KYOTOGRAPHIE2020・本体プログラムのレポ。
「伊藤佑 町家」という5軒連なった長屋で展開された、福島あつし、マリアン・ティーウェン2名の展示をレポート。一方は日本の独居老人のドキュメンタリーと関係性、一方は「建築」の破壊と彫刻への転化(インスタレーションあり)という、ジャンルを大きく越えた展示が同じ長屋の中で繰り広げられていた。
【会期/KG本体プログラム】2020.9/19(土)~10/18(日)
- 【No.4】福島あつし『弁当 is Ready』@伊藤佑 町家
- 【No.5】Marjan Teeuwen(マリアン・ティーウェン)『Destroyed House』_写真作品 @伊藤佑 町家
- 【5】Marjan Teeuwen(マリアン・ティーウェン)『Destroyed House』_インスタレーション作品
今回は【No.4・5】、5軒並んだ長屋を分けて展開している。展示会場となるのは今回初だ。
ちょっと路地に入るので、2回目に行ったときに逆に迷子になった。
( ´ - ` ) おもいっきり民家。すごい。生活感がある。やったね。こういうのこそアートイベントの醍醐味。
【No.4】福島あつし『弁当 is Ready』@伊藤佑 町家
昨年の「KG+SELECT 2019」出品作。「KG+Award」グランプリを獲得したため、今年は【KG】本体のプログラムに抜擢されての展開となった。おめでとうございます。
「KG+SELECT 2019」での展示は、なんと写真を床に並べての展開だった。これは作者が従事する仕事:独居高齢者宅への弁当配達の現場を反映し、実際に弁当を置く位置=床の高さという「現実」を強くリンクさせたものだった。
インスタレーション合戦とならざるを得ないKG+SELECTにおいて、展示室内を加工せず、ほぼストレートに写真の中身を見せる姿勢は、逆に新鮮だった。その容もガッツリとした「写真」だったので、一番見応えがあった。
今回も非常にオーソドックスな展示形態で、町家2棟分の居住空間をほぼそのまま使っている。1階では室内の中央に展示壁を設置して写真を横並びに配し(選挙の候補者ポスターを貼るような横長の板を想像してほしい)、2階ではプロジェクター投影と巨大なプリント1枚だけを提示する。写真が生々しい現実のドキュメンタリーであるがゆえに、展示方法や空間が素朴であればあるほど、写真の中身が雄弁に語り出す。
特徴的なのは、2棟の家屋の使い分けだ。普通の民家なので、靴を脱いで部屋に上がり、見終わればまた靴を履いて外に出て、隣の家屋の玄関に向かい、また靴を脱いで上がり込まねばならない。
本展示ではそれを、作家としての心境や被写体との関係の「変化前」と「変化後」という大きな時系列の形で切り分けた。非常に素朴な構成だが、10年近くに亘って弁当配達と撮影を続け、悩み抜いた末に、ある時期から自分の壁を突き抜けていったことが、とてもよく分かる構成となっている。
まず1棟目の展示だが、写真を見て思わず暗い気持ちになる。わずか1,2枚を見ただけで、もう、独居高齢者の現実を突き付けられる。
とにかくストレートに「現実」なのだ。
まさに作者が、弁当配達人として部屋を訪れ、ドアを開けて、足を踏み入れた時に直面したであろう、衝撃や諦め、やるせなさなどの思いを、そのまま追体験できる。作者が従事していた弁当配達の仕事は、高齢者らの安否確認の意味も含まれている。まさに命の現場である。
暗い室内や廊下に大量の物が溢れ、乱れ、どれもこれも古ぼけていて、生活感が堆積・硬化している。ただ単に「散らかっている」のではなく、モノの全てが流動性を失っている。新陳代謝のなくなった空間、失礼を承知で言えば、主と共に「死」へと近付いている現場である。写真から「死」を感じて逃れられないのだから、この現場に立っていた作者はそれ以上に直面したものがあっただろう。
それを裏付けるように彼ら彼女らの動きは緩慢で、固まっていて、不具合があることを突き付ける。例えば床に寝転がったまま弁当を食べる男性は、ズボラなのではなく、体がうまく動かせないらしい、それでやむなく動かせる部位を使い、床に寝転がりながら弁当を食べる。そういったことが写真から分かる。
これらのカットは戦地で傷ついた市民や兵士の写真よりも、生々しくて痛々しいかもしれない。この街、隣近所の何処かにいるはずの「誰か」の現実が写っているのだから。それにいずれ、自分の身内の誰かが、あるいは将来の自分自身が、このような暮らしを送ることになるかもしれない。現実からは逃げられない。自分はたまたま、幸運にも、直視しなくてよかった/今後の保証は一切ない、そんな「現実」がこれらである。
そこには、作者の写真に対するスタンスと同時に、立場の無力さが反映されている。
この写真に行き詰まりを感じていたのは、他ならぬ作者自身であった。被写体とは、「弁当配達会社のバイト」と「注文主」という枠組みの間柄であって、医療職などのように直接的に彼ら彼女らの生活状況を好転させられる職能ではない。作者が写真(機)の機構に誠実であればあるほど、自分よりもずっと死に近い環境にあるという状況が克明に写り込むことになる。
「撮る」ことしかできない、絶対的に無力である。
作者の眼は美しきヒューマニズムやノスタルジーの白内障に覆われていないがゆえに、現実的な視線や関係性が、写真に強く反映される。
唯一、明るいシーンを集めた写真が6段×4列の小さな写真群で示されたが、それらはあまりに小さい。作者の言葉の断片が壁に貼られている。一時的に取り結んだ被写体との友好的な関係も、写真に写り込む現実の強さ、すなわち「死」とともにある孤独という「現実」を、別の意味へと変換してくれるものではなかったことが分かる。
私がまさに感じたように、この写真に写るリアリティは他でもない、作者自身の未来に対するリアルでもある。
隣の部屋ではそれが一変する。
2棟目の展示も同様に、選挙ポスターの掲示板のような長方形の板が設置され、写真が並べられている。シンプルな展示だ。だが1軒目とは、写真の表情がまるで違う。
高齢者らは明らかに生き生きしていて、エネルギーを宿している。なぜこんなに違うのだろうか。「彼ら彼女らが弁当を食べる、その生命力に注目した」との解説を聴いて、たいへんに納得した。作者の撮影行為は「独居の高齢者らを撮る」という冷酷な眼の働きから、「弁当を食らって生命力を得ている高齢者らを撮る」という、もう数段昇華された視座を得たわけだ。
なぜそんな変貌が可能になったのか?
写真の表情の変化とは、画面内にユーモアが写り込むのを積極的に許すようになったと言い換えてよいだろう。布団から飛び出た綿にまみれた男性はサンタクロースのように見える。数珠を手に何やら祈っているその人は「いただきます」をしているように見える。顔まで真っ赤に奇妙な配色が施された塗り絵はファンキーに見える。以前の写真にはなかったユーモアの妙は、「この状況はシリアスな”現実”である」とか「写真(家)は、客観的な”現実”を撮らねば・伝えねばならない」という、それまで支柱としてきた「写真(家)」の定義を、作家自ら、一度リセットすることでしか生じえないだろう。作者が長い時間をかけて挑んできたのは、被写体との関係作りというよりも、作者自身のレゾンデートルであった「写真(家)」なるものとの対峙や訣別だったのかもしれない。
「真実」は関係性の数だけ存在する。というより、ある現象や状況に対して、客観的に、克明に記録すること自体が、すでに無数の関係性のひとつ、one of themでしかない。だが作者にとっては、今その時に構えている写真の「眼」が全てであり、唯一の眼である。それを疑うならば、カメラを置くしかない。
作者は弁当を届け、本作を撮り始めて10年の間に、仕事から「逃げ出し」、部屋に引きこもるという「リハビリの時間」を挟んではまた配達の仕事に戻ってくるということを、3度も繰り返したという。
作者をうちのめし、また強く誘引しては現場へと連れ戻したのは、死と生の強烈なコントラストに他ならない。写真はその明暗をあまりに強く引き受け過ぎる。だが社会制度や企業、共同体らがこの先の未来を(たとえ壮大な嘘であったとしても)引き受けてくれない限り、映像化された明暗の強さは重いリアルと化し、たちまちのうちにいち個人が受け止めて支えるべき自己責任論へと転換されてしまう。
作者はその問題に対し、死だと思っていた状況の中にこそパワフルな「生」があると、向き合い直し、自己責任論を突破した写真(家)となった。その解答が本作なのである。
【No.5】Marjan Teeuwen(マリアン・ティーウェン)『Destroyed House』_写真作品 @伊藤佑 町家
福島あつしと同じ町家の並びの中で、ティーウェンの展示は3棟分に及ぶ。うち1棟は写真作品の展示、あとの2棟は家屋内の空間をフルに使ったインスタレーションだ。
まず写真作品から見てみよう。
かなり大きなプリントなので、現場では建築物の中を歩くように鑑賞したが、こうして写真で遠目に見ると、瓦礫で描いた絵画に見える。全く質感が変わってしまった。構造体の断面と積み重ねた建材のノイズ感が筆致と化して、リアルの建築物という感じがしない。ティーウェンの意図の通りとなっていることに驚いた。
外の休憩スペースで流れるインタビュー動画とKG公式パンフレットを参照すると、ティーウェンが破壊と再生、混沌と秩序といった相反するものを同居させる(どちらにも美が存在する)ことと、建築物を、破壊を、絵画や彫刻として提示するという、2つの明確な目的を持っていることがよく分かった。
柱や壁や床であった部分は、ことごとく削られ、砕けたり破れたりして荒々しく損なわれている。「建築」物として厳密かつ強固に与えられてきた機能や役割は砕かれ、剥がされ、解体され、意味は破壊されている。しかし破壊によって生まれた廃材はバラバラにされてから再取り込みされて積み上がり、それらが柱や壁になり替わり、「建築」の力学的本能だけが残されているかのように、立体的な空間を形成している。意味を持たない、別の秩序によって成立した空間構造である。
構造の様子は真横から断面として写真化されている。断面がはっきりと見えるように建築物は切り裂かれ、「空間」の内・外との差異は零度に凍結し平面化されている。「建築」は、内部に人の居場所を抱えるためのものから、独自のシステムや生態を「見せる」ものへと性質を大きく転じている。
意味や文脈は全く異なるが、建築に切断や穴を加えるアクション、そして社会的活動を行うアクティビストとして知られる『ゴードン・マッタ=クラーク展』(2018、東京国立近代美術館)を観に行けず、比較対象を自分の中に持てなかったのが悔やまれた。
1階の作品が水平線・水平面を旨としていたのに対し、2階の作品では対角線の連続が凄まじく、構造の強度・緊張感がさらに増している。力の緊張と安定のせめぎ合いが、建築上の「意味」を差し挟む余地を与えない。恐ろしく破壊的でありながら、破綻せず、力が保たれている。
これは建築の可能性を試すための行為なのだろうか? それとも絵画・彫刻の挑戦なのか?
作者はドストエフスキーを引用する。『人類は(構築と破壊の)二項対立を克服することはできない』。これらの途方もない作業は、人類世界に蔓延している構築と破壊の二項対立を共存させるためのものであるようだ。作者によれば、人類はこの対立の中で永遠に生きてゆかねばならない。その対立の激しさは極端な社会であれば強さを増す。個々人のレベルでは、それは「愛」によって解消されうるが、戦争や資本主義を利用する指導者らの存在により、人々は傷付けられ、その繰り返しに終わりはないという。これは建築というより文学や思想の作品だったのだろうか。
確かに建築物「破壊」とも「創造」とも、どちらか一方で捉えることもできない力の重ね合わせがある。これまで2008年から現在までオランダ、ロシア、南アフリカ、ガザ、フランスで制作が行われてきた。既存建物の再利用(解体)であるから、その土地・国に特有の建築物、建材、そして建築思想が反映されているのは間違いない。
ティーウェンの思考と実践を写真の中だけでなく、実際に空間で体感できるのが、町家の最後の2棟だ。
【5】Marjan Teeuwen(マリアン・ティーウェン)『Destroyed House』_インスタレーション作品
ティーウェンが今年2020年の1月から4月にかけてここ現地に滞在し、解体・再構築を行ったのが本作だ。しかも作業を行ったのは本人とアシスタント2名の、計3名だけだ。
外からは何の変哲もないように見えたが、玄関の扉を開けて中に入ると、暗がりの中で、実に家屋2軒分の空間が全く別種の地下室と化していた。
本作は混雑緩和のため、20分刻みでのガイドツアーで事前予約形式となっている(予約枠は1回あたり最大6名)。現場ではスマホでの写メ撮影のみ可。(私はプレスツアー参加のため一眼レフで撮影。)
入ってすぐに巨大な「円」が登場する。作品名『サークルとスクエア』(現地での口頭説明による)。写真では見えないが手前の足元には土が盛られて土台となっている。この円の裏側には黒い四角が潜んでいる。陰と陽、破壊からの構築、壁面と空洞...
空間は天井をぶち抜いているので、基本的に2階分の高さで構造体がそびえ立っている。カメラを向けても見上げてもこの構造体の全容が掴めない。また普通の建築の空間と違って、むき出しの素材のトゲトゲや土が剥き出しになっていて、身をもたせかける場所がない。身の置き所のない空間で、背よりも高い影の中をうろつく。先の写真作品はいずれも「断面」の零度のテンションが特徴的だったが、ここは密儀のように閉じている。
巨大な円形の裏側は、江戸時代ごろの民家の土間を思わせる光景だ。築40~50年に及ぶ物件で、リノベーションを繰り返してきた物件だったため、解体作業で床や壁を剥がしたり掘ったりしていくと、元来の姿が現れるという。これらもその原型なのかもしれない。
本作は日本・京都の町家を舞台・対象としたことで、「間(ま)」を大きく取っている。これは他国での作品には見られない特徴だという。基本的には廃材を組み合わせ積み重ねて空間を破壊的かつ創造的に埋め尽くすのがティーウェンの作風だが、この空洞の大きさは例外的らしい。京都の文化・歴史に対する応答ということだ。
平面でも柱でもない独特の「積み重ね」は、写真で見たときには筆致となりランダムな模様を与えているが、近くでよく見ると、みっしり隙間なく積まれている。
動画を見て驚愕したが、これらの廃材をティーウェンは1枚ずつ選んでは上に乗せ、掌で押さえながら、丁寧に積み上げていた。機械的に総力戦でばんばん詰め込んだものと思っていたが、端材の相性を吟味するように選びながら乗せていたのだ。一体どれぐらいの時間がかかったことだろう。たとえ作者に制作意図があったとしても、この積み重ねの作業量(2階まである家屋2軒分の壁や柱をこれで埋めていくことを想像してみて下さい。)の中では、個人の意思や主観は霧消している。まるで仏道修行だ。
もう1つの「間」が作品名『ブラックホール』で、細い通り道を抜けていくと何もない穴のような部屋に出る。簡易な階段が上の階(階層の概念も失くなっているのだが)へ続いている。観客は登って上からこの穴のような空間を見下ろす。
木製の足場は建設現場の仮縫いのようで心許ない。眼下に見えるのは「建築」か、それとも解体作業なのか。だが「穴」を取り囲む壁面は、廃材の丹念な積み上げによるグラデーションが「創造」を強く 意識させる。階段は2基あるが、うち1基は「円」の部屋から移設されたものだ。町家をある部分を解体した部材が、また別の場所で組織化する。自己の情報、体を、似て非なる全く別のものへと自分で組み替えていくのは、ガン細胞のパワフルさと未知を見るようでもある。
世界の不条理や真理よりも、私には「建築」というものが有する潜在能力や本能を試すべく、ハードな働きかけを行っているように感じられた。人間の外側にある、物理的に顕現したフォーミュラの存在=「建築」に対して、壮大な二項対立を併せ呑ませようと作者は挑み続けている。
思っていたよりも大きな話が語られ、戦争、愛、資本主義、二項対立・・・といった言葉が繰り返された。本作にはウェットな情緒や分かりやすい言語的メッセージは見えない。作者本人の雰囲気と押しの強さ、言葉の広さ、愛、などは、草間彌生を連想させられた。理数系の理詰めで構築された「愛」は、斑点・水玉ではなく建材の平面板の連続で実現される。
『私たちは世界を構築しますが、同時にその世界を破壊してもいます。』
( ´ - ` ) はい。
しかしそれは、人間の心理がさせているのか、建築のごとき、人間の外側にあるものたちが備えるフォーミュラがそうさせているのか、どちらでしょうね・・・
( ´ - ` ) 完。