nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【KG+SELECT 2024】R6.4/13~5/12 @堀川御池ギャラリー(前半)

ドキュメンタリー性に何を加えて多角的に展開させるか。

現実の社会性に演出・演技が加わり、写真表現の可能性がまた一つ広がってゆく。

 

 

「KYOTOGRAPHIE」サテライト展示企画「KG+」の特別な枠組み、公募・審査制プログラム「KG+SELECT」をレポする。

 

例年通り、国内外10組の写真家が選ばれている。日本人4名、海外勢6名。

「KG」本体が写真の祭典にふさわしく、スペクタクル的に大掛かりなイベントとなっているのと対照的に、「KG+SELECT」は写真ならではの本質の一つ:ドキュメンタリー性を強く追及している。

 

この傾向は今回も同じ、むしろやや強化されている感もあり、シリアスなテーマが続く(他をさんざん回って連戦状態で見ると疲れがすごく増す)のだが、10組ともが同じ社会問題系のテーマというわけではない。テーマのジャンルの棲み分け、そして技術的介入=表現上の演出、表象の強さの度合いにおいてバランスが見られる。

そこで以下のように、大まかに4つのジャンルに分けてみた。あくまで私の考える分類であって、他の視点からでも分けられそうだが、まず最も簡単なところで補助線を引いてみよう。

 

 

1.自然・環境

【A3】柴田早理「Anthropocene Plastics

【A10】サンティアゴエスコバル・ハラミージョ(Santiago Escobar-Jaramillo)
   「The Fish Dies by Its Mouth」

 

2.風景、記憶

【A2】石川幸史「The changing same」

【A6】紀成道「陰と陽と」

【A7】ナム・ジェホン(Jae Hun Nam)「記憶の断片」

 

3.民族・部族・人種のアイデンティティー、歴史

【A1】何穎嘉(Wing Ka Ho Jimmi)「So close and yet so far away」

【A4】蔡昇達(Tsai Sheng-Da)「へその緒が埋葬された場」

【A5】アビシェーク・ラジャラーム・ケーデカル(Abhishek Rajaram Khedekar)「タマシャ」

 

4.諸要素 × 人為的演出

【A8】劉星佑(Liu Hsing-Yu)「住所不明」

【A9】宇佐美雅浩「Manda-la」

 

レポ前半ではこの「1.自然・環境」と「2.風景、記憶」を扱い、後編で「3」「4」を書こうと思う。

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1.自然・環境と生活

形態として見てすぐに分かるジャンル。自然破壊や環境保護の観点を持つ作品、あるいは取材地において生活上深い関わりを持つ自然環境を舞台とした作品を挙げる。実際には文化や歴史、今作だと犯罪など多岐の領域へ結び付いてゆくが、まずは作品の舞台、語りの基底として自然・環境が大きいものを取り上げた。

 

 

【A3】柴田早理「Anthropocene Plastics

「アントロポセン(人新世)」の代表的事物としてプラスチックの存在に目を向けた作品である。かつて地球の環境を大きく変えてきた火山活動・地震や隕石といった地質学的なイベントに匹敵するのが、我々人類の諸々の活動であり、プラスチックは今やその代表事例として地球に食い込んでいる。

 

深海を思わせる会場構成が暗く静かで美しい。ここにはプラスチックの両義性が込められているだろう。

プラスチックは人間が工業的に生み出した化学物質であり、分解困難な(数百年~数千年かかる)ために消えることなくマイクロプラスチック化して、他の有害物質と結び付きながら各種の生物に取り込まれ、生物濃縮を起こし、例えば環境ホルモンの実害となって人間の身体を脅かす問題へと跳ね返ってきている。

一方で、その原料となる石油はプランクトン等の死骸が海底に堆積し化学変化を経ながら数億年かけて生まれたもの、つまり元は地球に由来する物質でもある。地球によって生成された石油を人間が土から掘り出してプラスチックを作出し、使用後のプラスチックが再び地球に降り積もる。循環と言えば聞こえがいいが、人類自身も含めた多数の生命種を滅びへと導く、死の循環でもある。

 

本作では海沿いの岩礁でプラスチックが撮られている。プラと聞くと異物として分かりやすい一般「ゴミ」の形を想像するところ、写真にあるのは天然の岩や海洋生物の一種のような姿である。この可変性、両義性(天然⇔人工の往還)がプラスチック廃棄物の厄介な特徴だ。岡田将がマイクロプラスチックの微小な粒を1つずつ取り出して拡大し、その形状を可視化したのと対照的に、柴田は自然界と人工物・汚染物との境界が曖昧であることを指摘する。

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その指摘はビジュアルだけでなく研究結果のリサーチによっても行われ、作品と逆側の通路壁にプラスチック環境汚染に関する海外の論文やWeb記事が貼られている。

この中で興味深かったのが「アントロポセンにおけるプラスチック汚染」4形態の図解で、以下のような種類が挙げられていた。

  • Plastiglomerates(プラスチグロメレート):原因=燃焼/プラが岩・石に取り込まれる
  • Pyroplasticsパイロプラスチック):原因=燃焼及び風化/小石のようになる
  • Plasticrusts(プラスチックラスト):原因=波による打ち付け/錆のように岸壁を覆う
  • Anthropoquinas(アンソロポキナス):原因=堆積岩内のゴミ/堆積

 

既にプラスチックは、様々な形態によって地球そのものと一体化しつつある。時に生物のように艶めかしく、時に地中で育まれる宝石のように美しくもある。私達はプラスチックから逃げ切れるのか?

 

 

 

【A10】サンティアゴエスコバル・ハラミージョ(Santiago Escobar-Jaramillo)
 「The Fish Dies by Its Mouth」

展示空間は漁村、漁業をイメージして青い漁網が床に渡しかけられ、写真もまた海と漁業に関するものだ。が、本作は2重に裏切られる。漁業のドキュメンタリーにしては演出的な構成で作られた写真が多く、意味を隠したり隠喩が効いていたりし、漁業そのものの話ではないかもしれないということ。更にステートメントを読むと、そこが普通の漁港ではなく違法な麻薬取引が行われている危険な現場であること。

コロンビアの港町のコミュニティにおける漁業の生業と、表裏一体となっている麻薬密売人の海路輸送の現場、その不穏さ・暴力の中でも力強く生きる村民の姿という「海」の二面性を、アートの手法で象徴的に描き出した作品である。

ビジュアルの演出的な色合いがかなり強く、日本語のステートメントがなければその意味を解することは出来なかった。今回の分類でいう「4.諸要素 × 演技・演出」にも振り分けられそうな作風だが、「海」の存在感が圧倒的であり、海を舞台とした現実の状況が扱われているため、この分類とした。

 

登場人物の多くは顔を布や網で覆っている。薬物取引に関わるギャングに見えるのと同時に、そうした無法者に抗する地元の漁民が顔バレを避けながら登場したとも見える。或いは漁民でありながら、薬物取引の一端を担う(海上に投棄された麻薬の回収役となる)ことで財を成すグレーな者が混ざっていることを仄めかしているかもしれない。銃のモチーフ、薬物が入っていると思わしき箱などが、この海にある二面性を強く印象付ける。

直接の事実としての写真では語られないが、確実にそうした状況があるのだ。ただ、演出の要素が強いため、実際にどのぐらいの困難さ・危険が現地にあるのかが掴みづらいところがあり、表現のシュールさや美と、現実の危険度や切迫さのどちらに軸を置いて読むべきかが分からなかった。

 

 

2.風景、記憶

風景と記憶の関連を扱う作品である。風景それ自体を純度を高めて切り出す作品は、今回の「KG」本体でも、この「KG+SELECT」でも少ない。というより見かけず、別の要素が組み合わされてより手の込んだものとなっていた。

ランドスケープを中判、大判カメラで精緻に写し込んで、土地の記憶や過去の歴史を表すといった手法がひと段落し、直接的な表現上の操作、文体の改造が積極的に試行されているように思われた。

 

【A2】石川幸史「The changing same」

日本国内、東京とその周辺におけるアメリカ的イメージ」の風景を拾い集めた作品で、確かに写されているのが日本なのかアメリカなのか、ステートメントをよく読んでいないと日本とは思えず混乱が深まる。物量の多さも相まってトリップ感は強まり、日本とは思えなくなってしまう。

これには二つのフォーマットが効いている。一つは家屋や庭、店、車など風景の構成要素が建築的・デザイン的に欧米を志向した結果の産物であること。特に戦後昭和の高度成長期にはアメリカ文化は日本人全体の憧れであったろうし、分かりやすい例として所ジョージの世田谷ベースのように、その系譜を過剰に継承することが今もファッションとして有効となっている状況があるだろう。

もう一つは写真それ自体のフォーマットで、恐らく作者は意識的にウォーカー・エヴァンズやスティーブン・ショアの撮り方を反復させており(家屋や車の写真に顕著だ)、そこが「アメリカ」であるという写真的記憶の照合がなされる。この二重性によって本作は強くアメリカ的風景」をもたらしている。

 

ここで為されているのは視覚、記憶の混乱で、提示されたイメージを「日本」へ紐付けようとする際に失敗する、あるいは初めから「日本」と見なしえず「アメリカ」と振り分けられてしまう認知上の錯綜で、それが何から起きているかを検証するのに良い問い掛けとなる。エヴァンズやショアを全く知らない人でもこれら全てを「日本」だと断定するのは難しいだろう。

 

作者が提起するテーマにローカルと都心の問題がある。日本人が憧れからアメリカ文化に寄せていった時代はかなり過去のもので、狂ったように再開発を繰り返す山手線圏内において多く見出せるものではない。つまり開発の経済サイクルから外れた「地方」として北関東や千葉、神奈川その他の地域があるということでもある。

 

もう一つ言うならば、米軍基地との歴史的・文化的な関係性は見逃せないだろう。多摩・福生横田基地、神奈川の厚木基地横須賀基地、キャンプ座間といった主要な米軍基地からは、戦後日本にアメリカ文化がダイレクトに流れ出す場となり、基地周辺の街の景色だけでなく産業構造、暮らしそのものにも深い影響を与えてきたことは想像に難くない。

 

日本は米国の面影を宿した国である。そう感じさせる作品であった。

 

 

【A6】紀成道「陰と陽と」

一見、普通の地方都市(田舎)の風景スナップだが、写真の一部が四角く切り抜かれて、表面が少しめくれて窓のように開いている。反対側から覗き込むと、それぞれのシーンの過去の写真が姿を現す。

 

特集されているのは中国地方である。場所が一番よくわかるのはJR福山駅福山城を俯瞰するカットだ。あとの写真は私が中国地方に不慣れゆえ同定が困難です。場所の匿名性をある程度保っているのは作者の狙いでもある気がする。

過去と今とのノスタルジックな対比、高度成長期以前の地方の姿を懐かしむ・発展の凄さ味わうといった見方もできようが、本作が試みているのは中国山地によって二分される山陽地方・山陰地方の対比でもある。

 

作者は前作「MOTHER」で日本の高度成長期を支えた製鉄所の現場を特集しており、その舞台がまさに広島県福山市であった。もっと言えば、同名の写真集(赤々舎、2019)で、今回の展示と同じカットが登場し、同じ試み(窓あき・過去入り)が紙上で展開されていた。

www.akaaka.com

 

前作「MOTHER」福山市「山陽」側の製鉄産業=工業都市としての近代化・経済発展を特集していたのに対し、今作は地理的な視座を広げて中国地方全体として見た時に、「山陰」側がどうであったのかを提示するものだ。

私自身が関西、京阪神という主要都市をベースに生きているせいもあって、鑑賞時には特にエリアの差異を意識できなかった(絵合わせ的に、個々の写真に注目して現在⇔過去のイメージ比較を楽しんでいた)が、どうもフロアの対角線上で山陽・山陰が対比されていたように思う。

 

山陰サイドの写真は、大きな産業や都市がなく、代わりに木々や水田、池など、自然と第一次産業にまつわる風景が多い。山陽に比べるとあまり大きな変化がない。いや、変化はある。村落がダム湖の底に沈んだり、少子化で学校がなくなったり・・・ 人口は都市部である山陽の方へと吸い上げられているのだろう。こうした力関係、地方同士の関連性が展示空間を通じて見えてくると、更に強い作品になると感じた。

 

 

【A7】ナム・ジェホン(Jae Hun Nam)「記憶の断片」

作者が画面内/風景に入り込んで写っている。演出的写真と言うべきでもあるが、風景のウェイトが非常に大きいためこちらに分類した。

一見すると、大伸ばしの風景写真である。都市の構造体、山の岩肌、川をまたぐ橋、海、その中にごく小さく作者が入り込んでいる。「I」(私)の字の形で立つことで、硬直した姿を表しているというが、時としてそれは風景の中で点でしかないぐらい小さい。

人間が主役でありながら、画面内=世界のバランスとしては周囲の環境(風景)の方が遥かに大きく、主役を押し潰しそうになっているという構図は、昨年度「KG+SELECT 2023」で出展した、まさに同じ韓国出身のソン・ソグ(Seok-Woo Song)「Wandering, Wondering」と共通している。

 

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本作で作者は「孤独感や不安感を克服するために」記憶の中にある過去の場所を訪れ、そこに立つ自分自身を客観的に写真で収めることで、過去の体験、自分自身と対話したという。根底にあるのは現代社会の変化のスピードがあまりに早いことで、自己のアイデンティティーを掴むよりも早く決断や選択を迫られている状況があるようだ。ソン・ソグも全く同様に「急速に変化する社会構造の中で適応できない20代の青年達を表している」ステートメントに書いていた。

韓国が超学歴社会にして就職困難社会であり、深刻な格差社会の状態にあると言われて久しい。だがそうした客観的な、言葉の上だけの「苦労」しか日本からはまだ見えていない。韓国に生きる若い世代の、生身の苦しみは、本作のように内面を吐露されることでようやく伝わってくるのだろう。

 

 

 

( ´ - ` )ノ 後編へつづく