「KYOTOGRAPHIE 2025」全14プログラムを5つの観点から見てみる。
- 1.空間構築、パフォーマンス:6、8、9
- 【8】JR「The Chronicles of Kyoto, 2024」
- 【9】イーモン・ドイル「K」
- 2.人間(と写真)のパワー:3、11、12
- 【3】甲斐啓二郎「骨の髄」
- 【11】マーティン・パー「Small World」
- 【12】グラシエラ・イトゥルビデ「グラシエラ・イトゥルビデ(Graciela Iturbide)」
- 3.社会問題、政治、歴史:1、2、11
- 【1】アダム・ルハナ「The Logic of Truth」
- 【2】土田ヒロミほか「リトル・ボーイ」
- 【4】石川真生「アカバナ」
- 4.女性、性差:4、5、7、14
- 【4】石川真生「アカバナ」
- 【5】プシュパマラ・N(Pushpamala N)「Dressing Up」
- 【7】劉星佑(リュウ・セイユウ)「父と母と私」
- 【14】レティシア・キイ(Laetitia Ky)「Love & Justice」
- 5.自然、動植物(と人間の関わり):10、13
- 【10】吉田多麻希「土を継ぐ」
- 【13】エリック・ポワトヴァン(Eric Poitevin)「両忘――The Space Between」
※「アソシエイテッド・プログラム」は別枠で特集です
「KYOTOGRAPHIE 2025」のテーマは「HUMANITY」、人間性や思いやり、人間愛などを指す言葉である。そもそも写真にとってこれほど本質的なテーマもない。人が人に向き合い、人のいる世界に、人の創りし万物に向き合う行為が写真であるのだから。
だが全て「人間」「愛」で済ませてしまうわけにもいかない。私がひねくれているからというだけではない。KGのテーマは壮大すぎて何でも包含できてしまうのであまり気にする必要がなく、よって個々人で見るポイントを勝手に設定する方が発見があるのではないか(持論)。
今回設定する観点はこちら。数字はKG公式の展示ナンバーから。
- 空間構築、パフォーマンス:6、8、9
- 人間(と写真)のパワー:3、11、12
- 社会問題、政治、歴史:1、2、6、11
- 女性、性差:5、7、14
- 自然、動植物(と人間の関わり):10、13
これだけでは何のこっちゃわからないので、やっていきましょうね。
ちなみに結論から言うと、私の個人的mustおすすめは、
No.6_リーシュルマン&オマー・ヴィクター・ディオプ「The Anonymous Project presents Being There」
No.8A_JR「Printing the Chronicles of Kyoto」
の2展示です。すぐ後述するが、これらはインスタレーションとして優れており、一期一会で体感するしかないためだ。体感しましょうね。
※なおKG本体と関連するプログラムとして「アソシエイテッド・プログラム」が3本あるが、それはいったん脇に置いておきます。
------------------------
1.空間構築、パフォーマンス:6、8、9
KYOTOGRAPHIEは、写真インスタレーション空間の極地を体験できる展示イベントである、と断言してよいだろう。現代アート的インスタレーションではなく、写真の拡張によって写真自体が空間化する展示なのだ。
インスタレーションは諸刃の剣で、手間と金をかけられなかった場合はスカスカになって失敗し、場所との対話が不足すると「どこかでよく見たパターン」の繰り返しで切り抜ける羽目になるが、十分な投資と技術と経験値が活かされた空間化が成功すると、一期一会を極め、圧倒的な体験となるので、何をおいても第一に観るべきものとなる。
今回のインスタレーションは今までになく規模、密度、精度いずれも高みに達していて、更に新しさもあり、これまでの展示の数段上に行った感がある。何があったのか。板前が代わったのか?
【6】リーシュルマン&オマー・ヴィクター・ディオプ「The Anonymous Project presents Being There」
会場の「嶋臺(しまだい)ギャラリー」の和室空間、その全室が久々にフル使用された。長らくKYOTOGRAPHIEの定番会場となっていたが、開放されていたのは入口・手前の空間だけだったのだ。館のもうひとつの入口が開かれ、中の部屋と通路を抜けて、井戸のある方のいつもの井戸のある出入口に出てくる。その間、作品は室内の壁に飾られた家族写真としての単体プリントでありつつ、徐々に単体であることを超えてゆき、いつしか部屋のしつらえ自体が写真の中身を逆転写され、ついには空間の天地がプリント化する。会場は古き良きアメリカの家族写真における家庭空間(写真空間)そのものへと拡張されてゆくのだ。
空間が素晴らしい。KYOTOGRAPHIEのたびに毎年毎年書いているのが、和の伝統的空間がいかに写真と相性が悪く、写真を喰うかということだ。対策として、大胆に建築の上から壁を立ててしまって、写真のための空間へ塗り替える、すなわち即席ギャラリー化戦法がとられるようになったが、突如として壁は薄みを極めて衝立から被膜と化し、建築に寄り添いながら建築物を飲み込んで写真そのものへと進化したようだ。
写真は、1950-60年代のアメリカ人家庭の家族写真である。現在のアメリカからは想像できない、しかしドナルド・トランプが大統領になるまでは私達が抱いていた、豊かでゆとりある輝かしい「アメリカ」がある(トランプのMAGAムーブメントによって初めて「アメリカ」の現代地、白人の実情と実態が伝わるようになったのは皮肉だ)。
写真には、奇妙な親しさで写り込む人物がいる。満面の笑みを浮かべる長身の黒人男性。血縁関係にあるはずのない、しかしどう考えても理解ある気さくな親戚のおじさんポジションで、彼は常にそこ(写真)にいる。
出口の横のメイキング映像で明かされるが、彼は後から撮影され合成されている。元の写真はリー・シュルマンの「アノニマス・プロジェクト」によって収集された誰かの家族写真である。公民権運動もとい黒人差別が盛んであった1950年代に、白人家庭に一人堂々と親しげに映り込む「黒人男性」、これがどれほどの破壊力と批判力を持つものかは歴史を学ぶことでしか実感できないし、歴史を少しでも知っていれば小・中学生にもその破壊力は十分に伝わる。
意図や構造に気付くまでは、2020年代現在の私達(日本人)には、本作は実にポップでお洒落でコミカルでレトロな写真としか映らないが、これらは今だから可能となった表現である。かつての絶対的タブーの領域を、今こうしてポップに繰り広げられているのは、奇跡的でもある。
しかし米国の実態としては今もBLMの問題を根強く孕んでいるわけで、さらにはまだ可視化の進んでいない欧米的差別としてアジア人差別レイヤーもある(黒人の更に下に据え置かれる複層的な構造!)。古き良きアメリカ白人家族写真に黒人を配することはプロテストとして賞賛されよう、ではアジア人はどうか?黒人と席を取り合いいがみ合わねばならないのか? これは今日的な宿題だが、石川真生「アカバナ」は50年前に解を出していたともいえる。
【8】JR「The Chronicles of Kyoto, 2024」
2会場で展開され、JR京都駅(作家名も駅名もJRでややこしい)北側通路壁面には今回の京都撮影プロジェクトの完成品が貼り出され、京都新聞ビルでは過去プロジェクトを紹介するとともに、今回の京都プロジェクト参加者505人分の写真が個別に提示される。そして超巨大な人物像、写真の巨人が印刷工場の闇をぶち抜いて立ち上がる。
圧巻である。
ここまでのギミックに徹した展示、しかも写真作品は前代未聞であった。
今回、京都で取り組まれたのと同じ「クロニクル」シリーズとして、サンフランシスコ、ニューヨーク、マイアミ、キューバを舞台とした過去作品が紹介される。これらはメキシコのリベラ・ディエゴの壁画に着想を得た、市民参加型の壁面写真作品で、膨大な人数を動員する巨大スペクタクル、集団劇場的プロジェクトの写真だが、そこに立つ人物は一人一人がスタジオ撮影されており、つまり全く別々のショットから合成・構築された、超演出の集合写真である。集合体として数の力を誇りながら、個々の個性・人格が発揮されているという二面性の離れ業が凄まじく、相反する力が魅力的だ。
これら「クロニクル」シリーズでは、個性的でスタジオ写真 × 集合写真の凄みと面白味が先行しているが、JRの本来の活動は人物ポートレイトや「目」の写真を公共空間、風景に展開し、そこに「人間」がいることを強烈に意識させるものだ。主張しなければ存在しないものとして扱われるのが「人間」である、だから存在を主張する。スラム街やパレスチナとイスラエルの分断壁を舞台にするなど、社会的活動の写真家と言っても良い。人間の顔と眼を前面に路上へ繰り出すところはバンクシーよりもずっとラディカルで刺激的だ。
2011年に「TED Prize」を受賞したことで話題になったのと、東日本大震災後の2012年、東北の被災地を回って「Inside Out」プロジェクトを行うためにCAMPFIREでクラウドファンディングが募られていたことも思い出される。被写体=市民は、セバスチャン・サルガドの聖なる光の像から、写真家と共働し外へとせり出す行動的写真へと変貌した。
「クロニクル」シリーズの人物像、京都プロジェクトのスタジオ写真だけでも凄まじいボリュームなのだが、その先の扉の奥、闇へと続く印刷工場跡で、地下階からぶち抜いて立つ写真の「巨人」らの列には、正直、心底驚かされた。これまでの京都新聞ビル/KYOTOGRAPHIEにない新しい展開は予想できなかった。
派手で大きければ良いのか?それが写真のやることか?インスタレーション至上主義の是非は? 疑問や批判はたやすい。しかし定番の会場構成・定番のJR作品という枠組みを超えてきたことは素晴らしいとしか言えない。壁画から立像へ、インタビュー音声も伴い、「ポートレイト」は別の次元を見せた。ギミックが写真の枠を超えてくるとねぶた祭り化すると思うが、「めちゃくちゃ高い・大きい写真」というストレートさが、異種の写真体験をもたらしたのは確かだ。
【9】イーモン・ドイル「K」
展示自体はオーソドックスで(他の展示が異常なだけで、一般的な写真展からすれば本作も相当凝っているのだが)、東本願寺・大玄関の和室にて、等身大の写真が襖のように立ち並んで、和室の周囲をぐるりと取り囲む。
そこは太陽と死後の世界のようだ。
本作は撮影において凝らされたパフォーマンスで、鮮やかな青空と鮮やかな色味のゴースト、真昼のファントムの列が連なる。死者の葬列と呼ぶには明るすぎ、ファッションフォトとは呼べそうにもなく、地中海や中東あたりを思わせる、青空と岩の地形に、単色のヴェールが冴えている。明らかな人型で、何者かがヴェールを被り、頭も爪先も隠して、人間であることは間違いないが、ヴェールは身体性を完全に隠している。布の震えか、風による揺れか、さざめく布地は人ならぬもの、かつて人であったであろう存在を現わす。
舞台は作者の出身・アイルランド。本作は作者の母が、死別した息子=作者の兄へ、自身が亡くなるまでの18年間抱き続けた思いを受けて作られた。亡き息子へ数百通の手紙を書いていたという母。彼女の墓石に使うスレートを選んでいたとき、視界に深紅のヴェールに包まれた影が歩いているのを見たという。そして「ほぼ衝動的に」制作が始まった。
作者は何と出逢ったのだろうか。
ステートメントをざっと斜め読みした時点では、作者からの亡き母への想い、あるいは亡き母と兄への想いから、死別を機に存在の痕跡を求め、超知覚的な想いの可視化を求めた作品なのかなと曲解していたが、だんだんそう単純なものではないことが分かってくる。
母の中で、作者の兄=息子は死別し、失われた存在であったにも関わらず、手の届かない世界に逝ってしまった「存在」として、結局母自身が死ぬまでの18年間ずっと「在り」続けた。それがどれほど強く、あてどもなく、途方もないものであったのか。
死んでいるはずなのに、消えてはいない「存在」感に向かって、虚空へ手紙を出し続けることの恐ろしさ。
同時期に展開されているKG+06_吉田亮人「The Dialogue of Two」は、死去した「ふたり」を死の世界においてフィクション的に出会わせる作品であり、その背景として、現世にとり残された祖母にとって先に死んだ従兄弟が「帰ってきた」経験が現実に他ならなかったわけだが、本作においても同様に、現世に残された遺族にとっては、死んだ息子=死の世界との交流は現実の出来事として在り続けたのではないだろうか。
生と死の境界のあやうい領域。死別の時点から既に、作者の母は現世を生きる人間というより、ここで演じられる亡霊に近いものへと世界線を踏み越えていたのかもしれない。
2.人間(と写真)のパワー:3、11、12
人間には力がある。得体の知れない力があり、それをダイレクトに捉えられるのが写真である。写真そのものの力であるとも言える。特に、まとまりのない群衆を捉えたり、人を個別に無作為に撮っていった結果、写真が群衆と化す。何か一つのことに向かっている人間を撮り集めると、力は更に増す。
【3】甲斐啓二郎「骨の髄」
展示は<Shrove Tuesday><Opens and Stands Up><綺羅の晴れ着><手負いの熊><一条の鉄>と、これまでの発表作を一望する。展示空間は、工事現場に使われる波のついた鋼板とアルミの断熱材で囲まれ、人工の白夜の寒冷地のように冷え冷えとし、凍った世界の中で祭りに身を投げ込む人々の写真が熱く滾っている。
祭りの中では人間がこんなにも野生というか、肉体そのものになるのだと知らされる。自分の目で祭りを眺めている時と随分と違う。参加の次元が異なるからか、目ではそこまで絞り込んだフレーミングができないからか。
作者は祭りの中へ身を投じて撮っている。
迫力のある・リアリティのある写真、とまず感じるのだが、そう評するのも何か根本的に違う気がする。祭りの迫力を撮っているのではなく、ましてや祭りの感動や美的な瞬間、クライマックスを表現しているのでもない。記録や形式の美ではなく、特に<Shrove Tuesday>は写真を見てもゲームルールが掴めない。何か興奮と熱だけが漂っている。
祭りというエネルギー磁場の中で人間の外殻が外され、人間を覆っている拘束具が解かれる有様が見える。
写真によるフォーカシング、フレーミングによって周辺の装飾が、全体の流れが切り取られて、高熱で溶けるように動く分子のような「人間」だけが画面内に残される。熱量と運動が本作に残されている。私達の心身に細かく深く刻まれた手順や約束事――道のどこをどのぐらいの速度で歩きなさいとか、服装はこうしなさいとか、表情、手足、全身の動かし方の至るまでの規約が、高熱によって溶けて、肉体が発露する。だが無秩序ではなく、それは「文化」という大いなる枠の中で許された熱なのだ。肉のポテンシャルが、解放される。
そういう解放の力場を奪われたり忘れたらどうなってしまうのかというと、ただただハロウィンもなくタグやステッカーもなくインバウンド向け高級ブランド店が並ぶだけになった渋谷の街を、X(Twitter)で呪い揶揄しながら通過するだけの日々になるのだ。伝統の維持のために裸祭り、火祭りに駆り出されるのは御免蒙りたいところだが、しかし熱狂・発狂の場は欲しい。自虐的にそう思う。
【11】マーティン・パー「Small World」
世界各地に押し寄せて浮かれる観光客をズバリと写し取るスナップの名手、マーティン・パー。京都というオーバーツーリズムに現在系で悩まされる土地に完璧にフィットしていて、会場「TIME'S」の壁に貼られた大型キービジュアルとすぐ隣のアクセサリー店に列をなす外国人観光客のカップル達との取り合わせが完璧だった。時事問題としてここまで合致した展示も他にないだろう。
作品は面白くもパワフルで、写真ならではの「瞬間」を盗み取る・掠め取る力がアスリート並みの筋力でしっかりとなされている。真似できない腕力。写された観光客らは無防備で、滑稽で、弛緩していて、そしてしたたかで、強者の立場にある。
強者とは何か?これは京都の祇園~四条や心斎橋~難波を歩いたり市バスに乗った時に感じる、我々の奇妙な気持ちに完全にリンクする。元からいるはずの地元民・生活者の側が遠慮していて、分からない言葉で話している浮かれた服装の連中の方がえらくて強くて自由に振舞っている構図。
かつては逆だったらしい。物の価値もわからん日本のツアー客や女子大生がヨーロッパの高級ブランド店に押しかけて伝統そこのけでブランド品を買い漁り非難された時代があったという。経済力の力関係は流転する。しかし今後、日本が浮き上がり逆転する可能性があるかどうかは不明だ。
こうした経済力・国力をマーティン・パーの写真は直結しているので、観る時期、立場によって見え方が恐ろしく変わり、極めて社会的・政治的だ。「KYOTOGRAPHIE 2019」のローレン・グリーンフィールド「GENERATION WEALTH」はセレブの生活、消費主義者の大量消費に特化していたので他人事で面白がっていればそれで済んだのだが、こちらはより構造的な当事者性を湧き上がらせる。
しかし根底にあるのは、余暇と余剰資金をぶち込んで消費的バカンスを楽しみ活力を得る、資本主義経済ルールの戦場で「勝った」人間たちのしたたかさ・生命力の発露である。つまり甲斐啓二郎「骨の髄」:祭りという文化・風習における地縁的な生命力の発露と対を成すものである。地縁や伝統の祭りから自由になった市民らが新たに獲得したエネルギー爆発の機会、消費主義的な祭りの形態が本作にある。
【12】グラシエラ・イトゥルビデ「グラシエラ・イトゥルビデ(Graciela Iturbide)」
被写体やテーマというより、写真家自体のパワーに目を見張るべきなのがイトゥルビデの展示だ。タイトルがそのまま写真家名である通り、作家の回顧展の様相を呈していて、初期作品から直近まで辿れる構成となっている。2014年に日本で撮影した作品もある。
メキシコの写真家ということで馴染みがなかったが、マヌエル・アルバレス・ブラボを師と仰ぎ、その影響を受けたと言われれば納得だ。被写体と撮影地の風土のせいか、見慣れている日本やアメリカ、西欧のスナップ写真とはまた異なる「濃さ」がある。それは人物の風貌や髪の色と質、服装、サボテンやアガベに代表される植物、奇妙にねじれる樹々、荒々しい岩や空と飛び交う鳥、街を照らす強い日差し…全てが異界―非西欧のパワーを内包している。
「パワー」という印象がとにかく強かった。多くの写真が真四角で、モノクロームの中にしかと配列された、計算された構図なのだが、構図の調律に収めたとは説明のつかないものがある。四角の中に収めた世界が内側から三次元~四次元で煮え立ってくる。特にサボテンを筆頭に植物のカットは、風土は全く違うが東松照明を想起する力があった。シュールレアリスム的な、モノそのものが周囲の文脈を反転させて立ち上がるようなイメージ。
植物、鳥、そして人物写真が多い。メキシコ南部サポテカ族の女性とムシェと呼ばれる女装の男性、ソノラ砂漠の漁民・セリ族、オアハカ州フチタンの女性たち等…。どの人物らも正面を向いた、毅然とした肖像で、プライドを感じさせる。演出的にポーズをとり、メイクや小道具(鳥や魚の死骸など)を用いて構図の中に意味を付与する。
そういえば鶏も多い。生きた鶏、切られて死んだ鶏――食用なので。つまりこういうことか。イトゥルビデの写真には剥き出しとも思える距離感で、人(特に子供、女性ら)と、動物らの死と肉が隣り合わせにあり、死をも「生(活)」の方にまとめて包んで共に置いている様が、ありありと写っていて、それが見る側に「パワー」として映るのだと。ああ、残念ながら、言葉がまだ追い付かない。
3.社会問題、政治、歴史:1、2、11
マーティン・パーでもJRでも石川真生でも、KYOTOGRAPHIE出展者のレベルになると、社会状況や政治が写らないとか、政治や社会に言及しないことなどありえなくて、どれもこれも何かと社会や政治や歴史にリンクしていくのが常である。それでもあえて絞り込んで挙げるなら4組になるのかなというレベルだ。あの人・作品が入ってないやんけと文句が出るだろうことは承知で、特徴的なところを整理させていただく。
【1】アダム・ルハナ「The Logic of Truth」
京町家、八竹庵の2階は畳張りの和室が、パレスチナ人の生活写真で溢れる。
バレスチナは、以前なら一般的な中東情勢・世界情勢のひとつとして、西欧列強(特に英国)の思惑や交渉によって歴史的抗争の火種が約束された場所として、ある意味で「そういうもの」と捉えていた。誰もがパレスチナをそう見積もる。そこで通例、写真が発揮するのが、歴史の忘却によって正常稼働している「日常」から歴史を再発見させる力であり、忘れられていた主体性を取り戻させる力である。これが写真と世界の通例の構造だ。
しかし2023年10月7日以来、パレスチナはその次元を通り越して、物理的に消滅したのではないかと錯覚するほどに激しく攻撃されて続けている。そういう映像ばかりが流されてきた。ハマスによるイスラエル襲撃を機として、イスラエル軍のガザ地区への反転攻勢は尋常でない苛烈さを極め、報復という言葉もぬるく、ジェノサイドとの言葉まで聞かれた。西欧先進国を中心とする「世界」はイスラエルに気を遣い、生きたパレスチナ(人)は意識から、視界から消えた。
もはや瓦礫以上のイメージを想像するのは難しい。時折報道されるミサイル爆撃と瓦礫と死者の映像によって、パレスチナに関する思考や想像は停止している。ルハナの写真はそのイメージの死から強力に逆回転させて、通常の国土と国民を現わす。勝手に滅びたものと思い込んでいたのだ。それは危険なことだ。
写真には、こちら側と全く変わらないように老若男女が家庭生活を、学校生活を、余暇を送っている。いつからパレスチナが滅びたと錯覚していたのか。クライマックスなき「日常」が強く、ただ強く、眩しい。ただただ、戦争や兵器や憎悪が、こうした営みの全てを破壊して奪うことが、純粋に許せないという気持ちになる。とても悲しく、眩しい。
【2】土田ヒロミほか「リトル・ボーイ」
アダム・ルハナと同会場の八竹庵・1階の蔵のような部屋では、真っ暗に閉ざされて、奇妙な音が響いている。写真展だというのに夜のように部屋が暗い。
白く浮かび上がるのは、広島に投下された原爆・リトルボーイのキノコ雲を上空の戦闘機から撮影した写真である。写真家ではなく米軍の撮影によるものだ。暗い部屋の中にあるのはその1枚だけだ。白いキノコ雲はモノクロ写真という大前提を忘れさせる。キノコ雲の背後は黒い。超高熱によって世界を暗転させたものと映る。
二階に上がると、同じく真っ暗な和室に、浮かび上がるように衣類が一枚。土田ヒロミによって撮られた被爆者のワンピースだが、ヒトの魂魄のように暗闇に浮き上がっている。
多くの庶民が原爆で死んだが、死者・被爆者は消えたわけではなく、死(者)という存在は続いているのだと知る。太陽の超高熱でも分解されずに残り続けるのがヒトの存在である。写真には物理的に「ある」ものしか写らない、これは衣服の残骸であってヒトそのものや残留思念、霊などというものでは断じてない、が、そこに「人」を重ねない者がいるだろうか。
石内都の「ひろしま」シリーズが、被爆前の艶めかしい生前の姿を想起させるなら、土田ヒロミの衣服は熱線によって焼灼され消されたはずの「ヒト」の死そのものを立ち上げて突き付けてくる。
歴史をリアルに語る世代が不在となってゆく中で、いよいよ「戦争」「被爆」「戦後」という日本と世界の「現代史」核心部がフェイク化し、語り手の任意のフィクションと化していく恐れが出てきた。だが遺物は人間の代わりに証言を続けるのだ。土田ヒロミの仕事は再評価されるべきかもしれない。
【4】石川真生「アカバナ」
展示の主力は「アカバナ」シリーズだが、回廊を渡った先の展示室では2020年代、まさに現在形で南西諸島の各地で繰り広げられる反戦運動、米軍反対運動が撮られている。こうした運動は沖縄本島の基地でのみ起きているものと勝手に思い込んでいたが、撮影地は宮古島、石垣島、そして与那国島にまで及ぶ。
中国の覇権主義による実効支配の眼差しが現実問題として台湾をターゲットとしているが、その力は日本近海に及んでいて、しばしば領海侵犯の問題を起こしている。南西諸島も射程に入ることが見えている中で、国防の観点からはそれらの島々に自衛隊を置くしかない。
一方でそれは米軍基地を始めとするこれまでの支配体制を是とし、強化し、島民の暮らしを犠牲にすることで沖縄県以外の「日本国民」を保護する姿勢・体制であり、つまり戦後の沖縄を犠牲とした日米安保体制の再強化と見える。これに対して地元民がどういう感情を抱くかということは私の立場では口が出せないが、反対運動があるのだということを知ったことは、大きい。
なお先述の展示と後述する展示は省いているが、何事も綺麗に分類できないので再掲・省略という形で触れておく。
【6】リー・シュルマン&オマー・ヴィクター・ディオプ「The Anonymous Project Being There」は歴史問題・人種差別(黒人差別)の問題をストレートに扱っており無視できない。
【11】マーティン・パー「Small World」は社会問題としてオーバーツーリズムや国・国民の経済力の強弱、勝ち負けにも繋がる今日的な状況を強く突き付けている。
4.女性、性差:4、5、7、14
写真やアートの領域では女性、性差、性的少数者のテーマは欠かせず、一大テーマとなっている。そのうちいつの時点か(着実に近づいている感もある)で裏返って「マイノリティと言われ続けた男性たち」が主テーマとして立ち上がる日も来るかも知れないが、女性や性的少数者が置かれてきた不遇、不利益については歴史の厚みが違うし、現存している暴力性は目を覆いたくなるようなド直球のものも枚挙に暇がない。
とにかく差別や搾取というのは、油断すればすぐ「正しい性別」「性的な優劣」といった絶対的評価軸が設定され、人間の優劣が定められる社会に突入してしまう。そしてツイフェミに見られる、言動・活動の悪質さによる劣化と忌避。「女性」が逆に消費されますます棄損されてゆく。そういった観点からも、、女性の側から女性の自立や権利について訴えを起こし、暴力的で悪質な風潮に抗する写真活動は、積極的に評価しなければならない。
【4】石川真生「アカバナ」
ドキュメンタリー映画「オキナワより愛を込めて」で石川真生本人が写真集『熱き日々 in オキナワ』について、本当に愛なんだよ、彼女らは本当に美しい、と強く言っていた。
男が女を愛して、女が男を愛するということが、人間にとって本質的で核心でそれ以上のことなどないというのに、女性らが娼婦だというだけで、不道徳でいかがわしいものとして蔑まれる。最初期に東京でやった展示でそのように悪評だらけだったことについて、映画の中で憤っていた。愛、女、生命に対する深い共感。それは「沖縄」という地に対する想いそのものだ。
写真は、きわめてストレートで素朴でさえある。社会正義や運動とかけ離れている。夏の海で、胸を隠さず裸で遊ぶ女たち、夜の街で、店で、黒人男性らと笑顔を見せる女たち、性別や人種や職業で人間の上下を定めることの窮屈さと頑迷さを跳ねのける力がある。(だからこそそれを気に食わないものがまた抑圧を強めようとするのだが)
ブラックとアジアンが愛によって衣食住を共にする、この領域に誰もが立てたらどれだけ良いだろう。排他と攻撃が満ちて軋んでいく現代に、差別の力関係が上下に生み出され、暴力の階層構造の中で生存戦略が図られてしまうのを、避けることはできないのか。石川真生の撮った女たちはその答えに辿り着いていたように思う。
会場の赤と黒の深いコントラストが素晴らしい。沖縄の女たちの赤、黒は女たちが生きた夜の世界とも黒人とも、一般社会の影とも、沖縄という土地の孤高ともとれる。
【5】プシュパマラ・N(Pushpamala N)「Dressing Up」
「京都文化博物館・別館」を会場とする展示はいつも豪華なスペクタクルを誇るが、本作もシャネル・ネクサス・ホールの企画だけあって、作品の規模が半端ではない。巨大なインド古典絵画の展示なのか。いや、西欧宮廷文化の新古典主義~ロマン主義あたりの肖像画を模した、亜西欧の、それこそボリウッドなインドならではの本家取りか。いやいや、西欧の歴史的伝統的絵画を換骨奪胎する写真か。そのいずれも兼ね備えているのが本作だ。
プシュパマラは1956年にインドのベンガルールで生まれ、1970年代後半からアーティスト活動を開始した。元は彫刻家を目指していたが、90年代になると写真や映画にシフトし、また世界的に台頭した「フォト・パフォーマンス」の潮流を参照して「Dressing Up(扮装)」することで「喚起的で破壊的なイメージを創り出してい」るという。作家自身が自演によって写真に登場する。
全てが「女性」に焦点を当てた演技的再構築の作品で、インドの叙事詩「ラーマーヤナ」のほか、女神や民族的英雄をモチーフにしていて、例えば《Avega~ The Passion》では「見過ごされがちな3人の主要な女性登場人物の役柄を自ら演じることで、プシュパマラはこの物語における男性人物に焦点を当てた伝統的な手法に真っ向から挑んでい」るとある。
元々「ラーマーヤナ」はインドの伝統的な価値観、性別役割について規範的な意味合いを持ち、王族や父権性、家族内の秩序などを正当化し、模範的な女性像を伝え広めるものだったと言える。プシュパマラは自身をその配役の内側に投げ入れて、物語の内側から意味を転換させる。その転換行為(人々へ語られて仕掛けられる規範から、生身の人間として語る主体へ)は作品を一目するだけで気付く。それが西欧美術的な荘厳なスペクタクル性を備えているところに二重の抵抗があり、痛快なのだ。
【7】劉星佑(リュウ・セイユウ)「父と母と私」
昨年「KG+SELECT 2024」アワード受賞者であり、今回のKG本編出場権を得た。展示内容は前回の通りだが、見せ方を洗練させ、「Gallery SUGATA」の広い空間を活かし、写真1枚1枚をしっかり見せる構成となった。
アンティークなフリマのように混沌としていた前回の展示スタイルの方が、世代、性差と役割、家・祖先と個人の役割といった「正しさ」の配置が混線するカオスさがあり、いちど「正しさ」そのものをリセットし迷う構成となっていた。今回は先へ進んで、作品ビジュアルの整理が綺麗についた形になったことで、写真のヴィジュアルの中に入り込むことが促進される。
相変わらず、コミカルさとアイロニーとデザイン性・表現技法の複合に優れていて、男女の装い・衣服を交換した作者の両親が「自然に」不自然さを表出し、狙い通りに許容範囲の違和感を表している。すなわち、作者の抱える男女の性差と婚姻制度の問題、親世代の理解や許容の問題。(今回のステートメント類には触れられていないが、前回は作者が同性愛者で、両親が同性愛婚を認めず、しかし両親の衣装を交換して撮影するという企画には参加の同意を得られたという実に奇妙で興味深いグラデーションがあったのだ)
つまりアートという方法論や戦略の果たす役割や効果が、婚姻制度、家制度の敷居(ほぼ感覚的なものだろうが)を軽々とまたいでいく正中線を見ることに繋がる。まずもって編集能力とセンスが卓越していて、このビジュアルでプレゼンテーションされたら、両親も納得させられたのではないか…と想像する。アートは企画と構想力なのだ。
【14】レティシア・キイ(Laetitia Ky)「Love & Justice」
髪型がお洒落だなと思ったら画像加工やウィッグではなく地毛にワイヤーを通した髪彫刻であったこと、ただのお洒落・ファッションではなく女性の存在をエンパワーするための活動であったこと、女性のエンパワーメントといっても意識高い系ではなく真に生存の必要性に迫られて行動を起こしていること、こうして立て続けに予測が裏切られ、甘い見積もりだったと思い知らされるところからレティシア・キイとの邂逅が始まる。
作者の出身地コートジボワールは1960年にフランスから独立したところで、その名もフランス語で「象牙海岸」である。作者のアーティスト・アクティビスト活動の発端となったのはまさに植民地時代の美意識による。ストレートな髪、明るい肌を求めて強い薬剤を使い、頭皮を痛め、16歳のときに髪がボロボロになってほとんど抜け落ちたことがある。そこで髪を再生させる方法を探す中で、アメリカのコミュニティで自分の自然な髪を受け容れているブラックの女性と出会ったり、髪を丸刈りにして全てをリセットするところから始めたという。
徐々に認知を補正し自問自答を重ね、リサーチを深める中で、植民地以前のアフリカ女性らの編み出した髪型に出会い、様々な立場や職業の女性にとって「髪」が個人を表す、独自の表現そのものだったと知る。そうしてキイは自身の髪を用いたアーティストとなった。
コミカルでファッショナブルなだけではないことを、会場「ASPHODEL」では存分に理解することになる。展示はInstagramと違って、ナマの作家と、作品とに、避けがたく不可逆に直面させられ体験させられるのだ。
まず1階ではキイが自身の髪を用いたアーティストであり、ファッショナブルなビジュアルアーティストとして、Instagram等動画SNSを用いて活躍するインフルエンサー的立ち位置が伺える。
2階では一転して、社会問題、特に女性の置かれている厳しい立場について毅然と物申すアクティビスト、フェミニストとしての表現活動が提示される。コートジボワール=アフリカという土地柄か、予期していた以上に踏み込んだ「女性」にまつわる直接的表現にたじろぐ。女性はレイプカルチャーの中で暴力的に扱われ、身体的・心理的暴力を受け、避妊をしてもらえず、レイプ防止のため強制的な乳房圧迫を受け、男児を産むことだけが歓迎され、女性器切除を受け、産科暴力(Obstetric Violence)に晒され…これらの状況を、髪で女体や胎児を作って表現し、問題提起する。
3階では「Self Love」として、正解のない「女性らしさ」を掲げ、一人ひとりが異なる形やリズムを持つことを認め、主体的に自分の望む人生を選ぶよう語りかける。ここで提示される8枚の写真は様々なサイズや形の乳房である。衝撃を受けた。まさに「女性らしさ」の二つの意味――魅力的な女性性のシンボル/逃れ難き身体の歪さをそのまま髪で体現し、そこに正解を求めないでとエールを送る。身体と性における模範的正解と強さ・地位の関連は、男性社会でも濃厚にあるのだ。どれだけ時代を経ても乳と陰茎の大きさと美しさが人間の優劣を決めるので・・・こうしたアーティストの影響はもっと社会に染みわたってほしい。
5.自然、動植物(と人間の関わり):10、13
最後に、自然や動植物をテーマとした作品・作者を取り上げる。ただのネイチャーフォトではない。それらは人間と関わりを以って語られる。
【10】吉田多麻希「土を継ぐ」
「KYOTOGRAPHIE 2022」の「10/10 現代日本女性写真家たちの祝祭」プログラムで登場した作者が再登場。毎年お馴染み、世界最古シャンパーニュメゾンである「ルイナール」のアーティスト・イン・レジデンス成果発表の枠組みである。
作者はインターナショナル・ポートフォリオレビュー「Ruinart Japan Award 2024」を受賞し、一週間の滞在を経て、シャンパーニュ地方の自然とシャンパン作りの歴史、人と自然との長くて深い関わりの歴史を踏まえて作品制作を行った。
会場は2部構成になっていて、前段は真っ暗で、床置きされた写真パネルが光っている。写真は地面、落ち葉、土、キノコ、鳥の死骸、花? 極端な暗さでデジカメも正しく焦点が合わず記録写真を振り返れないだけでなく、多重露光のように像が二重に見える。色調を反転したように白く色が抜けた個所が点々と散らばる。これは写真を土中に埋めたことが影響しているだろう。
写真を土に埋めて、時間経過によって劣化・風化させる。それをマイナスではなく「土・大地との対話」として、自然の不確定要素を取り込んだプラスのものと捉えるのは、他の写真家でもしばしば見られる表現手法だ。しかし吉田の場合は前作「NEGATIVE ECOLOGY」で既に、洗剤や研磨剤、化粧品などを現像液に混ぜてネガ現像を行うという、化学(物質)× 写真のダイレクトな混淆――化学物質による水質汚染を写真へ直に憑依させる試みを実践している。今回は「自然(土)の豊かさ、生命の豊潤さ」を写真に宿すという、前作とは性質こそ真逆なれど、手法としては一貫している。
吉田多麻希において写真は光学的映像メディアであるだけでなく、ケミカルな要素を更に相乗させうる、2.5次元的メディアとなっている。
後段、続くフロアは一転して、大ガラスで外光が差し込む明るい空間となり、陽光の中で鹿の写真が、壁面のような大伸ばしで立てられている。
鹿は、手漉きの和紙に堂々と表されている。和紙によって、鹿は白い光の膜の中へ消え入るように描画され、写真プリント=現実の複製というよりも「伝説」の物語に見える。
これは過去作「NEGATIVE ECOLOGY」や「Brave New World」が「自然」と汚染、人工、共生と境界について問うていたのと照らしてみるとき、「人の手の及ばない純粋な自然」が、永遠の憧憬、神話に近いものであると観念しているのではないか。たとえ広大な自然を擁する海外にはそれが実在したとしても、日本で生きてきた私達にとっては神話も同然で、スケールを掴みかねる、と。
あるいはやはり、あらゆる「自然」は人間と文化的・歴史的に深く関わりすぎていて、「ヒト」から純粋に切り離された孤高の「自然」というものは、偶然に現れた鹿の姿に、オーラとして、面影や気配として感じられるにすぎない・・・と。
「鹿」や「熊」は、人間界と純粋自然界との絶対領域を跨いで動きまわる使者、すなわち、最も原初的なメディアであり、それは2次元以上の質を備えた「写真」と何か本質的に近い存在であるようにも感じられる。
【13】エリック・ポワトヴァン(Eric Poitevin)「両忘――The Space Between」
「両忘」とは聞き慣れない言葉だ。案の定、禅の用語で「りょうぼう」、二項対立や二者択一の対立や区別を忘れる・考えを棄てることをいう。本展示では自然―人為、モノー風景、形象―配置・配列、被写体―周囲・背景、写真―空間(建築)、の境界や区分が消えて、中立というか中和的にそこにある。この中和は、展示や撮影の手法の次元だけでなく、被写体においても生と死、生物と静物(非生物)、死と非死(モノ)といった具合で続いていく。
たとえば植物は生きた森の中と枯れた標本・生け花的なブツ撮りで表され、それらは平面性が強く打ち出されて画面内に凹凸がなく、ヒトの頭蓋骨とボールと果実は円形オブジェクトとして同一平面上に並び、それらは「静物」という次元で並置されるがやはり立体性や奥行きがなく、これらの写真は和室内で衝立・襖・壁として機能し、写真作品でありながら禅寺の建築様式と一つのものとなっている。
ここまで会場の建仁寺両足院にぴったりフィットした作品・展示はなかった。
毎年KGで建仁寺両足院の大書院は会場として使われてきたが、全会場で最も難しい空間だと常々感じてきた。和のしつらえが、写真を、展示を、徹底的に拒むのだ。どれだけ和に近付けて調和と対話を図ろうとも、免疫の拒絶反応のように書院の空間で展示は浮き上がるか、部屋に呑まれた形になってしまう。それが本作は、ぴったりとズレなく、建築空間と展示がまさに対立や境界なく、フィットしていたことが驚きだ。(ただその分、展示・作品の印象が残らないという逆の課題はある)
ひいてはこれらを「写真」と簡単に呼んで良いのかが悩ましくなってくる。写真とは事物、現実の複製・複写に他ならないが、虚空の止揚が果たされた空間において、つまり禅とヴァニタスを結んだ地平にあるこれらは「写真」として切り出して呼称できるものでもない。思い起こされたのが京都市京セラ美術館の蜷川実花 with EiM「彼岸の光、此岸の影」(2025.1~3月)で、それは経済性・資本主義的集客論にフルコミットして消費と欲望を全肯定するところに「アート・表現」と「ワタシ」を止揚していた。そこでは「写真」はもはや、一枚一枚のプリントを指さず、会場全体の欲望の乱反射と配置、散乱が「写真」なのだった。その構成要素の聖と俗とを反転させた、同様の構造から成るものが本展示であるとも感じられた。
------------------------
こうして「KYOTOGRAPHIE 2025」全14プログラムを観たのでした。よかったですね。よいですよ。
今まで最も展示クオリティが底上げされた、もう一つ新しいステージに入ったのではと感じられた。KGでしか体感できない展示になった。
( ◜◡゜)っ よき。