nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【KG+】【54】三宅章介、【41】苅部太郎、【55】新納翔

KG+、「AI」「デジタル」の観点から3組の展示をレポ。

【54】三宅章介「ミトコンドリア・イヴの末裔たち」@ギャラリー16

【41】苅部太郎「洞窟の解剖学」@ホテル アンテルーム京都

【55】新納翔「BUG」@GALLERY GARAGE

画像、写真、「イメージ」は今や誰が握っているのか?

人間の主観や内面か、外界の客観的・即物的な事物か。その二元論に「AI」「デジタル」が割り込んで、三次元的に拡張され、圧倒的繁殖が起きている。

 

ぶっちゃけ「写真」や「イメージ」は誰のもので、誰が何処から生み出したものなのか、段々と、急速に、分からなくなっている。

一つにはAIによる生成。集合的学習に紐付く単なる出力アプリと見なすなら、学習の元となった大量の元データにオリジンがあり、つまり人間の真似事でしかないのだが、果たしてそう喝破できるような簡単な代物か。

二つ目はデジタル世界そのもの。AIの棲息域であり出力画像が所属する界だが、より広い目で見れば画像出力という現象や、画像の存在自体を成立させる次元、隣り合わせで目に見えている異次元世界である。

これらを扱う展示を特集する。

 

【54】三宅章介「ミトコンドリア・イヴの末裔たち」@ギャラリー16

AIによって産み出された若い女性たち。その参照元は、作者が若い頃(20歳)の証明写真である。1970年代の嗜みから長く伸ばした嵩高い髪の毛は、AIの学習経験からは「若い女」と判定された。

そうして百人の黒髪メガネの若い女性が産み出されたわけだが、幾つか奇妙な点がある。

 

1つ目、百人の子孫は似ているが、細かく別人であること。生物種としての遺伝形質を問うなら、彼女らは「似た他人」である。確かに凄まじくよく似ているが、犯人探しのモンタージュ写真のように、顔の構成パーツにバリエーションをつけた、パターンの組み合わせ結果でしかない。人間の家系なら、目元が同じとか横顔の口元が同じだとか、決定的に強い類似、強く血縁を想起させるフォルムの同一性があるのだが、不思議とこれらの百人からは感じない。同じで、良く似てはいる。だが決定的な繋がりを得難いのだ。生物種の遺伝とは異なるアルゴリズムが働いている。擬人化された演算処理そのものを見ているような気持ちになる。

 

二つ目、美女であること。デフォルトが「美女」で、その土台を堅持した上で、顔のパーツのバリエーションを総当たりで組み換えている。頬が大きく痩けたり目鼻立ちのバランスが若干いびつな者もいる。が、大きな外れ値はとらない。百人とも生理的に好ましく、なんならギリギリ性的な、異性としての消費を喚起するような好ましさ、見られることへの誘導を備えた顔をしている。

つまりAIから産まれた子孫は、産まれながらにしてアイドル、不特定多数への客商売を宿命付けられている。透明化されたクライアントビジネス、いや私達が潜在的に抱えている欲望(見たい、触りたい)と願望(そうなりたい)の可視化、結晶化。え?出力画像はプロンプトの発注によって操作できるって?その万能めいた応答システム自体こそ、クライアントの要望に忠実な、欲望と願望の化身であるという証左だ。

 

3つ目、写真であろうとし続けていること。

等身大くらいの大伸ばしにされたことで、生成された画像の細部が確認できる。顔や背景には無数の黒いえぐれ、ノイズを固めた金属片のようなものが写っている。これらは自然と生じたノイズではなく「写真らしさを模倣し、写真から写真を生成した証」である。

読み込ませたのが古い証明写真であったため、AIは「黒髪でメガネの若いアジア人女性」だけでなく「少し傷んだ古い写真」という物理的状態までをも遺伝形質として継承したのだ。

つまりAIには「ヒト」と「写真」の区別はない。メタの域で、可読の全ては同列に扱われる。新しい認知フィールド/生命の定義が感じられる。

 

16万年前にたった一人のアフリカ人女性から始まった、6500世代の交配によって至る「私」というミトコンドリア・イヴ仮説に、実に多くの次元が合流している。資本主義的欲望と願望、新しい認知世界、ヒトの姿をした演算(エンジンの面影)、そして「写真」の定義の拡張 …懐かしく新しい電子と遺伝子のサバンナを想うのだった。

 

【41】苅部太郎「洞窟の解剖学」@ホテル アンテルーム京都

三宅章介作品よりもぐっと「古風な」画像が並ぶ。黎明期で成長期のAIは、用いるAIの種類・バージョン、呪文、各種設定によって絵柄が大いに変わる。苅部太郎の画像は「2023年にバズったスパゲッティを食べるウィル・スミス」よりは現代的で精緻な描画だが、画面全体に満ちたぎこちなさと直接的さ、あまりに典型的な絵には「ダサさ」を覚えてしまう。なんてベタな!?

 

――「典型的な」。不意についたこの感想が、そのまま本作の肝だった。会場入ってすぐのギャラリースペースに置かれたのは新作<Typical World>シリーズ、その名の通り「典型的な(typical)」を接頭辞として付与した名詞をプロンプトとして読ませ、出力させたものだ。

黒い瞳孔と青と白の虹彩コントラストが美しい片目のアップ。フライドポテトと共に皿に載せられたふくよかなハンバーガー。曇り空を明るく照らす夕暮れ、古風なヨーロッパの町並みを見やる窓枠。白いシャツと白い帽子に身を包んだ水兵の群れの中を闊歩するトランプ大統領。マーベル的アイアンマン風ヒーロー。洋ゲー登場人物風の中年男性キャラ。交戦し着弾する中、海に浮かぶ戦艦。肉屋に解体される牛の頭。イコンの列。入口から強い外光の差し込む洞窟。等々…

素晴らしく典型的な世界。ボケとエモ、シズル感と高解像度、写真のような写真、尤もらしさというリアルの反復と模倣、象徴を飾り立てる背景、誰のための世界か、イデアと呼ぶにはあまりに陳腐で卑近すぎ、これが私達の潜在意識であるならば首を吊りたくなるほどチープで新聞的だ。そうなのか。

かつて人類は洞窟の中に狩りの動物の画を描いて、それが表現、絵画、芸術へと、人類史へと至っていった。今、洞窟とはXやTikTokのごときグローバルのプラットフォームであり、AIの演算式の中なのか。それは経済強者の管理支配する恐るべき洞窟である。イメージは、誰のものなのか。

 

奥の通路では<あの海に見える岩を、弓で射よ>シリーズが続く。抽象度が高いどころではなく絵としては壊れていて、グリッチ、ドットがギザギザ、ガビガビと唸っている。

「AIのバイアスを引き出し、機械の眼に幻を見させた」とある。何のことか確証はないが直感的にはその通りとしか思えない画像が続く。それらは風景だ、元の引用元のない、現実の地形として存在しない光景である。ありえるとすればまさにデジタル画像のバグ、PCやモニタ不具合によって意図せず事故的に遭遇した乱れだろう。

ステートメントを読むとまさに、本作はデジタルグリッチの生じた画面を撮影し、「風景写真認識システムに読み込ませることで、AIは機械学習した記憶をもとにデタラメな風景画をでっち上げる」作品だという。

「風景画」というのが重要だ。これが単なるバグやノイズではなく「風景」であるならば、主観はモニタ、画像の向こう側に在り、そして向こう側には更に広大で広がる「世界」が存在している。

残念ながら今はまだあちらの世界を「デジタル世界」ぐらいでしか呼びようがないが、あちら側で起きた、デジタルネイチャーの自然現象、四季、気候変動を、デジタルの内側からデジタル界の言語で語らせたのが本作ではないか。この話は落合陽一に通じる。イメージは誰のものでもなく、デジタル側の「自然」が無意識に抱える、原始のスープのようにして「在る」のだろうか。



【55】新納翔「BUG」@GALLERY GARAGE

都市の写真を撮り続けてきた作者の変遷は激しくスピーディーで、それは都市を巡る写真史を圧縮したようにも思える。

「山谷」(2011)、「Another Side」(2012)は、西成と並んで日本最大級のドヤ街・山谷に6年間通って撮影した「都市」の下部・裏側のスナップであり、現地の労働者に肉薄している。「Tsukiji Zero」(2015)は言わずと知れた築地の移転1年前の姿で、これも労働現場のリアリティとノスタルジーがクロスする。これらは作者の肉体と作者の身を置く「現場」の肉体性との共存による都市写真である。

だが「PEELING CITY」(2017)では東京という都市空間全般に対象が広がり、道行く人、車、建物、影、構造、平面、それらと交錯する人、人、人・・・と無制限都市スナップとなる。人々の生きる場・生きている姿を捉えた古き良きスナップショット(身体的構図と身体的反応)の他に、光と影と平面が都市景を押しなべて無重力のオブジェクトのように見せるときがある。奈良原一高「消滅した時間」を現代東京でリトライするように、強い日差しとオブジェクトあるいは影を画面中央に据えて、時間軸を90度倒して日常の都市系を未来へ傾ける。

都市は未来を呼び得るのか?

 

後者の可能性=未来召喚に注目したのが「PETALOPOLIS(ペタロポリス)」(2021)だ。作者の従来系:古典的ヒト・ドキュメンタリー様スナップではなく、都市の虚構的ともいえる光景、未来へ時間軸を倒した「非・今ここ」を意識的にやっていく。都市の巨大構造体で画面の重心を占め、ヒト現実(人間個人が足をついて立つ場)のスケールを極端に狂わせたり、画面外へ追いやる。更に時空間に匿名性を高めるため、気付かないレベルで加工・補正が施され、例えば道路の案内標識は単色で塗り潰される。

(※後に作者氏から教えてもらったが、「加工しているように見えて無加工である」という点が重要で、手元の操作は最小限、ごく一部である。例えば最も”それっぽい”道路の案内標識も、リアルに空白だったものが撮られている。リアルに「あるべき姿が未だ到来していない」状態、すなわち「未来」が、今の現実として撮られている点に特徴がある。)

 

「東京」という地名の特権性をも脱した超・東京景は、汎「都市」として普遍的な光景を見せる。個々のパーツ、機構、形状と風景全体との関係は入れ子構造であり、写真・画像レベルでは主従関係も高速で入れ替わり、そこに序列や前後関係、東西南北は存在せず、太陽光と影とがシン・奈良原一高=時の零度化を広域に発動する。奈良原がかつて剝奪した「時間」はワンシーンごとの光沢、モダニズムの芸術性を指すもの(と戦争の記憶をクライマックスとする強烈に反転したノスタルジー)だったが、ここではより広範囲、都市全域において時が奪われている。無機質と反復と直線・平面とが織り成す連続体であることがフラットに推し進められる。「都市」の中で都市空間には始まりも終わりも中心もなく、作者には戦争やトラウマ、死別と愛着のような典型的原点、感情の時間的方位も持たないのだから。

 

都市と経済に残されたのは高さへの希求だけで、人間に出来るのは絶え間ないダウンロードだけである。

肉体的、人情的、物理的でなくなってゆく「都市」景を、「高さ」への希求とデジタル世界への近接から表現したのが「unsustainable」(2022)だ。それはもはや、これまでの作品のように「都市空間を歩いてその中から撮った写真」ではなく、完全平面「画像」、転送中の画像データを停止した姿のように色のラインのみが伸びている。人間が身体で介在できない次元に転送された(侵食した?)「都市」が、まるでウイルスのように/従来と同じく強烈な自己増殖を催すも、土地・空間に広がって占めてゆくのではなく縦へ縦へとのみ線を放つ。

「都市」というイメージがデジタル世界側の光景として本格的に取り込まれ、再構成され、そしてデジタル界の内部と、こちらの物理の都市とは見分けがつかなくなる。

 

本展示は「PETALOPOLIS」と「unsustainable」の混成部隊で、特に「PETALOPOLIS」をデジタル世界寄りに再考して提示されている。

都市で無数に繰り返される名もなき構成・形の無機質なパターンは、もはや画像上の複製&ペーストのモンタージュと区別が付かない。現実感を失った、データから構成されたような街。それは「街というデータ」と何がどう違うだろうか? 写真のみならず、都市、空間という意味すら再考を迫られている。迫られていく。

デジタル内に私達が意識を持って目を開けたとき、新たなエリアの都市がインストール、転送されてくるときの光景はまさに「unsustainable」のとおり、巨大なデータ線の束によって、無神の天啓のようにして降りてくるのだろう。ダウンロードの朝がくる。

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( ◜◡゜)っ 完。