写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】金村修「Marshmallow Brain Wash」「Killing Agent」@HIJU GALLERY(本町)

【写真展】金村修「Killing Agent」「Marshmallow Brain Wash」@HIJU GALLERY(本町)

都市は誰のものか。誰のものでもない。都市はただあるがままに「都市」なのだということを見せつけられる。そこには作家の手や眼や息吹すら超えて、切り出された「都市」が鮮魚、内臓のように生き生きと在る。 

 

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【会場】HIJU GALLERY(ハイジュ・ギャラリー)

【会期】11月10日〜12月9日 13:00〜20:00
 (火、水、木は休廊)
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本展示は2つのパートから成る。かなりゆったりとした空間 鑑賞者は「見る」と言うよりも、その中に佇むことになる。

「Marshmallow Brain Wash」

モノクロームで切り出された都市の光景はどれも見慣れているはずだが新鮮だ。通勤通学、飲み会への道など普段から馴染みのある光景が、異様な生々しさをもって迫ってくる。遠目からには、それぞれの画面内にはいわゆる主題、主たる被写体がなく、断片的な印象を受けるが、一枚一枚の画の中に入って行っても、逆に遠ざかって複数枚を壁単位で見ても、捉え処のない生々しさに襲われる。

一見、断片的だが、そこに曖昧さはない。モノクロームに託されがちなノスタルジックもない。奇抜でも斬新でもない、そして都市のスナップに期待されがちな決定的瞬間もなくドラマ性もない。被写体(「体」なのか??)はデジャヴも起こさず、言葉にも捉えられず、作者や鑑賞者の情緒の外側にあり、しかしそれらは絡み合いながら画面の中で脈々と生きている。活発に動いている最中の臓器や血管、髄、脳神経の中をしかと写し出したかのように瑞々しさがある、「都市」が今そこで生きていることの根拠資料となっているのだ、まるでCT、MRI画像で人体の各部位が生きている様を確認しているかのように。

 

この得体の知れない生々しさについて少し考えてみると、一つには、我々が触れ、生活している「都市」とは何か? という話がある。もう一つは、写真のフォーマットの話がある。

まず都市の姿の話であるが、「都市とは何ですか?」と、ペンと画用紙を渡されたら、100人中90人ぐらいは高層ビル、ビル街、ビル景を描くだろう。気の利いた人は高架の鉄道路線や高速道路、あるいは店舗・広告の看板の群れを書き込むだろう。あるいはビルの合間を縫う通勤の人込みや渋谷のスクランブル交差点めいた雑踏をイメージするかも知れない。

ここで皆の考える「都市」とは、「山を描いて下さい」と言われた時に描かれる富士山めいた単独峰のアレと同じく、風景やデザイン的なもの、すなわち記号化された「都市」(ビル群、群衆、雑踏、交通インフラ、広告など)のことである。

なるほど確かに外から簡略化して捉えるには、ビルや道路、鉄道網の集まりだと捉えると簡単、便利でよい。だが都市の中身、その記号が内包しているモノはどうだろうか。

実際の都市は、滅茶苦茶である。景観のよい場所、整ったスポットは実は少なく、電線が覆い、高層ビルの合間に自販機や自転車があり、ビルは建築年代に応じて装いが異なり、拭くのが難しい場所の窓や窓の下は雨水の跡が亡霊のように付き、電線が覆い、自転車や歩行者やサイネージやら絶え間なく何かが動いていて視界は遮られ、個々の店舗や広告の主張は単個のレベルではデザインが最適化されているが全体としては滅茶苦茶で、電柱と電線は滅茶苦茶で、歩を進めれば視界のパーツのどれかがどれかに覆い被さり、電線が覆い、駅などの行先表示や注意喚起の掲示物は個々には正しい情報なのだが群となると滅茶苦茶で、Webデザインめいた簡潔で綺麗な壁と天井に火災報知器やスプリンクラーが埋設され、電線が覆い、視界に無数に走りうねる配管や配線はどれも要らなさそうだが多分切って片づけると店の親爺が支障をきたすので取りあえず全部必要で、その脇を車が通り抜ける、電線が覆い、ガラスや金属の壁に風景が照り返して複層化する、牛丼や足つぼマッサージやパチンコの店が繰り返され、照明が瞬き監視カメラが全てを見つめていて、電線が這い、カラスと工事作業員が往来する、その合間を街路樹が申し訳程度に緑を与えて癒しをもたらし、その傍らに脱げた靴やメガネが落ちていて、自販機が佇んでいて、飲み終えた発泡酒レッドブルの空き缶が転がり、鳩が歩き回り、一斉に飛び立ち、客引きが歩いていて、電柱と電線が滅茶苦茶である。

と言った風に、都市の内部で本当に目に見えるものを一つずつ挙げていくと、辞書をランダムに読み上げるような謎の行為と化してゆく。まさに我々が普段触れている日常そのものの「都市」なのだが、実際に誇張なく細部を拾い上げて見ていくと、とんでもない情報量を秘めていることが分かる。

普段の生活においては、我々は一定の指向性に基づいて行動している。通勤にせよ遊ぶにせよ散歩するにせよ、それらの行動には目的地と目標時間がセットされ、情報の取捨選択が手際よく行われている。しかし都市自体には、個々の物件や開発区域ごとにおける個別最適化はあれど、その内部のディテールや互いの領域の狭間にまでは統御は及ばず、節々でひどく狂っている。都市は都市計画なり条例なりデベロッパーの提案なりによって開発されコントロールされていたはずだが、実用に供され、年が経つにつれて綻びが生じ、徐々に意図せざる結果として民の生活、営みに侵食され、混ざり合う形で、ほどよく狂ってゆく。

そうして権力的なコントロールの「外側」が、都市の内部において生成されてくるのだろう。金村作品にはそこが写し出されているように感じる。権力の生み出した機構が、そこに棲まう民の営みに日々侵食され、撹乱され、ついには権力の「外側」と化した姿である。それこそが90年代以降の、高度成長を終えた後に迎える「都市」の、ハードウェアとしては浸食、老朽化が進む一方となる時代の、本質的な姿ではないだろうか。都市は誰のものなのか、誰がそこに居るのかという問いである。

 

このことは2番目の、写真のフォーマットの話とも関連する。

言うまでもないが一般的な写真には美が求められる。美を増幅させたり、美への欲望を駆り立てることが期待される。もしくは真実や社会的意義が求められる。被写体の美を引き出すこと、主題は明確にすること。写真の入門書では必ずそのような指南がなされる。一見自由な表現領域に見えて、実はビジネススキルとしてのプレゼン力と遜色のない論理構成と訴求力が求められていると言えよう。

そこには評価の構造が浮かび上がる。よい写真、美しい写真の評価軸に叶った、レベルの高い写真は雑誌でもSNSInstagramの界隈でも賞賛され、スターを生み、ワナビ層を生み、傍観者やアンチを生む。評価軸と評価システムは、それを守りたい人たちによって強化され、「よい写真」は定型化する。都市に対する写真のありようもまた、その枠組みから逃れることは出来ず、定型化し、だいたい相場が決まってくる。写真において期待される「都市」のイメージ、語り方は、フォトグラファーとして腕を鳴らしてきた先輩諸兄ならばお手の物だろう。

だが金村作品は、評価を許さない。評価の枠組みに与することを許さない。この一枚一枚の作品の良し悪しを評すること自体を許さない。皆が一つの土俵で番付を競っているときに、金村作品は外側でエフェクターの効いたストリングスを響かせているのだ。同じ「写真」のようで、やっていることは全く異なり、恐らく同じジャンルですらない。相撲とパンクぐらいにかけ離れている気がする。

金村作品は、良い意味で「汚い」。様式にも評価軸にも由来していないやり方で、そうしたところで撮っていて、型らしき型がない。ノイズで鳴らすジャズだ。いや、ジャズの痕跡を残したノイズだろうか。パンクだろうか。ひとまず「汚い」。だが、よい。ビート自体はある。音楽としてしっかり成り立っている。

この感じは覚えがある。

アジェだと思う。都市の有り様、その器官の生きている様を、一般的な美の土俵の外側で撮っている。型や評価軸に嵌めずに、都市の姿の内をみっちりと見つめ続けている。都市の生きた内実だけが浮かび上がる。表現者の意図、美意識などは反映させない。汚い。都市に行き交う不特定多数の、様々な暮らしや装置や運動が雑ざったままを撮っているからだ。

美しさとは、ある評価基準に則って選定・剪定することだ。あるいは生を選定されることで叶えられるとされるスローガンだ。権力の御業。それが美の正体ではないか。私の陰謀論ではない。美を決めるのは権力だ、と多くの人が忠告したり、怒ったり、諦観したりしている。金村作品はその「美」の帝国から逃れ出る。しかし隠遁しない。彼はそこにいる。そして聴いたことのない音楽を演る。演っている。

眼前に貼りだされたこれらは写真作品であるけれども、私はこれは、金村修という一個の個人の打ち出した思想行為だと思っている。本来の都市のカオティックな姿を認め、すなわち有象無象の、色んな立場の民の営みを認め、その絡み合い雑ざり合う有様を認める。取捨選択による記号化を許さず、価値判断での美の評価にも与しない。その姿勢は、権力の外側に生きることを、権力のお膝元、真っ只中で実践していると言えよう。だが誰のことも否定せず攻撃もしない。これは離れ業だ。ゆえに思想なのだ。

  

「Killing Agent」

カラー作品である。モノクロに比べると画面に占める「面」の割合が大きい気がする。モノクロは構造体同士の遠ー近、手前ー手前のせめぎ合いと、全てのものが稼働中の臓器のようにディテールを有して生きている感があったが、カラーは陶酔感が非常に強い。ここでも生々しさは健在だ。

個々の被写体が何であるかは分かるのだが、フレーミングに誇張がなく、変な角度で傾いていたり、映像の中に反射系があったり、薄く別のレイヤーが載っていて、面としての風景の氾濫が満ちている。それらの色調やトーンについても誇張がなく、爽やかな外気を感じるほどにあっさりとしており、それがこちらの認知に違和感なく入り込んでくる理由だろうか。

どこか物憂げで詩的ですらあるが、個々のモノが、詩にしては「モノ」としてしっかり立っている。しかしモノとして捕らえようとすると、絶妙に奇妙なフレーミング、反射、写真の向こうからの発光など、様々な光のレイヤーが干渉し、それらを言語化することを妨げている。ゆえに個々のモノの識別を免れさせ、軽い幻惑作用がある。

どこまでも捉えようがない。ゲイリー・ウィノグランドやリー・フリードランダーの現代版、Ver.2.0といった捉えどころの無さだ。それゆえに、ソファに腰かけていると、体を映像に浸すことが出来る。

 

都市は誰のものなのか。誰のものでもない。政治力や経済力でそれを飼い慣らすことは可能だろうか。原理的には可能である。だがそれを成し得る時は、そこに生き、繋がる私たち民の暮らしが、去勢され、死んでしまう時だろう。都市は、活発に蠢く内臓のようであらねばならない。美の政治により、飼い殺しにされたり、拘束されてはならない。都市は、我々、得体の知れない有象無象の民の集合体なのだ。ということを、想った。

 

( ´ - ` ) 完。