nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【KG+】2025.4/18_KG+Discovery Award 2025 @QUESTION 4F

「KG+」展示審査で選ばれた出展者10組によるプレゼン審査を、取材という形で聴講させていただいた。写真表現の多彩さに改めて目を見張った。

 

KYOTOGRAPHIEサテライト展示イベント「KG+」出展者からグランプリを選出する「KG+Discovery Award」、2023年から始まった企画で、従来は展示のみでの審査だったところ、今回はノミネートされた10組の作家によるプレゼンテーション審査が加わった。

(※「KG+SELECT」アワードとは別の枠組みなので注意)

 

アワード受賞者には、KYOTOGRAPHIEパーマネントスペース「DELTA」(@出町桝形商店街)での展示機会と、副賞としてFUJIFILMのデジカメ・GFXシリーズ最新作の「FUJIFILM GFX100RF」が贈られる。

 

審査員は、KYOTOGRAPHIEディレクター・仲西祐介、写真評論家・タカザワケンジ、協賛の富士フイルム株式会社 プロフェッショナルイメージンググループ・高元遼一の3名。(敬称略)

 

審査は、一組10分のプレゼン+審査員からの質疑によって進行した。

 

◆審査結果発表/2025年アワード受賞者:SHIFT80

「KG+Discovery Award 2025」受賞者は、「SHIFT80」(シフトエイティ)に決まった。

10組とも取り組みのレベルが高く、それぞれに意義があり、最後まで悩ましく難しい審査で、決定は僅差だったことが語られた。

 

審査員の「写真家が写真を作るというより、活動家が写真を使って活動している点が、写真の新たな可能性を見せてくれた」という評が、受賞の全てを物語っていた。

 

実を言うとプレゼンを聴きながら、私も「もし選ぶとしたらSHIFT80だな」と思っていた。

写真家による写真作品・展示のプレゼンを聞いたり読んだりするのは、展示ばかり回っているのだから当然ながら日常会話のように常である。だがアクティビストや起業家が写真を用いて「写真」の外側にある事業について、事業の意義と利点、成果と伸び代、今後のプロジェクト見通し、更なる支援の呼び掛け、といったプレゼンを行うのは珍しく、個人的には初めてだった。

 

「写真」を具体的な活動に繋げて、人・モノ・金を動かし、未来の社会を作る。

一歩外に出ればこの形式のプレゼンテーションは、ベンチャービジネス界隈などではそれこそ日常会話、日常茶飯事なのであって、中には写真を使った取り組み・ビジネスプランも色々とあるのだろう。だが界隈、文化圏が異なると、全く新しい言語のように聞こえる。

 

領域は細分化され没交渉化している。

SHIFT80は写真界隈の外からやってきて、「KG+」はその新しさを歓迎し評価したのだと思う。何故なら、取り組みが有意義で素晴らしかったから。そして、写真の有効性を思わぬ角度から示してくれたから。つまり、写真の未来の姿を見せてくれた。

 

表彰では審査員から、副賞である富士フイルムの世界最高品質のGFXシリーズを用いて撮影し、更に被写体のディテールを見せてほしいことや、その成果を写真集など本の形で見せてほしいこと、発刊に向けてもしクラウドファンディングをする際には、KYOTOGRAPHIE、KG+として協力したいというメッセージが贈られた。

おめでとうございました◎

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では以下に、一人ずつ発表順に概要をレポートする。

 

1.【KG+72】Louise Mutrel(ルイーズ・ミュトレル)

作者が来日できず、フランスで録ったプレゼン動画が流された。録音の文字起こし・翻訳では内容把握に相当な不安があるため、以下は他サイトの情報も付加してまとめる。

 

展示「Eternal Friendship Club」日本のトラック文化、デコトラ文化を研究した作品である。

2017年から1年間の日本滞在を経てフランスに戻り、2019年から写真プロジェクト「Only You Can Complete Me」を開始。日本のクルマ文化を調べるが、歴史的な資料は見つけられず、Instagramでのアプローチも効果が薄かったため、2022年に輪島でのデコトラ関連の集まりに参加。輪島に限らず、全国の様々な場所でデコトラ愛好家が集まるイベントがあるようで、それから作者は交流の場に出向いて交流を深め、撮影を行ってきた。

 

トラックはドライバーの魂そのものであるという。自己表現であり、愛するものに捧げている。描かれるのは、伝統的な演歌歌手、アメリカのポップスター、マンガやアニメ、浮世絵などである。また、魚を配達するトラックには幸運の神が描かれるなど、ドライバーの仕事や行動とも深く結びついている。

絵の描かれた箱を駆って、村から村へと旅して、自分たちの物語を語る様を、作者は「紙芝居」のようだと語る。

 

プレゼンの中で「ガンダム」という言葉があったように、トラックのメタリックかつ角張った突起に満ちた頭部・顔面は、日本のサブカルチャーとハイテクノロジーの掛け合わされたデザインである。更に、サブカルというだけではなく、ドライバー自身の人生・物語も載せた、複合体としてトラックはある。プレゼンを聞いて、日本のトラック、デコトラというものが、非常に精神的であり、それは個人的なだけではなく、コミュニティの伝統や美学を現わしたものであると気付かされた。

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2.【KG+31】顏鵬峻(Pen-Chun Yen)+菅実花

二人展である。静物・非生物をまるで生きているかのように立ち上げ、逆に、目には普通に見える生の世界を生と死の狭間へと転換させてみせる。展示Unreal-Real 輪廻重生」は、「事実の痕跡でありながら、被写体=現実とそれが表すイメージとの間にズレが生じている」という二人の共通点を活かした構成となっている。

 

顏鵬峻の説明ではエナジー」や「宗教」「仏教」という言葉が聞かれた。道路を疾走する映像は「エナジー」そして「宗教」に結びつき、台湾の「野柳地質公園」、上に向かって花が咲くような奇岩に満ちた海岸公園と観光客は仏教における四十九日の狭間を歩く幽霊に喩えられ、そして身の回りにあるモノや光景からは宇宙、天体が見い出される。

見立て、比喩と呼んでしまうのは容易い。そこに働く直感的な想起の連鎖反応が重要なのだ。信仰の生まれる原初的な動機かもしれない。

 

対する菅実花はドールを用いる。過去作ではラブドールを人間さながらに撮っていたが、今作では「リボーンドール」、生まれたての赤ちゃんを模したリアルな人形を、まさに生きた乳幼児のごとく写真に収める。更に写真は19世紀の「ポストモーテム・フォトグラフィー」と重ねられ、アンブロタイプ(ガラス湿板写真の一種)で作られることで、当時亡くなってから埋葬されるまでの間におめかしして撮られる写真文化を呼び起こす。

ドールと死者、命に近付けるよう作られたものと、命を失いつつも生前の姿を模されたもの。現在の写真文化とかつてあった写真文化。生と死、人工と命の狭間で、割り切れないグレーの線上を歩むような作品に、顏鵬峻の世界がリンクして乗ってくる。

 

こうした特徴と差異を踏まえ、元・製薬会社の地下室を再利用したスペース「Kurasu HQ UG」の諸室を用いて、二人の作品は展開されている。

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3.【KG+19】SHIFT80(坂田ミギー、政近遼、堅田真衣、池谷常平、下村恵太)

冒頭の通り、「KG+Discovery Award 2025」アワード受賞者となった。

 

「SHIFT80(シフトエイティ)」は「 80%の利益を使って、世界をシフトさせる 」、より具体的には「利益(分配可能額)の80%をアフリカに還元する」というプロジェクトで、2022年8月に発足。複数のメンバーからなり、発表はファウンダー・代表者の坂田ミギーが行った。

 

事業の内容は、ケニアのキベラスラムにおけるファッションビジネスを通じ、困難な状況にある現地コミュニティに利益を還元するというものだ。俗称かと思ったら地図に「KIBERA SLUM」と表示されるのを見ても、経済状況が地域名として定着しているようだ。首都ナイロビに近く、道一本、柵ひとつで断絶された格差地域である。

 

取組みのきっかけは、日本で広告代理店に勤めていた坂田が過労で倒れ、仕事を休んで世界一周の旅に出、ケニアを訪れた際に、現地のエネルギーに救われたことにある。言わば、恩返し。

女学生らが生理用品を買うことができず、学校を休みがちになり、十分な教育機会を得られないことで貧困のループが起きていることに着目し、2018年から月経教育と生理用品の支援を開始した。そして、新型コロナのパンデミックでキベラの人達が仕事を失う中、更なる支援のために取り組んだのが、ファッションである。これは、ケニアには衣類の仕立てやお直しの文化があり、手にしやすい技術だったためだ。

 

ここで写真が登場する。

キベラスラムの人達に縫ってもらった衣服を、彼ら彼女ら自身が着て、モデルとして立ってもらう。その姿を撮影し、ファッションとして発信する。

こうした具体的なビジネスモデルや理念については、ファッション分野をはじめ多くのWeb記事で取り上げられているが、注目すべきは写真の効能である。

 

まず、現地の暮らしの状況を伝えるという従来的な用法。作品はキベラスラムでの若者らの工夫の凝らされた住環境を伝える。写真だけではなく、会場の京都大学吉田寮の室内で、現地の住居環境を再現するインスタレーションが組まれている。土壁と木製ベッドだから虫が湧くわ木が腐るわという環境だが、本来はゴミである小麦の袋や車の部品の断熱材で家を覆って暮らしていることが分かる。

ちなみに、会場の京大吉田寮とキベラスラムは家賃が月2,500円でほぼ同額という経済圏であり、また、どちらも権力によって生活の場が脅かされているという点でも共通している。地球上の遠く離れたところで2点がリンクしたのだ。

 

そして、前述の通り、写真を用いたファッションの取組み。現地発の産業としてPRするだけでなく、お洒落とビジネスを自ら手掛けることで、若者らが自分に自信を持てるようになる、プライドを持つようになる効果が大きい。そうして、無かったことになっている自分たちの存在を発信したいという想いへと繋がる。

 

更に次の段階として、写真・映像の教育も行っていくという。SHIFT80スタッフがキベラスラムの住民らに服を着せて撮影するのが今回のステージなら、次のステージは彼ら彼女ら自身が写真を撮影し、それを発表する。

 

「私は、次ここに立つのは私じゃなくて、キベラから来た彼らかもしれないって、本当に思っています」

 

坂口ミギーの言葉は直球で刺さった。それは「写真」の主体が滑らかに移りゆくこと、力の自由さを如実に物語るものだったのだ。

shiftc.jp

shift80.jp

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4.【KG+50】近藤央樹、上田佳奈、かなまる。

作家3人一組で取り組むのは「ゴースト・イメージ」、3人それぞれが別の答えを持ちながら、不明瞭なままに目指される表現だ。

 

各人のバックグラウンドが微妙に異なるのが面白い。近藤央樹は写真・映像・デザインを軸にしてイメージや「見ること・見えること」に関心を持つ。上田佳奈シルクスクリーンや写真など痕跡的なメディアを用い、「うつし取る」ことによる情報の変質や記憶の曖昧さをテーマにする。かなまる。は写真と絵画の境界を主題とし、「記録と記憶」「記録と表現」の間に揺れる写真の本質を探る。

「写真」という手法を使うこと、意味や実体を確定的に取り扱わず、むしろ曖昧さや境界、揺らぎを扱う姿勢が共通している。

 

・デジタル写真の欠落感、コマ切れになった意識

・物質的痕跡から抜け殻のような表層的イメージとなったことで、見る行為や自意識にもたらす変化

・記録の安心感と、それによって手放される記憶

 

よって作品・展示は揺らぎに満ちていて、10組の中で最も抽象性が高く、意味や形の同定を躱す作品となっていた。写真、映像、テキスト、音声が、半透明の布やフィルムに映され、投影された像は、層であり膜であり空間でもある、といった風に移ろいゆく。投影される像は、3者が日常の中で撮った断片的なもので、言葉もまた然りである。

 

会場内に鑑賞者が入り、自分がそれらの揺らぎの中に干渉し、また揺らぎから何かを見出すことによって、作品は完成するという。現地で体感してみないと分からない、生成と作用の現在進行形の体感そのものが作品なのだ。

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5.【KG+24】木下大輔、櫻井朋成

「便利堂コロタイプ」で二人展を行っているということからも、卓越したプリント技術、古典的で重要なプリント技法が肝となる作品だと察せられる。実際その通りで、スクリーンを用いての理念やコンセプトのプレゼンだけでは伝わらない視覚の美的領域こそが本作の魅力であり、審査員と聴講者に回し見してもらうためのプリントが配られた。

キメ細かく、美しかった。

 

タイトル「恵みの循環」だが、よりストレートなテーマとしては「感謝と祈り」についての探求であり、木下大輔が日本の神社を舞台に水と稲作文化を、櫻井朋成がフランスのジュラ地方で催される古来からの感謝祭「Fete du Biou(フェット・デュ・ビュウ)」を撮る。

歴史を超え、国境を越えて、自然の恵みへの「感謝」の念を表す営みが続けられていることに着目し、「恵み」とは一体何なのかを問いかける。文化人類学的な写真なのか? 後に実際に見てみるとそうではなく、調査的写真というより、「感謝と祈り」の実在をそのまま写真技術によって、写真の姿で表そうというものだった。

 

そのイメージの強度をもたらすのがプリント技術である。木下大輔はプラチナプリント、櫻井朋成はフォトグラビュール(銅版画技法)でイメージを具現化する。感謝と祈りはどちらも所作や象徴、媒介物、儀式の形では表明されるが、それそのものは心、内面の動きであり、究極は目には見えない。目に見えないものを現わすために、プリントに気配を込める。

 

「私達にとって写真とは気配を写す表現です」

 

それは写真表現の真髄のひとつだ。

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6.【KG+110】佐藤真優

郊外のニュータウンと観光土産の絵葉書とを掛け合わせることで、更に人工的なランドスケープが到来する。展示「白昼の街」は不思議な人工の風景である。

 

ニュータウンは既に「ニュー」ではない。郊外の野山を切り拓いて造成され昭和の人口増を支えた住宅街は既に老朽化と高齢化によって社会問題化しつつある。大衆の夢と目標として掲げられた理想郷であったはずだ。そして土着的な地縁やしがらみからも切り離された、新たな世代の、第3次産業に従事する核家族のための新天地であったはずだ。

しかし作者はその光景から生活感、痕跡、老いをphotoshopによって人工的に取り除き、より人工的で白昼夢に近いヴィジュアルを作り上げる。

人工的×人工的の二乗によって辿り着くのは何処なのか? 聞けば作者は絵画の出身で、そちらでも人工的な絵葉書の景色のようなイメージを描いているという。「私は写真という時間の概念を持たないメディアを通じて、このような不思議な瞬間が存在することを表現したいと思っています」

 

時間の概念を失った、ネオ・人工的ランドスケープは一体何を指し示しているのか? 昭和の高度成長期の夢と目標をよりノスタルジックに想起させるのか、それとも戦後ずっと欧米を神話化しアレンジし続けることでしか生きられなかったという絶望的な楽園の縮図なのか。

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7.【KG+28】林田真季

「KG+SELECT 2021」で「山を越えて」を発表した林田真季、扱うテーマは今回も同じく日本国内における自然・環境破壊で、産業と山が絡み合って大規模な破壊を抱えている状況を扱っている。

が、今回の「Silent Echoes of the Cedar」がユニークなのは、スギ人工林の特殊性を指摘していることだ。

 

世界各国の森林破壊は、過剰な森林伐採=人間の過干渉によって引き起こされている。だが日本の場合は、林業の衰退から手入れが放置されること=人間の無干渉によって、杉の木しか無いという生態系の途絶えた山が生まれ、森林破壊が進んでいるという。

戦後の急激な復興、住宅供給と人口増に応えるために、日本中の山でスギ林が作られた。だが現在、超高齢社会かつ安価な材木輸入に頼る構造の中で、スギ林は経済資源として見なされず放置されているところも多い。放置された林の中は暗く、スギ以外の植物は光合成が出来ず、何も育たない環境となる。

 

だが作品は告発やドキュメンタリーの様相を帯びない。社会問題・環境問題としての陰影をくっきりと表すよりも、「スギ」という存在に対して、前向きに捉えているようにしか思えない。スギの雄花=花粉の発生源を拡大したルーメンプリント(印画紙にモノを置いて太陽光で露光する技法)は、「スギ花粉(症)」という記号を食い破る存在感を示す。作者は「おばけ」という言葉を用いた。亡霊ではなく、モンスター的な、尋常でなく大きい、計り知れないものというニュアンス。おどろおどろしさ、脅威というよりも、驚異がある。

 

資源のために産み育てられたはずなのに、放棄されて怪物化した「スギ」に対して、作者はよりメタな・物質レベルでの写真的アプローチを試みる。いや生命力を写真に回帰させるというべきか。ルーメンプリントによって光を取り込ませ、スギから抽出した現像液を使って銀塩プリントを制作するという工程は、写真の世界側でスギの植物としての生命力を発現させようとしたと言える。展示空間も、スギ林に光が差し込むように構成され、スギ木材を並べ立て、ピンクがかった写真は自然界の中で補色の関係から異様な色味を帯びるスギ林の特異性を再現する。

 

こうして「写真」によってスギ人工林をポジティブに、再・生命化して再考していることが、本作の特徴なのだと感じた。

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8.【KG+26】千賀健史、林田真季

「RPS京都分室パプロル」で二人展を行う千賀健史・林田真季だが、二人の作品の並置でも二人による合作でもなく、個々の従来作を一つの空間で混ぜ合わせ再構築したのが本展示「After All」である。

 

特殊詐欺の実行犯の生態や手口をトレースし自演する千賀健史「Hijack Geni」と、日本の山で行われてきた産業廃棄物の不法投棄のアーカイブ写真をまとめた林田真季「Beyond the Mountains」が、会場の大きな壁面で混ぜ合わされている。二人展というよりも融合展と言うべきかもしれない。

 

なぜ両者が混ざりうるのか? 2人の扱うテーマが「犯罪」であること、徹底的に資料をリサーチする手法であること、そして二つの犯罪・反社会的ビジネスで人材が流動していることが大きな理由である。

90年代をピークとする産業廃棄物の不法投棄が法整備などで立ち行かなくなると、そこで活動していた層が次に拓かれた市場である特殊詐欺へと移り住んでいったという構図がある。取材でこのことを知った林田が千賀に声をかけたことも、融合展の実現に繋がっている。(直接的には2020年に林田、2022年に千賀が「シンガポール国際写真祭」ダミーブックアワードでグランプリを獲得し、出版が決まったことが契機となっている)

 

本展示は日本における負のループ:アンダーグラウンドの経済活動というものが、一度ハマったら地下(犯罪)から抜け出せない現実を物語っているが、両者の作品は前述「7.林田真季」の項でも書いたように直接的ドキュメンタリー、犯罪告発というニュアンスではなく、もっと善・悪や主体・客体の混然となった、多面的なものである。それを更に混成させたのが本展なので、観客自らがビジュアルに分け入りながら思考していくことになるだろう。何を? 

これらの犯罪、経済、人の流動は終わりがない――「結局、」という、消極的輪廻とも諦観ともつかぬ本展示タイトルに、思考は立ち戻らされ、更に問いに向き合うことになるだろう。

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9.【KG+09】松島星太

目も覚めるような冴えたブルーのキービジュアル、冒頭で流された雄大な雪と氷の景色のドローン映像。「Till someone whispersはアラスカの旅を写した作品である。アラスカはやはり自然が大きくて美しいな…と誰もが思ったところで、しかし、作者がまず到着したアンカレジでは「アラスカの現実」を突き付けられたという。

 

期待し、思い描いていた「アラスカ」と異なる「現実」、街の中は不穏な空気が漂い、道端には横たわる人がいて、大麻を吸う人がこちらを見つめていたり、ホテルニチェックインすると受付に「誰かにノックされてもドアを開けないで」と忠告される。生身で感じる現実との「ずれ」からアラスカ旅は始まる。

 

次に作者は最北端の街・バローへ移動する。氷点下30度を下回る寒さで、今も先住民が暮らしている土地は、捕鯨の街でもある。アンカレジとは真逆に、自分の足音しか聞こえないような真の静寂の世界があったという。

終わりのない雪の上を歩いているとき、作者は誰もいないはずの景色から「囁き声」が聴こえたような感覚に陥った。

それはこの街で暮らしてきた誰かの記憶が、風に乗って気配として感じられたのかもしれない。この囁きが、タイトルの意味のひとつ。

 

バローから南下し、フェアバンクスを経由し、アラスカ鉄道に乗って再びアンカレジに戻ってきた。旅の最終日にバーで一人で飲んでいる時、カウンターの少し離れた席に座っていた女性が立ち上がり、作者の元に歩いてきた。何かを差し出して「日本では合法だろ?」と囁いて去っていった。それは大麻だった。その時作者は、これまで外から見つめていた「アラスカ」に、初めて溶け込んだ気がした。この「囁き」が、タイトルの二つ目の意味である。

 

これまで観てきた映画などの作品から、壮大で神秘的な風景を無意識に描き、作ってきたが、アンカレジから見える社会の歪みや、逆にバローの厳しい寒さ、環境の中でも力強く生きる人達の姿から、それこそアラスカ本来の姿であると旅の終わりに気付いたのだった。

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10.【KG+06】吉田亮人

「KYOTOGRAPHIE 2017」で発表された「Falling Leaves」、後に「The Absence of Two」=二人の不在と題された作品は、本来そこで完結するはずだった。

ここまでの作品:祖母と従兄弟との日々と関係、その死別については、「ほぼ日刊イトイ新聞」連載で詳しく語られている。

www.1101.com

「幼少期から面倒を見てくれた祖母のことを、高齢になってからは逆に従兄弟が面倒を見て、最期を看取る」という当初の見立ては、あまりに急に、大きく崩された。従兄弟がある日突然失踪し、1年後に森の中で遺体として発見された。自死であった。その約3年後、祖母も亡くなった。

 

今作「The Dialogue of Two」=二人の対話、は「その続き」の話となっている。

きっかけは2020年にある人からメールを貰ったことにある。その人は自殺を考えていて、しかし同居している母と祖母がおり、先に逝くことの罪悪感や恐怖があるという。そこで、従兄弟に先立たれた祖母の様子を教えてほしいという依頼だった。

 

作者は、独りになってからの祖母のことも撮り続けていたが、祖母が独りでいる姿を見るのはあまりに辛すぎたため、何処にも出さないと決めていたが、メールの送り主には、写真集の形にまとめ、送ることにした。その人とは音信不通にはなったが、写真集としての制作は発展を続け、それが写真集・展示「The Dialogue of Two」の形になったのだった。

 

独りになった祖母は、ずっと従兄弟がバイクで帰ってくるのを待ち続けていた。バイクの音が聞こえると昼でも夜でも外を見るようになっていた。そしてある時、「帰ってきた」「ばあちゃん、ばあちゃんと呼ぶ声が聞こえた」と話をし始めた。夢ではないと言い、従兄弟が帰ってきた話をずっとするようになった。

この祖母の話――夢ではなく、見えない世界を跨いで、向こう側から従兄弟の声がやってきて、祖母がそれに応えるという姿を、写真と文字を使い、従兄弟の声と祖母の声が交錯し、こちらの世界からあっちの世界へとだんだんと溶けてゆく。そして、二人は邂逅を果たす・・・

 

「ある種、僕の希望かも知れないんですけれども」

 

あえて、物語としての写真集と展示が編まれた。しかし、祖母にとって、聞こえていた声は、リアルだった。そのような、フィクションとは言い切れない、真に迫った物語が、展示されている。

kgplus.kyotographie.jp

 

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皆さんありがとうございました。どの作者・作品も面白いので、これは全部回らないとだめです。だめだ、

回ります。 ※私がレポを書けるかどうかが問題( ´ ¬`)

 

( ◜◡゜)っ 完。