KYOTOGRAPHIEサテライト展示イベント「KG+」鑑賞レポ。4つの展示を紹介する。
【24】木下大輔、櫻井朋成、【36】岩波友紀、【28】林田真季、【52】高田洋三、ラロ・マイヤー、渡邊耕一、ダナ・フリッツ
- 【24】木下大輔、櫻井朋成「恵みの循環」@便利堂コロタイプギャラリー
- 【36】岩波友紀「FIRE BIRD 火の鳥」@NOHGA HOTEL
- 【28】林田真季「Silent Echoes of the Cedar」@hakari contemporary
- 【52】高田洋三、ラロ・マイヤー、渡邊耕一、ダナ・フリッツ@単子現代
「KG+」は基本的に展示間で関連、連動はないが、観て回った結果、一定の共通テーマを見出すことはある。上記4つの展示では、「自然」という共通項があった。実に幅の広い言葉ではあるが、それぞれに「自然」への言及があり、人と自然との関わり、或いは写真と自然との関わりを考察していた。
【24】木下大輔、櫻井朋成「恵みの循環」@便利堂コロタイプギャラリー
二人展である。作者二人は「KG+Discovery Award」公開プレゼンテーション審査(R7.4/18(金))に出場しており、概要は下記リンクより見ていただきたい。
自然の恵みと収穫、人間の感謝の念、それらを込めて手作りするプリントというトライアングル=循環を成している。
二人展である。木下大輔は日本の稲作文化に関する神社での伝統行事をプラチナプリントで仕上げる。櫻井朋成はフランス・ジュラ地方のブドウ作りとワイン造りに関する収穫祭「Fete du Biou(フェット・デュ・ビュウ)」の様子を、フォトポリマーグラビュールやエリオグラビュール技法(どちらも写真製版の銅版画技法)で形にする。
両者ともモノクロ写真だが、質感は全く異なる。プラチナプリントはその名の通り金属的なツヤと透明感があり、静謐な印象が高まる。フォトグラビュール技法は透明感がなく代わりに空気感の厚みが宿り、時代・歴史の彫りが深まる。両極にある描写だがどちらも被写体と構図にマッチしていた。それらは液晶画面で見る白黒、インクジェットの白黒とは全く意味が異なる。
ここで、デジタルに時間は宿るのかという問いが出てきた。手作業によるプリント技法は化学反応の積み重ねであり、反応と手順・過程という時間の尺、幅の奥行きが宿る。だがデジタル写真は、画面表示にせよインクジェットプリントにせよ、描画に要するのは即時的なその瞬間であり、点を集めた限りなく線に近いものになる。
米もワインも時間をかけて土と水から作られ、古典的・近代的写真プリントもまた水と時間をふんだんに用いて、手間暇をかけて丁寧に作られるので、両者が相似形を成すという構図は実に正しい。ヒトを頂点に置いたとき、食と文化という2点が底辺となって三角形を結び、その総体がこの人間というものになる。
【36】岩波友紀「FIRE BIRD 火の鳥」@NOHGA HOTEL
清水坂の麓にあり、インバウンド客しかおらず英語表記だらけのホテル。外国語と、ややビートの効いた大きめのサウンド溢れるラウンジを抜けて、エレベーターで地下1階に降りると、不可思議な小部屋へ導かれ、手前で靴を脱ぐ。
宿泊客の瞑想ルームなのか?
丸みを帯びた天井と壁でくり抜かれた、古墳の内部のような部屋である。床と壁には、ちょうど左右半分に、阿蘇山の緑と夜闇が拡がっていた。部屋自体が写真なのだ。瞑想用リラクゼーションルームのように見えてならない。草原の巨大な写真に占められている上に、正面の壁に壺があるせいで尚更そう見える。
阿蘇山の草原の写真が部屋、床と一体化して広がっているので、観客は文字通り、草原に足を踏み入れて、その広大さを体で確かめつつ、ハンドライトで細部を照らして回ることになる。
だがなぜライトが要るのかこの時点では分かっていなかった。
実は、壁面に貼り出された草原の風景写真は、カーテンのように捲ることができるのだった。ライトは草原の写真の幕を捲り上げて、その裏に貼られた個々の写真を見るときに、暗がりを探るために使うのだった。
草原の幕の裏には、作者手製の写真集と同じく、阿蘇の草原の恵みを受けて生きる人々、集落、そして自然の写真が並んでいた。
手製の写真集は見事な構成、編集と、画の力があった。最初、壁の写真が捲れることに気付かず、中を見ずにそのまま帰ろうとしてしまった。仕掛けに気付かなかっただけでなく、写真集が良かったので満たされてしまったのだ。
阿蘇地方の草原は日本最大級で、しかも約1万3千年前、縄文時代から続いているという。そんな歴史的な草原が日本にあるとは知らなかった。富士山とタメを張るのではないか。
しかし草原は、そもそも植生の遷移においては過渡期の環境に過ぎず、本来なら樹木が育って森林へ切り替わってしまうものだ。これを野焼きや牛の放牧、飼料のための採草によって草を刈り取り、人為的に草原のままに留め続け、草原ならではの湧き水や緑を得て、人の営みが維持されているらしい。
今、少子高齢化、畜産業の低迷と後継者不足によって、草原の維持は困難になっており、規模は大正時代に比べて半減しているという。人間の暮らしが自然なくしては成り立たないのと同時に、「自然」もまた人間との関係の中でその繊細な多様さを保っているともいえる。
こうした状況と危機感は、阿蘇草原再⽣協議会による「阿蘇草原再生プロジェクト」HPでもうかがえる。
写真集が実に良かった。広大な阿蘇の地形・自然だけでなく、その真っ只中で生きている地元の人々の存在がしかと見えた。野焼きの火であろう、立ち上る炎が、人々の生命力と重なって見えた。真っ暗な背景の中、見開きで掲載された、目だけを出した白装束の人物が、巨大な野焼きの炎の写真とともに印象に刻まれた。
作者が前作『Blue Persimmons』で約10年かけて追った、東日本大震災後の被災地と、不意に繋がる。人と自然とが織りなす営みとして、白装束と炎のカットは復興の中で再開された地元の祭りの衣装や炎とリンクする。そして同時に負のリンクとして、福島第一原子力発電所事故における重大なモチーフであり現場の従事者である、目以外を白い防護服にすっぽり包んだ作業員と、そして原子力の炎へと、連鎖の循環を成してゆく。
【28】林田真季「Silent Echoes of the Cedar」@hakari contemporary
「KG+Discovery Award」プレゼン審査に出場。作品概要はそちらにも書いた通り、日本独自の自然破壊・森林破壊として、放置されたスギ林=人工の自然が挙げられる。
他の生態系を寄せ付けない人工林が繁茂しているという矛盾する事態、これが他の国と大いに異なることに作者は注目している。人工的に作られた山林は日光を独占し、他の植物の生育、多様性を妨げ、スギしか生えない暗い山に閉ざしてしまう。
展示空間はプレゼンで語られていたとおり、実際のスギ林で体験するであろう陽射しの差し込みが再現されていた。会場「hakari contemporary」のエントランスが大きなガラス張りの扉になっていて、そこにスギ林の写真フィルムを貼り出すことで、陽の傾きに応じた角度の自然光が、まるで山の中にいるかのように差し込んでくる。
そしてスギの角材を林のように立てて、スギ花粉を生成し溜め込む雄花の拡大写真のルーメンプリント(をスキャンした写真)を配する。ルーメンプリントとは日光写真であり、光合成とリンクする。元のプリントは定着がなされていなくて、余白は紫がかっている。紫は、作者のトレッキング体験に基づく。普通の山道からその先のスギ林を見たとき、明暗差の強さと補色の関係から、黒みは紫として知覚されたのだ。
スギ人工林は暗い紫の「オバケ」である。
「オバケ」には亡霊だけでなく、怪物性や、べらぼうに大きいという意味もある。どれも放置スギ林に似つかわしい。
太陽と写真との関係が、スギ(植物)と太陽との関係とリンクし、自然界(人工の自然)と写真(機械の芸術)とを接続する。木下大輔、櫻井朋成「恵みの循環」における水と写真との関連性に似た構造がある。作品・展示もまた、どこかからリンクしてゆく。
【52】高田洋三、ラロ・マイヤー、渡邊耕一、ダナ・フリッツ@単子現代
「単子現代」(monado contemporary)はかなり小さなギャラリースペースで、ミニマルなカフェといった趣、長方形の小部屋が1つあるだけだが、うち長辺の壁1面はカウンター、手前の短辺の壁はドアと物販なので、残りの壁面1枚半に作家四組の写真や映像が並べられている。
観るときはわりとサッと観終えた。が、後から振り返って各作品とそれらが扱うトピックを辿り、分け入っていくのになかなかの時間を要している(まさに今)。
本展示は共通テーマに基づく合作ではなく、各作家の過去作からピックアップされている。どれもが「自然」に関連するものだが、もう少し言うと人間が関与して形になった自然、あるいは人によって作り出された自然と言えるかもしれない。
最も熱い話題は「バイオスフィア2」である。1987年から1991年にかけて建造された完全閉鎖型の人工生態系施設。7つの生物群エリアから構成され、1991年から1993年、そして1994年の半年間の計2回だけ実用された。偶然にもYouTube「ゆっくり解説」でトンデモ実験の実例として聴いたことがあり、ここで出くわすとは嬉しい誤算。とんでもない夢のような(空想と理想の限りを尽くしたような/無謀な蕩尽の極みのような)実験、人類史に残るレベルの「やってみた」系の極致である。
あまりに壮大で話題も多岐にわたるため、概要は他サイトに譲る。
宇宙移住を想定した際に必要となるシミュレーション、人為的に作られた完全閉鎖環境下での「自然」における、クルーの自給自足生活が試される。そこでは水や空気さえ外部と遮断された徹底された閉鎖系で、8人のクルーは特別な事態が起きない限りは外に出られず、外からも何も持ち込むことは許されない。
成功か失敗かは別として、この壮大な建造物と実験計画が入れ子状の「自然」そのものであること、だが内部でクルー=人間が意識的に日々働き続けなければ7エリアの生物群系は維持できなかったのであれば、「自然」とは一体何なのか?
出展者4組中2組がこの施設を扱い、高田洋三は2008から2018年の10年間に亘って写真撮影を続け、写真集『NATURE GUIDE』にまとめた。ラロ・マイヤーは施設内の映像、建設者から入手したアーカイブ映像を編集し、デジタルグリッチ効果によって時間の前後、虚実の区別を侵食させ攪乱する。
ダナ・フリッツ『Field Guide to a Hybrid Landscape』は4枚のモノクロ写真を提示。ネブラスカ国立森林草原地帯の砂漠めいた写真だが、作者Webサイトの解説によると、長年の放牧と野焼きで砂漠と化していた砂丘に対し、森林産業の創出と気候改良の目的から、一帯を取り巻く川を水源として活かし、19世紀後半から針葉樹林が植林された。つまりは人工的な「自然」がここにもある。
そして渡邊耕一『毒消草の夢 デトックスプランツ・ヒストリー』。この話は容易ではない。江戸時代に遡る。ある植物が毒消草として名を付けられ、海外から伝えられる。そこでは手描きの図像、名称の入れ違い・ズレが生じている。遡ること、15世紀の大航海時代。国・地域を超えて、時代を超えて、ある名もなき「植物」が「毒消草」として名と形を与えられ、流通してゆく。「自然」は経済であり、その変遷は博物学と化す。
最小限のスペースに込められたコンセプトや思想は、広大かつ深遠だった。
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( ◜◡゜)っ 完。