【写真展】大坪晶「Shadow in the House」@BLOOM GALLERY(大阪・十三)
大戦後、進駐軍に接収された住宅の一部は今も残っている。本作はそうした物件の内部で撮られている。日本の辿った大文字の歴史を語る空間であると同時に、それぞれに住んだ個人の暮らし、人生を刻んできた場でもあった。大坪氏はその重ね合わせの場に、「影」を呼び出す。
影は写真というメディアの中で、さらに入れ子のメディアとなり、鑑賞者に「記憶」の想起を促す。
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【会場】BLOOM GALLERY(ブルームギャラリー)
【会期】H30.11/24(土)~12/22(土)
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本展示にかかる取組の意図や意味については、美術批評家の高嶋慈 氏が歴史的、文化的な見地からしっかりとテキストを寄せており、ギャラリーで配布されている。なので皆さん会場に行きましょう。
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これで終わると「なげやりになってやがる」「よいスマホゲーと出会って依存症がぶり返したのでは」とあらぬ心配を招くだろうので、映像の森の中を誤読しながら書きます。ましょう。
「影」として召喚されているのは、かつてそこに住んでいた方々の、個人の、存在感の名残のようなものだと思われます。では個人というのは、これは何世代か重ね合わせになっている。まずは、元々の邸宅の持ち主。二つ目は、接収した進駐軍ら、アメリカ人家庭。三つめは、進駐軍撤収後に再びその家に住むことになった人や施設管理者など。
接収住宅の特異な点は、このように一度、他国に取られて、また返されたことで、混血状態になることでしょう。元が和室だったものを、アメリカ人家庭の生活の場にするので、床やら壁やら調度品やら色々と触ります。なのでどの作品の舞台も、どことなく日本離れした、雰囲気のある神秘的な場となっています。ただ、言われないと接収住宅であるとは気付かないでしょう。各物件には歴史・建築学上の面白さが過分にあると思われますが、それらについて語ることは留保されていて、あくまで静謐に、その場に漂い、遺された何らかの、存在の気配、声の痕を、聴くように、撮られています。
ここに呼び出される「影」ですが、壁に刻まれた染み、影であったり、明らかに人の残像が動いているものもあります。後者は、作者がダンサーを場に招き、場を解釈してもらって振る舞ってもらい、その動きを撮ったものだそうです。常人と違って、ダンサーは身体そのものを媒体とし、体に情報を溜めたり空気感を投影したりさせることが可能です。常人はだめです。常人が動くと、腰がいたいとか私太ったとか足の爪切んの忘れてた痛いとか、身体以前の課題が多すぎます。ダンサーは体と動きで、「場」とアクセスできます。その成果として、写真というメディアの中で動きは「影」となり、その「影」自体が「場」の何らかの情報を投影するメディアとなっています。すなわち大坪作品では、メディアの入れ子構造が取られており、観客は写真を見ると同時に、その中に「過去」、ひいては一定程度の解釈のなされた「記憶」を見ることに繋がっていきます。
ただし「記憶」は普通には汲み出せません。井戸水を引いてくるようなもので、単にダンサーが動いたり、雰囲気のある古い物件で写しても、それだけでは難しい。多くのフォトグラファーが、歴史的にいわれのある建築を舞台に雰囲気のある写真を撮っても、その奥行きがなく、はりぼてのようにして終わるのに対し、大坪作品はもっと多層で、奥深いところへとアクセスできる。
井戸には水源が必要で、それは情報です。「撮る」以前に、場の根底に流れる情報、すなわち過去の「記録」が流れているかどうか。この国や地域が辿ってきた記録を探し、収集すること、そしてもう一方では、物件の元・住人や関係者らの証言、思い出語りを得ること。これら公・私の二方向から水源を掘り当て、情報のプールを得た後、そこにメディアを吊り下ろして、「記憶」を汲み出すこと。実際に大坪作品においては、取材、調査に相当な労力がかけられています。
こちらは同時展開されていたインスタレーションで、「作品」になる手前の世界、資料編です。3名で渡米し、5日間かけて、米国国立公文書館で公的に管理されている資料の中から、日本の接収住宅に関する写真などのデータを探してはスキャンしてきたとのこと。9万枚の資料の中から日本の目当てのものを選別し、スキャンをかけ続ける日々。鬼。鬼です。
しかしこれらの資料が非常に面白く、ご覧のように敗戦直後の日本がどのようにアメリカナイズされていったのかを如実に語っています。東松照明と対にして読んでも面白いと思います。
これら資料編がメインの写真「作品」と対になって展示されることで、本作の取り組みの奥行きが分かります。
逆に言うと、写真作品だけを予備知識なしで見ても、恐らくそれが日本の戦後の一時期に関する状況を考察しているものとは、気付かないでしょう。ただ、全体的に主張、情報の抑制の効いた中で浮かび上がる壁や床、柱、調度品のディテールは、時の流れの長さを物語っており、何か亡霊のようなものが画面内に揺らめいていることからも、何らかの「記憶」らしきものを表わしていることが、伝わります。
そこから、好奇心を持って踏みこんでみると、これらの多くの資料、評論が、私たちの知らない「日本」について語ってくれることでしょう。
写真集もあります。が、なんと受注生産のため、1冊1万円オーバー。うぐあぐっ。さすがに手が出ず。
「Shadow」シリーズ3部作(※私が勝手にそう呼んでいる)が辿れる一冊となっており、「Shadow in the Room」、「Shadow in the Mirror」、そして本作「Shadow in the House」が順を追って収められています。パーソナルそのものの「影」と、それが立ち現れる場が主題としてあり、次第に「場」の意味の広がりが増してゆくことが分かります。
これ一冊あると、大坪氏という作家が、「影」の作家であることがよく分かり、会場の「Shadow in the House」の見え方もまた変わります。高嶋氏の評論や資料編から入ると、非常に考古学的、この国とアメリカとの歴史・文化の検証を行う作家として、写真集から入ると、パーソナルな存在感の揺らぎを問う作家として、それぞれの系譜が作者の像を膨らませてくれます。
改正水道法がスムーズに成立したりしたので、一人で「日本は日本をころす気か」などと怒っていたのですが、まあそれはそれとして、安いうちにいっぱい水道水を飲んでおこうという気になりました。うそです。
( ´ - ` ) 完。