gionではある社会・国における「時代」の変遷をドキュメントする。ここでは世代の異なる3名の写真家が、それぞれに生きた時代の「キューバ」の姿を語っている。

1番目の会場は「アルベルト・コルダ《彼女について》」

柱の写真は、チェ・ゲバラの最も有名なアイコンだろう。このポートレイトを撮影した写真家がコルダである。ここではゲバラの写真――1959年「キューバ革命」前後の仕事を見ることが出来る。革命前の端麗なファッション写真から、革命後には女性兵士の凛々しさへと、写真家にとっての「美」の対象が移行していく様子が知れる。

なお、1968年には政治的事情から写真が抑圧され、コルダはスタジオを閉めることとなった。その際に作品のネガ等が失われたため、本展示ではビンテージプリントはなく、様々な関係者から協力を募ったとのことだ。それ以降、キューバではしばらく写真が途絶えたとの話がされた。 

2番目の会場は「ルネ・ペーニャ《私について》」

1980~90年代のキューバ社会を反映した、演技的なセルフポートレイト作品である。1957年生まれの作者は、大衆が「個人」へと移行し、社会主義体制が崩壊してゆく時代を生きた。(1898年にベルリンの壁が崩壊、1991年にはソ連邦が崩壊した)

個人はフラジャイルで、守られていない存在となった。

ペーニャは自身の体により、性差の揺らぎや、刃物や有刺鉄線などに裸が晒されつつ、外界から守る術もない様子を表現する。変装と演技なのだが、アメリカや日本での演出セルフポートレイトと異なり、アートとしてのコンセプトよりも静かな切実が先立つものだった。

 

最後の展示場は「アレハンドロ・ゴンザレス《彼らについて》」。 

1974年生まれのゴンザレスは、コルダの体験した写真抑圧の時代の後、写真が再興してゆく時代に生まれた。その間の社会のことは写真に残されていないため、政治的儀式、歴史的な場面をリサイクル素材の模型で再構築し、写真に収めている。また、計画の破綻したプロジェクトにまつわる

また、公にはフォーカスすることのない個人の顔と名前に注目し、性的マイノリティやストリートの若者を撮影している。LGBTの人々は、カストロ政権下では目に触れないよう隠されてきた存在であった。

 

以上3名の展示は、他の出展作品と比べると極めてオーソドックスに壁に掲げられていて、従来のKGにおける「写真」展示の雰囲気が味わえた。

 

 

アルバート・ワトソン《Wild》@京都文化博物館 別館

世代ごとに語られる社会の多様性もあれば、ある個人が長年、一貫して追求してきた「多様性」もある。

本展はポートレイトの巨匠アルバート・ワトソンの回顧展である。氏の重厚なキャリアと多彩な作風を受けて、広いホールを迷路のように入り組ませ、個々の写真との出会いを楽しむものとなっている。

ワトソンは50年以上のキャリアを持ち、世界各国の著名人を撮り、100誌以上の著名誌を手掛けてきた。とは言え、冒頭に上げた坂本龍一(1989)に代表される、ストレートなポートレイト作品の展示を期待して行くと、かなり予想を裏切られる。

木々など自然の事物の形状、風景の織りなす形の妙、著名人と不可思議なモノとの取り合わせ、銃を握るサルの手、人獣混交するミック・ジャガーや女性モデル… その関心は「多様性」という語では収まらず、森羅万象に開かれているようだ。

 

◆ピエール・セルネ&春画 @誉田屋源兵衛 竹院の間

 

(会場が撮影不可だったため、公式サイトより引用)

時代を越えた「性」のクロスオーバーである。江戸時代の春画と、抽象的な現代写真との2つが交互に展開される。

白と黒の抽象画、墨汁のような平面作品が「これは写真です」と言われても、全く写真には見えないので、何度も凝視することになるだろう。吉原治良の円にインスパイアされたとしか思えない。本当に奥行きがないのだ。その手法が「カップルの性行為の間、シルエットとして映るようスクリーンを通して撮影した」と明かされたところで、これらの白と黒のとてつもない平面性は揺るがない。

二人の人間が愛し合う姿は、場所や姿形だけでなく、主格――誰と誰が、すなわち性差を含むあらゆる属性もがフラット化されている。壁面には、被写体となった人たちの名前だけが記されている。

 

春画は浦上蒼穹堂・浦上満コレクションから出品されている。現在、春画は高い評価と関心を集めているが、その着火点となったのは2013年・大英博物館での企画展であったという。日本でも永青文庫(2015年)、シャネル・ネクサスホール銀座(2019年)で展示が催されたが、記録的な入場者数に上り、特に女性からの人気が高かったという。

「性」は誰もが、個々人の自由と選択によって享受する時代になっている。

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( ´ - ` )  

 

全11プログラムを駆け足で紹介した。

今回のKGのテーマ「VIBE」は、我々人類が共通して持っている「何か」のこと――インスピレーションや感動、葛藤や絶望などあらゆる心、魂の動き、共振や共鳴のことを指すとされている。

 

私はこれを、「写真」自身の内なる揺らめき、外界との共振・共鳴と読み替えた。

同じ「写真」という映像メディアが、振れ幅・振動数・音質によって――場所、撮り方、大きさ、素材、テーマ等といった形態の組み合わせ方によって、予期せぬ大きなメタモルフォーゼを次々に起こしていく。今まで「写真」と呼んでいた了解事項の枠から、どんどん越境してゆく。それを目の当たりにした。

 

そのためか、クラシックな写真がわりと好きな私にとって「この作品がイチオシ」と特段に言えるものが難しかった。どれも観てそこそこ面白かった。が、過去のKGで味わった「写真」としての中毒性や深々とした悦びは、今のところ得られていない。(深瀬昌久メイプルソープ、ヨシダキミコ、ロジャー・バレン、古賀絵里子、、どれも熱狂した。)

強いて言うなら、岡原功祐の自傷する少女ら、ベンジャミン・ミルピエのダンスの躍動、バウハウスのエールハルト、か。ヴェロニカ・ゲンシツカのPOPな米国ダークユーモアもハマれば中毒性があるはずだ。脳髄に甘い電撃が欲しい。

 

それはもしかすると、ドット絵の世界に深く興奮を得てきたファミコン育ちの単独プレイヤーには、スマブラの立体空間で縦横無尽に対戦に興じる気持ちがよく分からない、いうことに似ているのかもしれない。

いやどうなんやろう。違うと言ってくれ。

 

 

 ( ´ - ` ) つづく。