nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】2025.3/25-4/6_熊谷聖司「あなた」@ギャラリー・ソラリス

そこにいるのは「あなた」という存在。

 

まず動物の生態観察のようだと感じるところから「あなた」は始まる。

言われてみればこの写真たちの言う通りで、街の至る所で、あるいは家の中で、庭で、隣近所で、ホース(のようなもの)は、とぐろを巻いていたり、体を伸ばしていたりする。

 

これは都市の生態学か?そう捉えても良い。これは多様性の話なのか?それでも構わない。解釈はまたいつも通り自由に委ねられている。

だが、動物的である、動物観察のようだと思っていると、どうにもそれだけでは済まない問題/体験が出てくる。

 

なぜ「あなた」と呼ぶことになったのか?

都市空間で野生動物を探すかのようにホースを捕えているのだ、という解釈だけでは大いに欠落がある。むしろホースを「あなた」と、特別な人称で呼ばなければならなかった事態に目を向けたい。

 

一つは形状・形態の問題がある。

それらは道具としての固定された姿を脱して、つまり言葉を脱して、動物のように動き出している。ホースは「ホース」という言葉を抜け出る、定義や指示を抜け出る、そして「それ」は、そうすることによって、それを写した「写真」自体をも同様に、その外側へと連れ出す――そして写真は「写真」そのものになる。このような体験をした。

 

定義を揺るがす可能性を孕んだこの運動態が、本作の見どころのひとつ。デュナミスの原初的かつ象徴的な在り様が込められている。作者が物的モチーフとしての可変性の高さに、小さくも深い可能性を見出したかもしれないということは言えるだろう。

 

写真に写されたホースは、言うことをきかない猫のように位相は動き回り、「ホース」としての典型の姿を保ったり崩れたりと揺らいでいる。この性質が、写真が真に「写真」らしくある様と相似形を成すものとして着目した可能性はなかろうか。意味や制約を抜け出る、線であり、環であり、膨らみであり、色であり、緩みであり、蛇であり、蔓であり、面であり、滝であり、水平であり、垂直であり、etc、etc・・・ 吉原治良の「円」が最小限の零のうちに全てを表すならば、熊谷聖司のホースはマキシマムに・あらゆる形態によってそれ自体が全てである・かもしれないことを示し続けてゆく。

この可能性の振れ幅は、デュナミスの化身として、驚異的な人格を備えたモチーフとして、もはや「それ(ら)」と呼ぶのでは到底足りない重要存在となり、作者に「あなた」と呼ばしめたのだと想像する。

 

 

もう一つは光の問題がある。

壁面に飾られた作品以外にも、床置きされた写真の束のブロックがある。

大量の「あなた」の写真からは、波が見える。

写真を構成する被写体(照点)・背景・色味・フレームなどといった要素が、はっきりと役割分担され字義通りに納まっているものもあれば、逆にそれらの構成の仕切りが緩く、混成されたものもある。色味や霞みが画面全体を覆っているものがそうだ。

典型的なインスタグラマーの類であれば、フィルター効果で写真の意味を記号的に塗り潰しただけ(→エモ消費)と判定して終了なのだが、これは他ならぬ熊谷聖司の手焼きカラー写真なのだからそういう話には収まらない。逆に写真が「写真である」ことを、より自由に、かつ力強く突き詰めた際に出てくる現象のひとつとして、色や霞みの横溢がある。

 

「写真である」とは何か? 答えの一つに「光」がある。写真は光に感応して像や色が宿される。写真家は光に感応してシャッターを切りプリントを完遂させる。写真が「写真」であるとは、脈打つように色、光の波が訪れ、画面内を引いたり満ちたりすることに他ならない。単体ではなく群や連なりとして見た時に、熊谷作品は必ず寄せては返す色の、光の波がある。

本作も例外ではない。一枚一枚の写真では分からないが、多数の写真群を一連のものとして手に取って見ていくとき、それらは瞬きをするかのように画面全体が明暗を宿し、色味が溢れ、退潮する。光の波を宿したものとなる。それに加えて、ホースという自在の姿をとる物体が、弦の振幅によって無限に個別の音を生み出すように、無数の「個」を現わしてゆく。両者が合わさり、存在感が立ち上る。

 

そのような光の波があるということは、本作は普通の物的・構成的なスナップ写真や記録写真とは性質を異にすることを意味する。撮影者・対・被写体、私・対・外世界、といった一般的に駆り出される心身二元論的な二分法ではない。もっと混然とした中から現れてくる。全てが写真となって現れる。写真となって存在を改めて深く確かに肯定される。

 

存在の肯定は誰が行うのか。通常は国や企業、行政、王、コミュニティなど、力を持つものが行う。それらは権力と呼ばれる。だがここでは作者が個人の意思と感性によって行う。作者というより作者に憑依した「写真」の力がそれを行い、推し進める。作用する力はごく微々たるものでなんの権限も付与されない。だがそれらは確かな、目に見える存在となって、ここに現れる。

 

 

これと同じ光景を見たことはないか。

 

《EACH LITTLE THING》シリーズだ。

2011年3月の東日本大震災で、あらゆるものが等価に瓦礫と化した状況に対して、見ること・撮ることの意味を再考し、冊子の形でVol.1(2011年9月)からVol.10(2018年5月発行)まで発表が続けられた。

それらは日常の何気ない場面や事物を、解析不能な、言葉にも置換できない形や色味によって切り出し、艶やかに表している。表すというより「現す」、定着後も絶えず現像を繰り返して、紙の中から網膜へとやってくるように、それらは常に新しく到来する。そういう作品だった。それは本作《あなた》と合致している。

 

今回の展示では、珍しくダイレクトな言葉が書きつけられていた。それは言葉によって作品を・写真を縛ってはならないという強い想いとともに、しかし言及せずに、平和裏に、日常の美の凪に遊んでいられるものではおれない、という危機感によって発せられていた。

「この文章はメッセージでも意図でもない」と始まり、「決して政治的な意味で作ってない」と、繰り返し念押ししつつも、その中には「2023年中にホースの写真をまとめなければならないと思い『あなた』を作った」「イスラエルのガザへの攻撃が最終的には自分の中での引き金になった」とある。

 

急き立てられるようにして吐露された言葉が、日々の報道や動画投稿で繰り返される最悪な状況について、すなわち現実についてリンクさせる。光の波に浸っていたところを不意に引き戻される。そして改めて見え方を是正する。私的な悦び、耽美のための写真というだけではないということだ。だが写真の命題・役割が記録・報道のため、正義のために現実の世情を写すというわけでもない。

どちらでもあり、どちらを感じてもよい。両極の双方を孕みながら、政治や権力に関わる主張を排したところから、無数の個別の存在を、ただただ認めて肯定すること、写真の「像を写し取り、像を現す」力をそのままに発揮することが一貫して試みられている。

 

《EACH LITTLE THING》シリーズが、3.11というあまりに大きすぎる天災によって破壊され、等価に砕かれた全てのもの――「日常」という時空間に対し、写真と写真家という身体によって等価に肯定しながら「日常」を現し直していったものであれば、本作《あなた》は、これも目視できないところで繰り広げられる紛争、民族虐殺によって一方的に無視されながら破壊される「存在」に対し、無視されて消されてよい存在などあるはずがないと、「存在」を肯定し、「存在」を現わす行為であると言えるかもしれない。

 

2つのシリーズは両輪のように、世情・状況とリンクしながら、時空間と個人の「存在」を見つめ、現わしている。

「あなた」はまだ見ぬ誰かの、存在感の波長を予期させながら、今日もまた自由な姿を見せている。

 

( ◜◡゜)っ 完。