nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【ART(概論)】R3.10/16~R4.3/13 「ぎこちない会話への対応策 第三波フェミニズムの視点で」(ゲストキュレーター:長島有里枝)@金沢21世紀美術館

金沢21世紀美術館で同時開催された2つのフェミニズム関連展示のうち、写真家・長島有里枝がゲストキュレーターとして関わった『ぎこちない会話への対応策 第三波フェミニズムの視点で』について鑑賞レポ。

とはいえ、私がフェミニズムに全く無知であることに加え、いつものように個別の作品紹介をしても展示の意図や性格がすんなり理解できる構造ではなかったため、まず図録を紐解き、長島の言葉などからその意図などを読み解いていきたい。

 

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【会期】R3.10/16~R4.3/13

 

 

鑑賞した後の感想は色々とあった。違和感や捉え難さが主だ。普通の展示ならこうも色々と感じなかっただろう。

 

1.展示を観て感じた、捉えどころのなさ

「普通の展示」とは何か。例えば著名なアーティストの回顧展とか、逆に不特定多数を集めたコレクション展、祝祭性や地域性の高いアートイベントなどだ。つまり主に美術や地域の歴史性などを切り口として、新たな課題の抽出や今日的な問題への接続を試みるため、学芸員の手による多方向のバランスが効いて客観性が保たれたもの、と言えるだろうか。科学的なアプローチの展示であり、企画意図と展示作品とがストレートに伝わるもの(伝えようとするもの)とも言える。

 

だが『ぎこちない対話への対応策』はそういう展示ではなかった。

テーマとテキストと展示作品との結び付きの分かりにくさが混乱を招いていて、捉えどころがなかった。「なぜこの作品・作者でフェミニズム展なのか?」が、鑑賞後も分からなかった。

 

要因はこちらの「フェミニズム」に対する無知と警戒心だけではない。

フェミニズムというお題は、企画者らがどう捉えていようが、世間的には強い指向性を持つ。いかに穏健であっても、「フェミニズム」は男性性にまつわる非常に広汎なものへの批判や疑義、見直しを本質とする運動である。批判が「こちら」に向けられていたならよく分かる。だが本展示はタイトルのわりに、一目で「フェミニズム」とは捉え難い内容であった。

それゆえに却って、「正解はない」「暫定的な対応策」と言われても、ちょっと待ってくれ(その括り方で本当に良いのか?)(そんな広い括り方は可能なのか?)(本当の意図は??)と、立ち止まりながら警戒するように見ていかざるを得なかった。

その場では、むしろ「フェミニズム」という括りの限界が示されたのだと解したが、そう結論付けるのは早計でないかと疑い、こうして書きながら咀嚼と消化を遅々と進めているところだ。

 

結論を言えば、展示だけを観ても意図は理解できない。現場には圧倒的に材料が足りない。図録に収められた長島有里枝の長大なテキストをはじめ、池田あゆみ(アシスタントキュレーター)や他の作家らの寄稿や対話録をしつこく読んでいくことで、ようやく、本展示でやろうとしていたことや、その原動力となる思いが何となく分かってくる。

www.akaaka.com

また、同時展開された「FEMINISMS/フェミニズムズ」展と連動していることも考慮し、そちらの展示内容と図録テキストも読み込むとなると、研究者ならいざ知らず、一般の鑑賞者には結構大変な作業である。

 

本稿では、とにかく暫定的に、私自身の展示の読後感を元に、図録のテキストと展示内容を元に、企画者(主に長島有里枝)の意図と、私の間で起きた齟齬と理解・感想について、概論として書き記しておく。

「暫定的に」というのは、私の「フェミニズム」や「長島有里枝」という作家に対する理解や受容が更に進んだり、躊躇ったり、あるいは時代が移ろうことによって、私の言葉が絶えず変化していくだろう、たやすく立場の転向も起きるだろうという、弁明の余地を残すためだ。

 

 

2.二つのフェミニズム展示について

本展示は金沢21世紀美術館キュレーター・高橋律子が、長島有里枝の著作『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』を読んで、第三波フェミニズムを読み解く展覧会の監修を長島に依頼したことに端を発する。

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展示は10名の作家が出展し、分野はまちまちで写真が5名、動画映像が2名、版画・刺繍が1名、オブジェ・インスタレーションが2名。うち男性は4名。

藤岡亜弥の写真、小林耕平のオブジェ群がかなりのスペースを占めていた。

 

また本展と同時に、高橋律子が企画するフェミニズムズ/FEMINISMS」展が近接する展示室で展開された。

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こちらもほぼ同数の9名が参加、写真が1名、動画映像が2名、絵画が2名、彫刻・インスタレーションが4名。うち男性は1名と、構成は少し異なる。

どちらも出展作は、1990年代から2020年代までの作品である。

ちなみに分量としては、この2つ合わせてちょうど内藤礼『うつしあう創造』展(2020)と同じ展示室数になる。だが密度と情報量があり、趣旨も切り替わるので、やはり展示2つ分のボリューム感があった。

 

 

この2つの展示は大きな意味で目的意識を共有している。90年代以降の日本における第三波フェミニズムを読み解きつつ、これまで「フェミニスト」を自認していなかった作家にも接続することで、より広く多様な表現・スタンス・生き方を――それこそ「女性のため」というジェンダー的な枠組みにすら囚われない領域へ「フェミニズム」を拡張することだ。

 

作家/作品がだが両者の立ち位置と手法は異なる。高橋律子「フェミニズムズ」展はまさに現代美術の学芸員らしく、「性」の制度や自認、身体、表象を問う作家/作品を各分野からバランスよく招聘しており、各種の知識がなくても展示を回れば各作家の問題意識が理解でき、受け手も意図に沿ってストレートに理解ができる。

これは元々、フェミニズム的な問題意識から活動し制作した(あるいは「フェミニズム」の射程として十分に当たっている)作家/作品を逆算で選出して配しているからに他ならない。

 

対して、長島有里枝「ぎこちない会話への対応策」展は、分かりづらい。

それは何故か? 両者の展示の意図と手順は何が異なるのだろうか。

 

 

3.長島有里枝のキュレーションの意図:共闘の呼びかけ

展示チラシの裏の冒頭には、長島の言葉で、こうある。

ジェンダーバイアスが覆い隠してきた、作品の側面に光を当てたい。』

 

作家セレクトにおいては、活動当時は無自覚だったが、今になって考えれば第三波フェミニズムに該当するのでは、と思われる作家や、長島の独自判断により選ばれた作家もいる。長島の選定基準は以下の3つだ。アシスタントキュレーター:池田あゆみのテキストから引用する。

  1. 生き方がフェミニズムに親和的で、それを軽視したり、その運動を社会から排除しようとしたりしていない。
  2. 作品が表現することやそのコンセプトに、フェミニズム的な効果を持つ側面が見いだせる
  3. フェミニズムの概念を用いた言語的解釈を、私(長島)が与えられる作品である

(「ぎこちない会話への対応策」図録 P181)

 

長島本人の言葉でも、以下のように書かれている。

本展は、第三波フェミニズムの機運が高まった1990年代の日本で、それがアーチストにもたらした影響と、そこから生まれた表現や潮流が、アートの解釈可能性をどのように押し拡げたと言えるのかに関心を置いている。フェミニストと自認するかしないかにかかわらず、フェミニズム的な表現活動をおこなっていたと解釈できる作家をこの潮流の担い手とみなしている。また、この潮流を担ったとは言えないまでも、第三波フェミニズムの考えや実践と親和的で、そこからの影響が見られるとわたしが考え、第三波フェミニズムの視座から新しい解釈を与えうると思う作品もここに含まれている。

(図録 P151)

 

長島によるこのテキストは「(フェミニストで)あるかどうかは問題じゃない」と題されたもので、出展作家の解説も含めて14ページにも及ぶ長文だが、上記のように、まず展示の意図として「自分がフェミニズムと見なしうる作家を呼んでいる」点が他方の『フェニズムズ』展と大きく異なる。その根元にある姿勢は、まさにテキストタイトルの通りで、上記引用文の更に続きにも述べられている。

より多くの人がフェミニズムの思想を「自分にも関係あること」だと捉える契機に、本展がなれば嬉しい。

 

続けて2ページ先には

第三波フェミニズムの担い手には、自身をフェミニストとみなすことに躊躇する女性たちがいた。そのような動きは国内外を問わず指摘されていて、「I am not a feminism, but .......(わたしはフェミニストじゃない、でも……)」というフレーズに象徴されている。

(図録 P152)

と、それと自認しない人達の躊躇や沈黙こそフェミニズムの可能性、もっと言えば参加、共闘の可能性を見い出している。その範疇は性差を問わない。

「男性」作家は、「女性」作家とは異なる美術界を経験してきたかもしれない。アーチストに限らず、男性の多くはフェミニズムを「自分のこと」として認識していない。そのような彼らの認識はまさにI am not a feministだが、あるいはそこが第三波の「わたしはフェミニストじゃない、でも……」という感覚の共通点になりうると、いったん見なしてみる。そのうえで、欠けている「, but.......」を彼らが内面化するのはどのようなときかという問いを立て、これを読み解いていくのはどうだろう。もしかしたらそれは・・・(中略)私が「第三者の当事者性」と呼ぶスタンスで、そのとき彼らはフェミニズム運動の担い手となる。

(図録 P153)

 

言わば、高橋律子の『フェニズムズ』展は、ジェンダーフェミニズムの問題意識のある作家/作品のセレクトによって「フェミニズム」の有効範囲の多様性を「複数形」として客観的に示すのに対し、長島有里枝の『ぎごちない会話』展は、フェミニズム的な意識を持たない・無関係に見えるアーティスト勢、ひいては鑑賞者ら全般に対して、「実はあなたたちもフェミニズムと無関係ではないんだよ」と、当事者であることを指摘し、共闘を呼び掛けている。

 

テキスト冒頭で長島が「わたしたち(長島と高橋)の第三波フェミニズム観は根本的な部分からまったく違っていた」と述べているのもよく分かる。同じテーマを掲げた、一見違いの分からない展示ながら、目的や問題意識が真逆と言っていいほど異なっているのだ。ダブル展示にして大正解だったと思う。

 

 

4.「フェミニズム」で括れないこと、それこそが――

「第三波」のムーブメントに関して、タイトルや図録で何度も言及されている本展示は、長島とその同志達(サバイバー)からの30年越しの返答であり、闘争であり、改めて広く共闘を呼び掛けるものだと考えると合点がいく。ライオット・ガールよろしく、若い女性らが主体的に表現を行い自分の言葉を発すること自体が、そのまま第三波フェミニズムとして接続しうる。

日本の90年代においては長島の言うように、若い女性らは男たちによって搾取されスポイルされていた。それを固定された歴史認識とせずに覆すべく、長島は自分達の活動・表現が実は「フェミニズム」だったという自覚がなかったことを改めて認め、再認識と再評価を懸けた運動を30年越しで呼び掛けている

 

ただし、フェミニズムについて少しながら知識がなければ、そもそもの「第三波フェミニズム」の意味やニュアンス、その課題も分からない。勿論、両展示の図録のテキストにしっかり書いてあるが・・・鑑賞は読書ではないので、そこはどうしても分離する。本展示の分かりにくさには、様々な作品がなぜ「フェミニズム」で括りうるのか、その受け皿となる「第三波」の定義を鑑賞者が持っていないことも大きな要因だろう。

 

これらのことは、特別に深い解釈を行うまでもなく、長島が各作家に参加を呼び掛けたくだりなどを読めばちゃんと書いてあることなのだが、如何せん展示会場とは別のところで、結構な長文を以って、自身の負ってきた苦闘の想い、第三次フェミニズムの歴史、展示セレクトの意図などがうねるように練られているので、すっきりと読解できるところまでにはなかなか至らない。

下手をすると昼飯に海鮮丼を食ったあたりで断念しかねない。関西人にとっては金沢21世紀美術館は「旅行」の領域にすら当たるため、時間をかけた読解は心が折れやすい・・・いや、失礼、言い訳だ。

 

テキストの読み解きに労するだけでなく、各作家にフェミニズムの性質を見い出す動機と着眼点が、あくまで長島の独自のものであり、殊に、フェミニズムの文脈で評価されているわけではない作家/作品をあえて取り上げていることも相まって、本展示に「フェミニズム」を見い出すことが逆に難しくなっていた

 

フェミニズムで括れないフェミニズム展。

各作品の本来持っている表現意図や性質を、いつも通り(=作品本来の意図や目的や文脈から)受容・読解すればするほど、フェミニズム」という運動に収まるものではない、もっと別の領域の言説や可読性に属し、及ぶものであると思わざるを得なかった。

つまり私は「フェミニズム」を感じ取ることが出来なかった。長島の《Self-Portrait》や藤岡亜弥《私は眠らない》すら、そう括ってしまうのは意味を限定しすぎて惜しいように思われた。

 

いかに歴史の問い直しとして、作家ら個人間で連帯を高めようとも、作品それ自体がフェミニズム的な意図:すなわち男性優位社会や暴力性への異議申し立てや抵抗、女性性なるものの規定や抑圧への問い掛け、女性を消費し従属させる構造の指摘・・・といった意図や戦略を、最初から企図して作られていない限り、困難に思われた。素朴に見れば見るほどに。

木村友紀さとうりさはあまり違和感なく「フェミニズム」で読めそうだ。潘逸舟があるなら鷹野隆大はどうなる? 小林耕平《殺・人・兵・器》がこちらの身体と言語を解体してくるパワーはひどく減衰されてしまう。ミヤギフトシのメッセージの複雑さはどうなる。岩根愛の写真が語るのはもっと複雑極まりない人間関係、親子関係、家族という関係、地域、震災とのシークエンス、精神の情景・・・の複合状況ではないのか。

 

作品の多彩さを発揮させるには、やはりそれ相応のテーマタイトルと言説が必要なのではないか。そう思うのは私が無知なアホだからか? 当事者意識が薄いからか? フェミニズムのポテンシャルを知らないからか? 無粋な収奪者なのか? 

これらの多彩さを読み解くに当たっては、作品それぞれが意味を発揮できるよう、それぞれに適する読み方をしながら、現実の出来事や社会状況、時代性に応じて意味を拡張したり共鳴させたりする必要がある。展示タイトルもその一部だ。

 

だが前述の通り、本展示はそれらを多彩なままでと留保しながらも、フェミニズム」の運動へ、言説へと穏やかに(かつパワフルに)回収しようとしている。

フェミニストとの運動としては正しい。運動は運動し続けるから運動なのだ。組合活動やデモが問題を作出しながら永遠の改善を求めるのと同様に、社会主義的運動の愛娘のような姿をしたフェミニズムは、永久に声を上げ続けねばならないという構造的な宿命がある。質は大きく違うがTwitterを一週間も見ていれば実感する。事の大小、善悪を度外視すれば、火を絶やさず、無関係に見える人たちや組織、事象などを対象として巻き込んでいくことが「フェミニズム」の本質であろう。

 

よってフェミニズム」で括れないものをその名の下に呼び掛けたこと自体が、本展示の意義であり、長島の想いであると、私は解釈した。多様で複雑すぎる現代の表現や状況を「フェミニズム」で括るには限界がある、と思うようなことをあえて試みる闘いと連帯が、「フェミニズム」の運動なのだと。個人的にはそれがどうかと評価できるものでもなく、また、それに易々と同調できるものでもないが、そのように解釈はできた。

 

 

5.どうあればよかったのか

あえて私の話をすれば、私は別にフェミニストではなく、フェミニズムと別のところから作品を鑑賞する者である。作品には熱中し熱狂したいが、出来るだけ特定の――ある層に対して批判や闘争を企図する思想からは距離を置いて、作品それ自体の、そもそもの意図や指向性を重視したい。(プチブル(死語!)とでも批判してくれればいい。)

 

本来の思想の批判性から自由になりつつ、出来るだけ長島の想いを汲み取りながら、個々の作品自体の意味を肯定するにはどうすればいいのか。

 

対話である。

本展示の図録には、木村有紀との対談(2021年10月16日、金沢21世紀美術館レクチャーホール)と、小林耕太とのメール対話が掲載されている。これらを読むと、フェミニストでもないその作家がなぜ参加したのか、その経緯を理解できる。

他の作家とも同様に綿密な対話を行い、長島の考える「フェミニズム」の定義との対峙、すり合わせが行われたことだろう。

 

展示で長島のテキスト、特に、他の作家らとの対談・対話の議事録やメール記録も作品の一部として展示していたら、鑑賞の状況は全く違ったはずだ。長島が何を考え、作家らが何に応えて連帯し、本展示が成立しているかを、観客が鑑賞することが出来れば、わけがわからずともコアの部分を共有することが出来たのではないか。

その対話を観客側にも仕掛けていたら、わけがわからずとも「フェミニズム」の連帯は広がったかも知れない。

 

そこはあえて外したのだろうか。

だとすれば非常に重要なポイントということになる。

 

 

6.長島有里枝が戦うもの――取り戻せない歴史に対して

冒頭から本展示の分かりにくさ、捉えどころのなさを中心にして読み解いてきたが、要点を挙げると以下の2点となる。

・作家セレクトが長島の任意(フェミニストとは限らない)

・「第三波フェミニズム」への無知(鑑賞者は知らない)

 

これに加えて、実は直前の項目で触れた、観客への説明・連帯を「外している」点が大きいのではないかと思わざるをえない。

フェミニズム的批判の対象が不透明(鑑賞者ではない) 

こそが、大きな「分かりにくさ」を生じさせているのではないだろうか。

 

本展示と出展作品は「フェミニズム」と題しながら、一般大衆や鑑賞者に代表される特定の層への批判や異議申し立てを明確にしていない。あるいは持っていない。だが本作の図録で長島は明確に批判と異議申し立てを行っている。何に??

 

本来なら、例えば、悪い事例かも知れないが、Twitterを1~2週間もやればフェミニズムなりフェミニストが具体的かつ直接的な批判の争点と対象を持っていることが嫌でも分かる。Twitterでなくても、そもそも現代アートフェミニズムの交わる部分では、家父長制や男性優位社会、月経前症候群PMS)への理解のない社会、夫婦別姓への意識の低い男性・・・等々が代表的な批判対象、標的となっている。それは鑑賞者ともダイレクトに繋がる。

言わばフェミニズム的な現代アートでは、娯楽提供と強者批判とを巧みに同時にこなし、それを新たな「知」へと向かわせようとしている。アートにおける資本主義・消費主義社会、グローバル経済の暴力性への批判と同じ構造かとは思う。

 

本展示では、あるいは長島は、興味深いことに私達鑑賞者:一般民間人(男性)を標的としていないように見える。

強烈に根深いところで怒りを抱えているにも関わらず、それを「こちら」に向けていないのだ。「私」のジェンダーがどちらであれ、内面化された男性性に向けて異議申し立てを行うのが「フェミニズム」であろうところ、長島はそういう戦い方をしていない。

 

その代わりに、図録のテキストで繰り返されるのは、90年代の写真界の状況と、自身が受けてきた痛切な仕打ちである。文脈の一貫性という点では『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトへ』の発展版として読むことが出来る。

 

邪推すれば、長島が本展示を通じて戦っていて、最も撃ち抜きたいと思っているのは、かつて長島自身を含め、若い女性作家らを無理解のまま「女の子」や「天才」として包み、「フェミニズム」という主体性のムーブから遠ざけたところから評価し流通させ消費してきた、権威ある男性たちとそのフォロワー勢、そしてメディアの流通経路と一体化した消費者らに他ならないのかもしれない。

長島の出展作があえてのデビュー作《Self-Portrait》シリーズ(1993)だったのは、そのことを如実に表している。

発表当時、長島とこの作品は「女の子のヘアヌード」として消費され、あるいは無垢で無教養ゆえに元気のある原初的な表現力を持つ「天才」として称賛され消費されてきた。そのことへの長い長い闘争としての展示である。しかし、独りではなく、大勢との連帯によっての異議申し立てである。

 

なぜそんな遠いものと戦うのか。

ある言説によって語られた過去は、「歴史」として決定してしまうからだ。

男性優位の写真家と写真評論家らによって「90年代、女性カメラマンブーム=長島有里枝=女の子写真」として写真史が作られた以上、その歴史は確定され、無かったことにできない。事実として固まってしまう。

だが生きている限り、異議申し立ての運動を継続することはできる。運動は運動である限り継続されるのだ。「フェミニズム」の批判・異議申し立ての運動としての力を用いることで、かつての言説に対して見直しを迫り、歴史が確定されることに抗い、私達の認識を覆そうとするため、長島は明確に戦略として連帯と共闘をもちかけている。

 

一方では、私のように作品を「フェミニズム」とは距離をおいて読み解こうとする動機もある。客観性、科学的立場をというところに引き戻して、作品を読み解き、語るスタンスである。

これが、フェミニズム的なものを無かったことにしてしまうとしたら、どうだろうか。

連帯や闘争を分解したり、霧散させてしまう言説や眼差し。「多様性」を謳いながら、現象学や心理学や量子論や実存や表象やラングやパロールや・・・そういった各専門分野の権威や言説が「女性」らから様々なものを奪ってきたかもしれない歴史のありようもまた、長島が乗り越えようとしている、隠れた対象であるかもしれない。かつて自身を語ってきたもの、無化させたものへの戦いとして。

 

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長々と書いてきたが、私個人の無知と誤読、憶測にすぎない点も目立つ。だが展示の鑑賞で個人的に感じた「捉えがたさ」の正体と、長島有里枝の想いは、一定は掴めたように思う。

 

私はやはり、広汎な問題を扱い、広汎な表現を扱うのに、「フェミニズム」を何にでも当てはめることには抵抗がある。作者/作品のポテンシャルを優先させて受け止めたいためであるが、現代の諸状況、諸問題が「フェミニズム」で語れる枠組みなり問題意識を遥かに超えて大きく、複雑であることを認めざるを得ない。勉強不足だと罵られても良い。状況はそれを超えている。

他方、フェミニズム」の鋭い指摘によって突かねばならない具体的な構造や問題は実に多い。まさに2021年東京五輪の開幕直前、とんでもなく昭和の悪しき部分を凝り固めたような父権的な権力構造と感性が温存されていることがよく分かった。「フェミニズム」は私にとって、よく切れる包丁のようなものに見える。何にでも振り回して良いものではない、だが切るべきものを巧みに切ることが出来る。この認識は牧歌的に過ぎるだろうか?

 

展示の話が私自身の思想的点検になってしまう。これが「フェミニズム」を扱うことの手続きの難しさであり、語りづらさだ。『あいちトリエンナーレ2019』の『表現の不自由展』について書いたときと同じようなハードルを感じる。だがひとまずはこうして、力技ででも書かねばならないと思った。

 

 

( ´ - ` ) 展示物のレポにたどり着けるだろうか。。。

気長にお待ちください。。。