コレクション展と趣きのまた少し違う収蔵品の企画展。クソな現実のさなかに。
展示冒頭の森村泰昌《肖像(ゴッホ)》《肖像(カミーユ・ルーラン)》、やなぎみわ《My Grandmothers:YUKA》《My Grandmothers:AI》、シンディ・シャーマン(Cindy Sherman)《無題#129》が並ぶのを目にして、これはテーマの切り口を工夫したコレクション展と思った。
その後出てくる多くの作品も見覚えがあり、展示は安定感があった。既によく知っているものに新しいものを交えて再配列した感じ、「知ってる作品を並べ直して、改めてよく見る」が全体の感想だ。
それもそのはずチラシを読むとこれは収蔵作品の展示だった。「所蔵作品総合目録検索システム」で検索に上がってこない作品・作者もあり、収蔵時期などがどこにも明記されていない、更には図録も刊行されないので、全てが当館の収蔵品かは確証がないが、つまりは星座の形が配列で決まるように、展示品の構成を変えることで新たなテーマを浮かび上がらせるという試みだ。
テーマ。
「ノー・バウンダリーズ(No Boundaries)」――境界を無くして。
理想である。夢想であると言っても良い。言いすぎか? 現実はひどい。なんだか知らんがクソである。境界だらけで、なおかつ、強者や無理解者が境界を恣意的に設定する。EU離脱、一路一帯と覇権主義、露・ウクライナ侵攻、イスラエルのガザ侵攻、トランプ再選からのDOGE・DEI見直し・高関税、地方自治体の選挙ジャックとパフォーマンス化、etcetc... マトモな神経がゴリゴリにすり減るような圧倒的速度の現実の方が、文化的・知的豊かさや多様性よりも、多くの民意を得たもの/ジャックしたものに感じられてならない。皆が心のどこかで望んだ物事の結果がダイレクトに現れただけに見えてならない。民意が強い権力にスパイラル状に巻き付いて加速的に実装されてゆく。
「境界」は差別やレッテル、権限の配分というだけではない。モラルや過去の経緯から編まれたルールでもある。それが逆の意味で無化され、破壊され、改定がなされる。現実に起きている境界の解体と再設定があまりにも強烈なので、これまで「現代アート」が言ってきたリベラルな指摘や異議申し立てが実際どこまで有意義かはもう分からない。
だがここ(アート)にしかない力場があるのは確かだ。私は左派リベラル原理主義者ではないが、しかし保守とも無関心層とも言い難い。全部混ざっている。強い個人や企業や政党が一人勝ちで栄えて強権を奮い、公的な自由と多様性を刈り取ることに抵抗を感じる。どちらも極端になるのは良くない。極端な両者が釣り合っていると相対主義を基に中庸でいられるということはあるが、それでもキツい。誰かの極論や暴露、告発に身を寄せる日々は、疲れる。色々と、クソだ。
なのでこうした現代アートの声や形に囲まれて身を浸していると、妙な興奮を覚える。何か大きな力を疑い、大きな力に抗い、個としての「私」を公に訴えることの思考と実行力を具体化した、この空間に揺さぶられる。思ったことを物申してよいのですね?昂る。
山城知佳子の2000年代初頭の映像作品が4点まとめて観られたのが効いた。いずれもウイットに富んでそれでいて尖っていて、しかし5~10分に簡潔に纏められ軽妙さがある。沖縄という土地が柵だらけで基地=アメリカが食い込んでいること、そのことを直接には触れられないこと、だが自国「日本」にあってはなおそうした事情を込みにしてアンタッチャブルな扱いしかなされていなことが皮肉めいて示される。
《BORDER》はまさに柵としての沖縄(沖縄は柵の内側なのか?外側にあるのか?)が作者の身体と共に表される。《オキナワ TOURIST-I like Okinawa Sweat》は更に強烈に、常夏の暑さの中でアイスクリームをべろべろ貪り食う姿によって、誰からも食い物にされている「沖縄」が柵の前で演じられる。《オキナワ TOURIST-日本への旅》は、国会議事堂前で「沖縄」から来たと自己紹介する作者が、その後、通信か再生機材のトラブルか、映像は何度も止まり、音声は入らなくなり、ただただ「伝わらない沖縄」が流れ続ける。声は「日本」には届くことがない。
こういう訴え方・抗い方があるのか。興奮した。
ただ政治的、人種的、性差等にまつわる「多様性」への訴えを集めた企画展ではないので、全体としては表現領域として手法やスタイル、テーマ設定においてジャンルを横断するものが主であった。
そんな中で経済性や政治性といった領域を突く作品として、鋭くて興奮したのは田中功起《だれかのゴミはだれかの宝物》だ。カリフォルニアにて、フリマにそのへんで大量に落ちている巨大なヤシの葉を出品する。要は落ち葉を売ってるわけで、おいおいマジかよみたいな反応がちらほらあり、予期せぬやり取りを鑑賞することになる。
最終的にはフリマのルールに反する(①販売して良いのはアンティークかコレクターズアイテムという定義の問題、②撮影許可の問題)ことから撤退することになる。経済・市場がゲームであること、そのルールを小突くあたりが丹羽良徳ぽかった(横浜トリエンナーレ2024を思い出す等)が、どちらかというと現地で明らかに場違いなものを投げ込むことで、フリマを訪れた現地の人達に予定調和外の反応を催させ、言葉を発せさせたところが作品となっている。
ミン・ウォン(Ming WONG)の映像作品《Life of Limitation》《Tales From the Bamboo Spaceship》も刺激的だったが、よくできた編集物という感じで、同じ映像系でも山城知佳子、田中功起の「生」な身に迫るものとは別物だった。前者は1959年のハリウッド映画『イミテーション・オブ・ライフ(邦題『悲しみは空の彼方に』)』の、人種(白人・黒人)を巡る印象的なシーンを2画面構成にし、配役を入れ替えて別撮りした同じシーンを同期させて流している。このとき配役は中華系、マレー系、インド系の3名の俳優が入れ替わり立ち替わるという念の入りようで、今や人種アイデンティティーの話題は白人対黒人という単的な争点ではなくなっていることを示す。
後者は3部構成で、まず「中国オペラ」(京劇)の歴史として、広東の劇団「赤船」を辿る。清の時代から現代に至るまでの中国オペラ・中国伝統文化のうねりを圧縮して畳みかけてくる。清の頃、オペラ演者には武術に精通する者も多かったが、ともに身分は低く、反清朝運動に加わった者も多かった。赤船、中国オペラは清政府には弾圧され、また文化大革命(1966-1976)の中で根絶されてしまうが、中国大陸の外:主に香港と台湾では華人のアイデンティティー、中華文化の核として伝わったという。第2部はそうした歴史を踏まえてか、無作為なまでに様々な属性・身分や職業の名称がテロップで、京劇の登場人物紹介めいて流され、第3部は京劇の映像と宇宙飛行士にまつわるニュース映像や映画、アニメ(千年女優)とが2枚セットで流されてゆく。
エヴェリン・タオチェン・ワン(Evelyn Taoceng Wang)の絵画2点《トルコ人女性たちのブラックベリー》《有機的な一日》も、何とも言えない越境的な作品で魅了された。初めて見る、多国籍な絵で、まさに近年日本で、以前には見なかった国籍――東南アジア、インド等からの観光客をよく見るようになった時の視界とどこか近い。
見慣れた日本画的な、落款印も含めて平板な東洋の墨絵に水彩の筆致が入り、その画面内には文字通り頭にスカーフを巻いたトルコ人女性が居る。本来いないはずの文化圏からの来訪。そして日常景、観光的な振る舞い(ブラックベリーを摘みながら腕を奇妙に伸ばしてスマホを自撮り操作している!)、国境の融解を実感させる作品だ。
越境性を表現領域、フォーマットについて言うなら、今回多数展示されている田島美加はまさに無・境界的だ。多数といっても今数えたら5点だったが、なぜか倍以上多く感じた。一人の作者なのに別人のように作風が多彩というか領域を横断していくのだ。
《ネガティブ・エントロピー(ディープ・ブレイン・スティミュレーション、ペール・グリーン)》の2枚組(ダブル、クアッド)はデジタル脳波のような抽象画。《アニマ》シリーズは透明~半透明のガラス立体のキャラクター(?)状の彫刻。《アールダムーブルモン(クライン・キュラソー)》は真っ平らでグラデーション色だけの平面、しかし素材がエナメルスプレー、蓄光塗料、熱成系PETGと、非常に滑らかで光沢を帯びたプラスチック面になっていて絵画とも何とも呼びようがない。方向性は全く違えど素材やジャンルを幾つも跨いでいくやりかたはヤン・ヴォーも同様かもしれない。
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写真関係で言うと、展示冒頭の森村泰昌、やなぎみわ、シンディ・シャーマンはお馴染みだが、もうひとつ国立国際美術館お馴染み、ヴォルフガング・ティルマンス(Wolfgang Tillmans)14点が最後のコーナーの壁4面を取り囲む。いち作家の規模としては本展示のなかで最大規模といえる。
《フライシュヴィマー33》《ヴェッシェベルク(洗濯物の山)》《アストロ・クラスト、a》《ペーパー・ドロップ》、そして《シルバー》シリーズが並ぶ。ティルマンスのお馴染みの展示スタイル:雑誌編集的に壁面の上下左右を自在かつ厳密に張り巡らせるインスタレーション的手法とは真逆に、広く間隔をとって1点ずつ安置させていて、まさに公立美術館の収蔵品としての見せ方だ。
近くから凝視したところでティルマンス作品は何かが見えてくるものではない。昔のモダニズム写真のように決定的瞬間の撮影術やプリントの工芸的巧みさが売りであるのではなく、また今回の展示作品に限って言えば、それ以降のデジタル撮影・画像編集・出力技術による描画や合成、加工を旨とする新たな次元の視座があるのでもない。《シルバー》シリーズを真剣に凝視すればするほど反射する自分の顔を見ることになってしまい、洗濯物の山や蟹の甲羅と肉を凝視してもその描画の中からは写真的美学(評価)を見出すことは難しい。
この困難さがティルマンスのかつて切り拓いた境地だった。写真・美術作品のモチーフとして私達の日常のピースが凝視され大伸ばしにされて並ぶこと、それらが複数の群となって展示され、展示空間そのものが編集され、個々の写真が序列付けられることなく個々であるままに呼応し穏やかに連繋したイメージを発するところに、日常の場面や人間関係から何か重要な存在感を見出す契機をもたらした。
更に絵画史上のモチーフ(蠅)の参照、抽象表現へのアプローチが試みられ、《シルバー》《フライシュヴィマー》シリーズで顕著な通り、「写真」という手法・工程を使いながら、その絶対的主役・頂点である「撮影」を引き算したところに生成されるイメージを提起してみせた。等価に連動されてゆくイメージ、絵画で成されてきた単色塗りによる抽象世界を写真が写真的手法で行うことで、知覚や認識、美術史なりの何かの領域が開放される。《シルバー》シリーズはゲルハルト・リヒターと比較したいし、etc
…といった風に、ティルマンスに限っては私がそもそもの本来的な意味や意義がちゃんと掴めていないのと、かなり時間が経ったとはいえ割と最近の作家であるために、現在の世情を照応させて読むということができず、さりとて写真・美術的な意義といっても、20年前にリアルタイムで向き合っているのとはやはり状況が異なるので、とかく難しい。これは宿題にします。ぐえ。
「今」がとにかく現在進行形で変化し続ける中、復習は常に新しい。
見慣れた現代美術も見返すたびに何か考えさせられ、そして刺激される。現実がいかにクソであろうとも、黙って従うだけではないのだ。何をどう思っても良いのだと。
( O^-^)b 完(終わってねえw