nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】2025.7/19-8/3_野中ひとみ、山形紗織、澄毅「OVER THE RIVER 河をこえて」@HILL TOP GALLERY

野中ひとみは写真プリントへの刺繍で像を倍増する。山形紗織は写真の配置を曼荼羅のように糸で結ぶ。澄毅は写真プリントに穴をあけ、スリットを入れ、感光をもう一段開増やす。

写真の画像を加工する、写真プリントに加工を施す、プリントの支持体や展示に手を加えることが、日常茶飯事となった現代では、作家の動機がそこにあり、その動機を正しく伝えるものであるならば、基本何をしてもよいことになっている。もっと型を破ってミクストメディアをやるべきだと奨励されもする。

個性を際立たせてアピールすべきだから、というよりも、正解の型が存在しなくなったために、作家個々人の信じる正解、能力や欲望や戦略のマキシマムをはっきりと目に見える形で提示することが求められているのだ。

 

かつては、「撮る・写す」入力行為と、「撮られたものが正しく像として現れている」出力とが、一対一で厳格に結びついていなければならなかった。そこに何かを上乗せしたり変形を加えることは、不純物であり、逃げと見なされた。絶対唯一の「真」に向かって、写真家が外部へ、そして現像へ向き合う姿勢が問われていた。何故なら、写真に権威があったからだ。

 

既に「写真」の特権は失われている。デジタル化や画像の入出力の多様化、万人が発信者となりメディアの力関係が変化した、といった要因もあるが、根本的には写真が経済原理に巻き込まれて、市場価値を持つよう要請されているためだ。市場価値は、何か新しいもの × 確からしいもの(規範や伝統)との掛け合わせの中で見出されるが、新しさは主に他ジャンル、異文化、他者へのコミュニケーション、コラボレーションによって獲得される。ゆえに逆説的に自由が求められる。目指すべき純粋な同一性と、美の階級構造が失われていて経済(消費と言ってもいい)の場にダイレクトに引っ張りだされ、素早い変性・変形、フロー、アップロードが求められる。写真は自由自在な変性なくしては存続しえなくなった。

 

作家としてはその経済性・市場性のスピードに乗るか反るか態度を決めなければならない。本展示に出典している3名は、形態は自由で、見応えにも力を入れているが、経済性への応答などではなく個々人の必然性からその独特な表現手法に至っている。そのことを証明するのは基本的にはステートメント、動機の語りによってしかないが、しかし作品を見るだけでもそのことは分かる。決して消費・流通されるために写真は撮られていないし、手を入れられているのではない。逆だ。

 

 

野中ひとみの刺繍写真はレトロみのある、追憶の風景のような温もりのあるスナップに直接刺繡が掛けられている。

モグラフィー社のロモクロームというフィルムは、特定の色を別の色へと変換するので、全体的に現実というよりも追憶のシーンのような写り方をするのだという。家の近所と思わしき公園や空や小さい女の子が写っている。ロモによってそれらは現実の位置や名を失い、作者だけの光景となる。

これだけでもスナップ写真としては成立しそうだが、作者はあえて手間暇をかけて刺繍を施す。刺繡は、花や女の子や蛾、心臓、鳥のモチーフなどを表している。刺繍の方が具体的な像を示していて、写真はそれが生きるための場となっている。だが写真抜きでは作品は成立しない、引き算を想像してみたが、刺繍はそれ単独では意味がないようだ。

繰り返されているのは、鳥や蛾の羽ばたきに象徴される羽化、開花であり、心臓と花に象徴される生命力だ。写真の外を現実、あるいは今とすると、写真の内側は作者の内面あるいは過去の世界ということになる。

ベビーカーか車椅子のようなものに小さい子が乗っている。女の子の半身が色で膨らんで鳥のオーラが羽ばたいて羽化してゆく。太陽のような光源が描かれる。心臓が光景に脈打つ。羊膜の内に籠ったまま生きているようでもあるが、外世界とパラレルにそれはあって、外世界、内面世界の二分を超えて昇華された地点へ羽ばたきたいという生命力をも感じる。

いま目に見えている現実では果たされない、表に出せばかき消えてしまう夢のような領域の、しかし作者の内には確かにあるもう一つの世界なのだろうか。おそらく幼少期から永く、変わらずに保たれてきた聖域や救済のようなもので、写真と言葉だけでもイメージ化はできなかった、さらに第3の手法=刺繍を組み合わせて初めてストレートに表現できるものだったのだ。絵画に近いのだが、物理的・社会的な現実と対になる、パラレルにある内面の現実ということで、写真が説得力を持つのである。

 

 

山形紗織も糸を用いた作品だが、写真プリントはストレートな撮影、モノクロの手焼きで、糸は全体を構成するために使われている。中央にセルフポートレートの1枚を置き、人物の周囲を円形に釘と糸が囲んでいる。その1枚の周りには6点の写真が環状に取り囲んでいて、更にその外周を糸が囲んでいる。糸の内円は正円を描き、外円は19角形の各頂点から左右に3本ずつ糸が伸びて整然とした図形を描いている。

ステートメントによると本作は、糸掛け曼荼羅を参考にしたストリングアートを取り入れ、曼荼羅と個人的な生の苦しみを扱い、普遍的な生への問い掛けを行っている。

写真に写されているのは具体的な存在というよりソラリゼーションや多重露光によって内面的な影を帯びている。蝉の抜け殻や泳ぐ魚、分解された蝶の羽、歩く人の影、川と森の風景などが、暗い帳の中にあり、それらは外界のものではないように見える。作者の内側の視界ということになるだろうか。だが直線で幾重にも張り巡らされた糸が、関連のなさそうな写真らを調律し、緊張感を与えている。

暗く傾斜したモノクロームのスナップ群は、素数から成る糸の律、陣の力によって、磁界に封じられたように個人の主張を無くす。誰かに帰属するのではない。では誰の見ている光景だろうか。

中央のセルフポートレートは浅いグレーで白に近く、反射物のようなものを掲げているので顔は見えない。誰でもないセルフ。誰のものでもない光景。おそらく鑑賞者の視線が中央のセルフポートレートへと転写され、そこから糸を伝って各写真へ自我が伝播し、それぞれの光景を自分の内面として投入されていき、ぐるぐると回る、そういう構造なのだろう。

視線の強い没入感か、逆に画面中央から強烈に反射され弾かれた視線が脇の写真の環へと落ち、そのまま封じられた磁場としてぐるぐる回ることが出来ればよかった。全体の構成として律は強力だったが、実際の曼荼羅のように、封じられた写真と視線の行き場/生き場を加速させて、中心地で集中的に引き込んだり強烈に周囲へ乱反射できると理想的だった。曼荼羅には果てしない没入の快感が伴う…。

 

 

澄毅の作品は緻密な線の連続するドローイングと、写真プリントにおそろしく細かいスリットを入れたもので、どちらも線の質は同じ、鳥の羽を拡大したような、毛の秩序立った重なりにも似た細かな波、うねりの連続を描いている。

写真プリントに刻まれたスリットは、あまりに緻密で数が多いので、もはやスリットには見えない。彼の手法、作品スタイルを知らない方が純粋に作品を見られるのではないかと思う。

漆黒の中に、毛皮を巻いたように浮かぶ白い渦は、恐ろしく細かいスリットの連続で描かれている。中心には、人物のシルエットが光の粒で描かれている。これもプリントに開けた穴から覗く光点でできている。

ステートメントによれば、作者の祖父の写真を大伸ばしにしたものらしいが、何が写っていたかはもはや辿ることができない。

 

光によって照らされたものをフィルムに感光させて複写し、更にネガに光を透して印画紙へと焼き付ける、二重三重に光を刻んで作るのが従来の「写真」なのだが、澄毅の作品は更にもう1回、完成後のプリントに光を刻み込んで、物理的に光そのものへ近付ける。超・感光のプロセスだ。それを経て鑑賞者の目に届くのは、写真の亜種か、あるいは三重水素のような写真の同位体だ。生み出せる数は少なく稀少だが、質量(情報量)は比べ物にならないほど大きい。

 

ドローイングもするとは初めて知った。繊細なスリットを幾重にも入れられるのだから、緻密な線描画が描けるのは当然だったか。パリに住んでいた時にコロナ禍のパンデミックが起き、その渦中で描かれたという。寓話めいた都市と、氾濫する水、ボートで逃げ出す動物、波に身を任せる魚。美しい反面、不穏な光景でもある。危機的状況から抜け出せないことへの不安も込められているのだろうが、線描の確かさと緻密さがそれを昇華させている。

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こうして三者の作品を見ると、経済性や市場性とは別のところに軸があってこれらの作品が生まれていることを再認識する。それは何か? 端的に、「生きる」ということに尽きるのだと思う。個々人が自分の生き方で生きていくために、これらの表現が必要だったのだ。

作家とは何かというと、表現を抜きにして生きられるか否かが要件のひとつにあるのだと思った。

 

( ◜◡゜)っ 完。