京都芸術大学(旧名:京都造形芸術大学)の卒展・修了展、「美術工芸学科」の「写真・映像コース」鑑賞レポです。
二つのコースが合体した関係でややボリュームがあるため、ここでは2つの棟で展開されているうち「人間館C棟」での展示(2作品)と、また別の企画としてキャンパス内でゲリラ的に展示されている「京都トリエンナーレ」(遭遇できた3作品)を紹介する。
【会期】R5.2/4~12
(参考)染織テキスタイル、総合造形コース
キャンパス入口の大階段からまず大きな「人間館A棟」(ギャルリ・オーブ)、「望天館」が連なっているのだが、これらの展示を全てすっ飛ばして「人間館C棟」へやってきた。しかし時間の大半をここで使った。油画、日本画が大量にあったのだ。とにかく展示の密度がある。さすが総合芸術大学おそるべし。
◆人間館C棟 3F_竹内万里子「言葉にならない」
「人間館C棟」には写真・映像コースの作品が2点ある。
が、入口でこれ。
C棟の入口には、写真批評家にして美術工芸学科・竹内万里子学科長のお言葉「言葉にならない」が掲示されている。毎年毎年、写真家を志すものにとどまらず、表現に携わる人間たちを強く励ます言葉を贈り、話題になっているが、今年度のお言葉もしみる。極めてしみる。
「言葉にならない」とは何のことなのか。
「言葉にならない。それは当たり前のことなのです。しかしそれは、言葉にしない理由にはなりません。」
「イメージにならない。それも当然のことです。だからといって、作品を作ることが無意味なはずはありません。」
入口からクライマックス級の真理が来てしまった。これは合評でもポートフォリオレビューでも絶えず問いかけられる真理。いや、制作・創作に関わるいかなるときでも問われる真理である。自分の作品について、制作の動機について、作家であろうとする自分について、常に言葉にすることを求められる。「言葉にできないものを作品にしました」「言葉にできないから作品にしました」では済まされない。
言葉は全ての始まりであり、道であり、その先へと超えなくてはならぬ重力圏のようなものである。地球のようだ。
もうクライマックスを迎えてしまったのだが、ここで帰るわけにはいかない。言葉の先にある作品を観ましょう。はい。
◇谷口あずみ《あるモノローグ》
会場には郊外の建物の写真と、詩の朗読でもするかのように冊子を置いた台が立っている。実際、郊外の風景写真を背景に、あるいは郊外の風景に向かって、台と冊子はその土地のネイティブの生い立ちを語ってゆく。
冊子は薄いが、かなりの長文である。二人分の生い立ちがダイアログ形式で収められていて、どちらも記憶に残っている幼少期のところから幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、就職・・・と順を追って語られてゆく。
何も特別な生い立ちや経歴ではない。親子関係、習い事や部活に打ち込んだこと、先生と折り合いが悪かったこと、給食の味が合わなかったこと、等々がアルバムをめくるように続いていく。しかし明確な起承転結があるわけでもない語りの細部にまで触れると、一般的で「普通」な人などいないことに突き当たる。ディテールに独自性(唯一性)が滲むのだ。
何気ない郊外の風景の裏に、人々がいて、それぞれの代え難い人生がある。
二人とも、高校生活までは学校のクラスや年数やカリキュラムといった定型に強く縛られた回想になっていて、ほぼ「学校」の仕組みを語っているに等しかった。それが、大学以降の回想では比較的自分の言葉で、個々人の人生として語っていた。その点が面白かった。
また、自分や過去について語ることは、その時々で受けてきた快・不快の念、傷、喪失を語ることと同義である場合と、逆に困難に挑戦することや、そこで見出された課題について語るのと同義である場合がある。同じ「語り」でもその両者の対比があって興味深かった。人生は言葉から成るのだろうか。それとも出来事が言葉を決めるのだろうか。
小学校から大学を出るまでずっと立命館という人生を読んだ。人はこんなにたくさん生い立ちのことを語れるものかと思った。面白かった。
◇服部亜美《信仰と痕跡》
美術工芸学科の「学長賞」を受賞した作品。部屋の壁2面いっぱいに映像を流し、その向かいにもう1つ小さなモニターを置いて計3面で展開する。見せ方がうまく、受賞も納得の迫力である。
長崎県黒崎地区で隠れキリシタンの帳方(ちょうかた)を務める村上茂則氏を1年間取材して制作された映像で、村上氏の日常や取材への応答で語る言葉、祈りとともに唱え続けられる「オラショ」、地元に遺る信仰の痕跡、という3つの映像で構成される。
帳方とは各地の隠れキリシタン信者組織の代表のことで、水方、聞役との三役体制で地域の信仰を守ってきた。「オラショ」はラテン語の「orasio(オラシオ)」が語源で、対話や祈り、祈祷といった意味がある。キリスト教は幕府により禁じられていたため、オラショの多くは堂々と唱えるものではなく、また、口伝で継承されてきた。そのため言葉の意味よりも。音として聴いて唱えること自体に意義があり、呪文と歌のような性質がある。
本作にはそうした「オラショ」の特徴がよく表れている。後継者の話題になって、村上氏がこれまで暗記し暗証してきたようには同じことは出来ないと語る男性。一定のリズムと音階で言葉を唱え続ける村上氏。何度も何度も繰り返される同じフレーズ。階段を一段上がってまた一段下りるように上下する音階。甲高い子供のはしゃぎ声、盛夏の蝉の鳴きしきる声、水のしたたる音などに合わさる不明瞭なしわがれ声のリフレイン。デウス、マリアというキーワードが聴き取り不明な言葉の波に浮かんでは消えてを繰り返す。
絶え間なく続けられるオラショが効いたのか、本作を動画で撮って上げるのも何か憚られるものがあり、しかし独特の皴枯れ声とフラットなトーンと音階にすっかり魅入られてしまった。YouTubeに、村上氏が祭事でオラショを唱える場面をupしている方がいたので引用させていただく。このリフレインは病み付きになりそうだ。
肝心のオラショの音声が小さく、インタビュー、日常会話の音量に押し負けて聞き取りづらかった点は、逆に意図的にそうしたとしか思えなかった。元々が、お上にばれぬよう不明瞭に高速で呟く、念仏に擬態した祈りの言葉であるなら、それがくっきりと優位に流されるのも本来的ではないということにはなる。尤も、音量を上げても何を唱えているのか判別できないだろうので、それはそれで集中してトランスに導かれたいという思いはある。
あと、3番めの映像:地元に遺る信仰の痕跡は、背後の床に置かれた一際小さなモニターで流れていたので、展示空間としてはうまくまとまっていたが、眼前の大きな2面の映像に意識と時間を割いていたためそちらを見る暇が全く無く、勿体なかった。3つとも同じサイズで壁面に展開し、等価に見せる方が活きそうであった。
興味深いテーマについて、飽きさせずに見せる力を持った作品だった。
◆【京都トリエンナーレ2023】大澤一太、柯琳琳、船越晴稀
一方で目を引いたのが、謎企画「京都トリエンナーレ2023」だ。
たいへんに尤もらしく、いかにもちゃんとした芸術祭のようなタイトルだが、館内に入ってサークル案内などの掲示板でこれを見た時に何とも言えない脱力を感じた。なんだこれは。
いかにも怪しい。ガタガタのフォントが完全に誘っている。
「入場料:遊び心」とあるが、企画のテーマ名も「遊び心」と読める。
この高齢男性ホームレス風の人物写真はどうだ。完全に誘っている。誘いに乗らないわけにはいかない。
だが何の根拠もなく遊んでいる訳ではなさそうだ。1972年に京都市が「京都アンデパンダン」と同時並行で催したのが「京都ビエンナーレ」で、2回ほど開催されたという。本企画がどこまでそれらを意識しているのか不明だが、京都が戦後の現代美術の舞台となっていたことを思うと、より面白いかもしれない。
しかし私、不運なことに、「人間館A棟」1F「ギャルリ・オーブ」あたりは様々な展示物がそこいらじゅうにあったため、この企画の「受付」なるものがビーナス像付近にあったことに気付かなかった。くああ。しくったあああ。
「京都トリエンナーレ2023」キュレーターを務めたrajiogoogoo氏のTwitter投稿写真によると、キャンパス内の実に23カ所に展示が散りばめられていたようだ。くあああ。しくったああああああ。
(><)しくじりにより、「人間館C棟」と「未来館」しか回ってないので、展示3点しか遭遇できなかった。23分の3。達成率13%。ひどい。圧倒的な負け戦、赤点である。追試だ。
なのでこれから修了展に行く皆さんはギャルリ・オーブのヴィーナス像のあたりまで行って受付でMAPもらってから回るようにしましょう。
インスタを見つけたが、徐々に展示状況をアップしていく模様。
https://www.instagram.com/kyototriennale/
「作品の展示」というよりゲリラ的なパフォーマンスに近い。私が出会った3作品も、展示室内で丁重に扱われているのではなく、通路に面した共用部などを借用(闖入?)していた。なお、写真・映像コースと直接には関係せず、様々な作品があるようだ。
◇大澤一太「人差し指をぶつけた噺」
「未来館」へ向かう坂道のあたりで遭遇。大きな写真パネルが置いてある。異様に迫り出した指の存在感、何をしているのか・何を握っているのか全く分からないが、妙なメッセージ性があり、ゆえに謎しかない写真である。
だがステートメントには思いのほか真っ当なことが書かれている。この写真はボクシングのVRゲームを夢中でプレイしていた際に傷付いてしまった人差し指であるという。恐らく夢中すぎて何かにぶち当たってしまったのだろう。
つまり、どれだけ私達の意識がVRの世界内へと没入し一体化しても、この身体は物理世界に留まっており、物理的干渉には無防備であること、VR内で超人になろうが無双しようがその無防備な身体からは逃げられないことを物語っているのだという。良い指摘である。
◇柯琳琳(O LamLam)「あったような気がするけど」
「2022年11月18日午前1時半。
一台の車両が横転した。
現在、捜査段階ではあるが交通事故ではないらしい。」
(中略)
「2023年1月23日
事件は解決した。
どうやら車は自分で転んだらしい。」
更には、作者名の下には「つい先週に3日ほどの不法滞在者になった。」とある。
ゆるい不条理演劇でも見ているような作品である。
当然のように、白い枠線で覆われた部分には車の面影も何もない。線が建物の壁面にまで差し掛かっているのが「横転」の立体性を思わせなくもないが、とにかくそこには何もない。
ステートメントの空転した状況説明が奇妙な響きを残す。「解決した」というが、観客は謎の自己完結を見せられ、宙吊りになる。しかも次には作者自身が空転している。だがたった3日でそれも解決しているらしい。ここに不条理な巻き添えがある。面白い。
◇船越晴稀「京都ビエンナーレを1.5倍で再演する」
映画フィルムを伸ばしてそのまま展示したような作品だ。「過去の京都ビエンナーレで出展された野村仁氏の《直立する男》を1.5倍の規模で再作成を試みた。」というが、肝心の《直立する男》が手元、Webでは確認できず、何がどう1.5倍になったかは不明である。
シンプルに、過去のビエンナーレ(2年に1度)が「トリエンナーレ」(3年に1度)へと、会期の間が1.5倍の長さになったことを踏まえ、写真の枚数/映像の尺が1.5倍に引き延ばされているのではないだろうか。
だが雪の積もった山の斜面で、直立していた男が転んでいるこの写真、全くの謎である。尺(枚数)が引き延ばされたり、横一列で前後関係の比較ができなくなったことで、前衛的な美術表現からわけの分からないものへと変質している感がある。
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はい。面白かったですね。
「京都トリエンナーレ」はちゃんと受付からコンプしたかった。。まあこういう取りこぼしも、生の展示の一期一会なライヴ感ということで、面白いものだと思います。どっちみち時間がなかったので、知っていても半分も回れなかっただろうので。
写真・映像コースはまだ続きます。「未来館」1・2階に大量にあるのだ。
うふふ。未来の恐るべき作家らが育ってゆく。
( ´ - ` ) つづく。