フィルム、大判・中判カメラ、鶏卵紙という古典技術を総動員した写真作品。被写体も特別なものではなく、作者の実家のすぐ前の海である。だが写し取られた海の風景は、遠い記憶・心の中に息づいた光景となって表れる。
【会期】R4.12/1~11
本展示は東京:「Paper Pool」(2022年2月)、「Roonee 247 Fine Arts」(10月)からの巡回展である。
また「galleryMain」ではちょうど一年前に、シベリア鉄道での旅を撮った別シリーズを展示していた。
前作でフィルム写真、暗室ワークで、自身の手でしっかり「写真」を作る作家であると理解していたが、今作の主題・キーワードは「鶏卵紙」である。より何段も深い所に足を踏み入れていたので驚いた。
デジタル技術がスタンダードとなった現代の写真状況においては、古典技法をあえて使うだけで一つのテーマとなり、作家の強い意図となる。技術を逆行すると圧倒的に手間が増すからだ。
デジタル写真とは何かというと、データ形式や制作手順など、様々な規格が電子的に統一された写真と言えよう。対してフィルムを旨とする古典的な制作では、行為の一つ一つを手作りによって脱規格化する。「写真」を規格から引き離し、自分ならではの固有の記憶や風景へと取り戻す。「風景」を取り戻すと言っても良いだろう。
「鶏卵紙プリント(アルビューメンプリント)」と通常のフィルム写真プリントと何がどう違うのか。ここで動画のお時間です。写真界隈で有名なYouTubeチャンネル「2B Channel」の「鶏卵紙プリントを教えてもらう」企画にて、発信者・渡辺さとるが写真家・稲垣徳文に作り方の実践を紹介する動画がある。
小池も鶏卵紙プリント技法を稲垣徳文から教わったという。
「鶏卵」は形容ではなく本当に卵を使う。卵の卵白だけを取り出し、塩と酢をまぜて攪拌、メレンゲ状にして寝かして紙で濾し、卵白液だけを更に抽出。その液を紙に塗り、硝酸銀と反応させて感光性を得るという仕組みだ。
撮影はサイアノタイプ等と同じく日光写真のようなもので、印画紙に密着させたネガを紫外線で感光させて像を焼き付ける。
「デジカメWatch」にも同じく稲垣徳文が「鶏卵紙」の作り方を分かりやすく紹介している。
もはや料理に近い気がする。
デジタルに慣れ切っていると大変な手間である。特に、ベースの卵白紙に硝酸銀を塗ったら30分~1時間ぐらいの間に感光させて使ってしまわないといけない。時間がかかる割に時間との勝負でもある。料理だ。
小池貴之も「慣れればそんなに」「卵、塩、酢、どれもキッチンにあるものでできる」と言っていて、もう料理である。
本作のこだわりとして、現地の海水を煮立てて取り出した塩を使っている。にがりもそのまま入っているが、プリントにおいて食卓塩との差は特になかったという。もはや料理である。
それでもあえて現地の塩を使う理由は「気持ちの問題?」と言っていたが、そうした「気持ち」の介入余地が大きい。というよりほぼ全ての行程が人の手=「気持ち」から出来ていて、オリジナリティが高い分、ブレ幅が大きく不確定要素が大きいのが古典技法の特徴だろう。鶏卵紙作りの3枚に1枚は失敗だと語っていたから、処理工程を成功・完成させること自体が「作品」と言えるかもしれない。
だが「作品」の説得力を支えているのは、やはり写真の像そのものである。大判カメラで写し取られた海は生きているように力がある。
海の波と砂浜の質感、奥行きは、デジカメやスマホで撮って写る情報記録とは別物である。鶏卵紙の独特の風合い、当日の天候、デジタルでのネガデータ調整(恐らくネガをスキャンして一度データ化、トーン調整などを加えたものを更にデジタルネガとして出力している)といった要素が掛け合わさって、「写真」にしかない世界が開けている。 黒・灰色・茶色の間のような風合いが一層、現実の視界の記録というより、記憶の中にある光景を覗き見るような実感をもたらす。ステートメントの最後を「私が感じた浜、そのものがここにある。」と締め括っているとおり、その手応えが作者を突き動かしてきたのだろう。
私のコンデジ複写だと描画の繊細さと奥行き感が全く消えてしまったのだが、恐らく誰がどう複写しても再現できないだろう。写真でありながら、その「画」を他のメディアに乗って流通させて伝えることが出来ない。静かな矛盾に満ちているところが興味深い。
また、本作は手間がかかるだけでなく、2020年・新型コロナ禍以降に作成されており、東京在住の作者が撮影のために地方である故郷を訪れるのに気を遣うところがかなりあったようだ。
コロナ流行当初は地方と都市部で「コロナ」の意味合いに断絶に近いものがあり、実家から帰省を断られる大学生や「県外ナンバー狩り」などという非常事態にあったことが思い出される。言わばこの3年近く、多くの人が「故郷」や「地元」からの切断を強いられてきたのだ。そのことを顧みると本作は作者の個人的なノスタルジーではなく、地方と都市との関係性、情報や情動、人流などの非対称性についても接続していく面がある。
だが作者の心情とも社会の状況ともリンクしない、それ自体で尖った存在感を示すカットがある。波の動きで描画が不確かなカット、何が写っているのか判断が戸惑うカットは、100年前の新興写真に見られる「映像の新しさ」が宿っているように感じられる。外部と前後関係を持たず、光とモノと影との写真的構成だけがそこにある。人の世を離れたところにある場面は何か根深い「新しさ」を湛えている。
実際に撮影に使われた大判カメラ。コンデジとスマホに慣れた身にはあまりに大きい。撮影時には実家に送っておき、浜へと持ち運んだという。
2リットルの海水を煮立てて得られた塩。もうかなり料理っぽい。
浜での採取物。黒いのは砂鉄で、写真に登場する砂浜が黒いのは砂鉄の含有量が多いためだと分かった。
フィルムや古典技法は面白いけど、私は超がつくほど面倒くさがりの人間で、そういうワークショップの類に全く行こうとしないので、そろそろ基本的なことをやっておかないとまずいのではないかと思い始めていますが、面倒くさいので、YouTubeを見るなどしてお茶を濁してゐます。あかん、見習わねば(そしてまたYouTubeを見る
( ´ - ` ) 完。