nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【KG】KYOTOGRAPHIE 2025 アソシエイテッド・プログラム

「KYOTOGRAPHIE」の中でも謎の位置づけにある「アソシエイテッド・プログラム」3本の鑑賞レポどす。

「KYOTOGRAPHIE」本体プログラムと続き番号が振られていて、KG枠のような体裁がとられながら、図録等では対象外となっている。KG+側の案内リーフレットのMAPには掲載自体がない。そんな謎の位置づけなのが「アソシエイテッド・プログラム」である。

 

(参考)KYOTOGRAPHIE 2025本編レポ

www.hyperneko.com

 

明確な定義を書いたものがKGオフィシャルHPにもプレス案内資料にも見当たらず、とりあえず過去の記述から引っ張ってくると「メインプログラムと並行して開催される関連展示の枠組み」であり、「KYOTOGRAPHIEの主催ではなく、他の団体や美術館が独自に企画・運営する展示でありながら、写真祭の趣旨やテーマに共鳴し、公式に連携する形で紹介される」ものを指す。

なので事前に用意された連動性はない。「KGを観て回るなら、同時にぜひ回るべき」ということだ。

今回は3本あります。

 

【15】Sharing Visions ヴィジョンを届ける @嶋臺ギャラリー

『京都ジャーナル(KYOTO JOURNAL)』の髄を集めた展示である。1986年に創刊されて以来の歴史や、京都との関わり、過去に発刊された全108号から魅力的な特集と写真が紹介される。

 

展示の文章量が多く、時間の余裕がなかったため、会場撮影だけで終わらざるを得ず、全然読めていない。悔やまれる。なんせ「京都ジャーナル」は海外向けの英語雑誌で、ちゃんと日本語キャプションで理解を深める機会はそうそうなく、おしいことをしました。

念入りな取材と、高いクオリティの写真でしっかり作り込まれているのだが、なんと創刊時から非営利団体として活動していて、完全ボランティア活動で作られているというのが信じられない。「京都」、「日本」の多岐にわたる文化・歴史・人物を紹介し、定期的な発刊を続けている(現在、年間で紙雑誌を1冊、デジタル誌を2冊)。

 

幸いにもWebで記事が読めます(無料)。翻訳機能で読みましょうね。

kyotojournal.org

翻訳のせいか英語圏独自の文体のせいか、日本人の私にはすんなり染み入るものではないが、こういう切り口や語り口で「日本」「京都」が海外に向かって紹介されてきたのだ、ということは知っておいて損はない。「日本」という存在感を支えているのはTOKYOだけではないという点でも。

 

【16】「そのへんにあるもの」@京都芸術センター

KG2025「HUMANITY」と超芸術トマソンが結びつかなくて「?」となるのは私だけではないだろう。冒頭の通り別枠の企画と割り切って観ましょう。

ただ注意すべきことがあり、芸術センターに入ってすぐの大きな展示タイトル板にはギャラリー南の「京トマソンラソン」展しか書いていない。しかしグラウンド挟んで向かいに離れたギャラリー北にも展示(田中功起、葭村太一、伊達伸明)があり、紙の地図をちゃんと読まないと完全に見落とすであろう。見落としました。ああっ。もっぺんいかなあかんや(後の祭り

 

安心してください、会期がR7.6/8(日)までと、KG会期より1カ月長いんですね。また行きます(若干泣いてる

 

さてギャラリー南「京トマソンラソン展は、「京都芸術センター 開設25周年記念展覧会」として銘打たれており、貴重な展示となっているが、撮影禁止のため見せられるものがない。版権に絡む過去資料が色々あるためか。趣旨としては「京都でトマソンを見つけて報告しましょう」プロジェクトに繋がるものだ。

展示は、「千円札裁判」(1963-70年)を皮切りとした赤瀬川源平のキャリアに触れつつ、超芸術トマソン活動の意味を紹介する。この意味不明でありながら妙に記憶に残るユニークな名称が生まれるまでには、1972年の「四谷階段」発見から、1981年の巨人へのゲーリー・トマソン入団を待たねばならなかった。王貞治の抜けた穴を埋める外人選手と期待され鳴り物入りしたが、何の成果も出せずに無用の長物で終わったことから、その名が付けられた。

 

トマソン活動は意外にも組織的であった。みうらじゅんいやげもの」的な、文化人個人のおもしろ活動のイメージに反して、私塾「美学校」ゼミ生との共同による「路上観察」から生まれ、超芸術トマソン観測センター」路上観察学会としての活動、報告と認定、分類の作業などを行う。単に路上物件なら何でも良いわけではないが、令和次郎の考現学を源流として、通常は見落とされる都市の中の「無用のオブジェ」を対象とするため、射程はとても広い。

赤瀬川源平から「不動産に付着し、美しく保存されている無用の長物」という定義が提唱されてから、非常に多くの形態が報告され、資料では実に22の分類が提示された。「純粋タイプ」「無用階段」「無用窓」「原爆タイプ(影タイプ)」「阿部定タイプ」「もの喰う木(植物強し)」「つぼ庭」等…。分類だけでも大変だ。知的労働みがある。

 

現在、企画として、来場者に「京トマソンMAP作成」「超芸術トマソン公開報告会」参加の呼びかけを行っているところで、報告用紙と送付先QRコードが配布されていた。

www.kyotographie.jp

時代ごとに、あるいは地域ごとに、都市から見出されるオブジェは移り変わっていくであろう。都市は生き物のようだ。しかし資料を見ていて、観察・採集・報告にはやはり写真が最も優れて有用である点が興味深い。作品として主役でなくても、裏方に回っても強力なメディアなのだ。

 

【17】横田大輔 × Another Man @The Lombard

そのうちKYOTOGRAPHIE本体で扱ってほしい写真家の筆頭格が横田大輔である。なんなら国立国際美術館で大規模個展をしてくれても良いのだが。とにかく「ポストプロヴォーク」とか「写真(紙)を床に積み上げる人」「薬剤デロデロ」だけでない語り方がなされるべきだが、単発の小出しではなく体系的にまとまった形での回顧で、かつ挑戦的な読み解きと提示がなされるべきだ。

 

本展示は洋雑誌『Another Man』とのコラボ企画となっている。あまり表に出ていないが、今、AnOtherサイトを見てようやく趣旨が分かった。

そもそも会場「The Lombardランバード自体が、初めて聞く名でGoogle Mapにすら出てこない(住所:上京区寺之内通千本西入柏清盛町948)のだが、『Another Man』アートディレクターLina Kutsovskaya(リナ・クツォフスカヤ)とその夫・アーティストであり写真家のNick Haymes(ニック・ヘイムズ)が物件を取得して、本展示を開催したようだ。

 

会場は京町家の古民家そのもので、薄暗い木造家屋、土間、畳の和室が縦長に続き、奥の庭から外光が差し込む。暗くて重い、圧倒的な重さのある室内。過剰に感光したような紙全体が黒く灰色に染まった横田大輔作品は、なぜか重たい「和」の空間にしっかりと調和していた。溶け込むのではなく存在感を放ちながらそこに在った。和室の「翳」と写真の闇とが混ざり合って溶け合っている。書画のような、墨のような写真。

関西では横田大輔の作品を直に見る機会がない。ZINEの類は時折買い求め、手元にもそれなりの数があるが、作品と等身大で対峙する緊張感とリアリティは展示でしかありえず、そこでしか気付けないものがある。

それで対峙してみて、真正面からの・普段定番の言語化は困難であるということが改めて分かる。

 

言語化すると死ぬ写真というのか、いや、写真は死なない。それどころの状況ではない。言語化する前に言語が殺されるというべきか。普段の言葉が掛けられない。

何が写っているか、機材は何か、被写体との関係性がどうか、撮影者の内面はどうか、それらにおける社会性は、等々。通常の写真作品において用いられ語られる言語に当て嵌めようとすると言葉が外れて溶かされ、得られるべき回答は尽く塗り潰される。逆にそれらがかなり分かる写真もある。写真家の私生活と、非人間の物理化学の領域とを行き来して波を打つ。

言語の枠組みのかかる手前や外に横田作品はある。像が、薬剤が、光が、写真として発現する現象のみが濃密に絡み合って何かの形らしきものが現れては闇に還る。いかなる金属とも判定される前の、溶けて湧いて泡立つマグマを見ているような気持ちがする。言葉の、写真の、フレームを溶かす溶岩流。

 

何が写っているかではなく何が見えるのか、あるいは見えないのか。見える・見えないとはどういうことなのか。見えないにしてもそこに「像」があり「写真」があることに変わりはない。では私達が見ている目の前の黒いそれ、灰色のそれは何か。何を目の当たりにしているのか。「写真」の生成は現像、暗室の露光だけでなく、網膜と脳内でも起きていることになる。

本来は目に見えない次元、暗箱・暗室の中で起きている現象が、見る側の眼の中・脳の中で起きる。写真とはプリントや撮影の話だけではないのだと分かる。イメージはどこからやってくるのか。PROVOKEは社会に、人々に流通する経済的商業的な消費イメージ(写真)の向こう側の世界=真の世界へ行こうとした結果、破壊されたイメージに辿り着いた(そしてそれらすら逆に取り込まれた)。横田大輔の生み出す像は構造、原理からして全く違う。破壊ではなく、真の世界のありようも問わない。

 

こうしたことは生の作品と対峙しないと分からない。生なら分かるというわけではない。非常に高い密度、濃度の展示空間だったから分かってきたのだ。写真の生成が生で行われる現場であること。

筒状に立てられて、内側が見えない大伸ばしの写真は、中身が分からないのに関わらず、他の写真と同じく湧き上がるものがあった。現像という現象自体が会場で起きていることを物語っていた。隣でも、襖の上から鱗のように重なりながら垂れ下がる写真群は、紙の下部が丸まって上を向き、暗室で水から上げられて乾燥に回された「完成間近の、生まれたての」写真に見える。網膜と暗室が、会場の和室と直結する。写真の生成現場が、プリント完成後にも永続し、鑑賞者個々人の体験へと移行する。

「Another Man」と横田大輔とのコラボレーションは、直近で販売されている特別版「ANOTHER MAN Limited edition BOX」で見られるようだ。これは欲しい。

ANOTHER MAN Limited edition BOX - Daisuke Yokota ZINE / Keizo Kitajima Cover (SIGNED)shop-jp.doverstreetmarket.com

------------------------

横田大輔が想像以上に響いたので熱くなった。

( ◜◡゜)っ 完。