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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展&トークショー】熊谷聖司「瞳を閉じて見る世界」 @T.I.P-72gallery

【写真展&トークショー】熊谷聖司「瞳を閉じて見る世界」@T.I.P-72gallery 

チェキのワイドカメラで撮られた写真をもとに、「夢」の世界が現れた。展示に併せての作家トークショーでは、熊谷氏、72galleryディレクター・鈴木雄二氏に加えて私自身も参加し、この独特な世界をどう現したかの一端をお聴きした。 

 

 

約1時間のトークで語られたことの肝は、熊谷聖司という作家の活動量と活動の幅は実に多彩なれど、本人曰く「すべていっしょ」の一言に尽きるということだった。

 

精力的に撮影し、展示を行い、写真集を編む。その技法も、日常のスナップ撮りであったり、ピントの合っていない写真だったり、青という色を追求したり、そして本展示のようにチェキで得られた像を転化し「夢」の世界を描いたりと、個人の活動としては驚異的な幅を持っている。その全ては「いっしょ」なのだという。

例えば一般的には(特に学校教育では)、作家は一貫性を持ち、集中して1つのテーマに取り組むことが推奨される。だが、熊谷氏は活動の多様さについて「分ける必要は全然ない」と語る。むしろ取り組み中の写真集制作や展示のプロジェクトであっても、状況によってはその手を一旦離して「放置」する。そして別の取り組みを経て、またそのうち戻ってくるといった、自身のスパイラルな経験が語られた。

 

それは作家の内部で、強く息衝いているものがあるから可能なのだ。無数の手法や作業の全ては、ある共通した目的意識、いわばこの世界への接し方、作家としての生き方に貫かれているためだと感じた。

まずひとつは「やりたいこと」をやるべきだというシンプルな想いだ。話の端々には、そのときに自分がやりたいと思ったことをやるしかない、「100%自分で良い」という端的な思いが込められていた。実際、熊谷氏はこれまで多くの「やりたいこと」を込め、実践し、多くの写真集を世に送ってきた。経済的に余裕のない出版界に頼らず、写真集を世に送り出せるようにするため「マルクマ本店」を立ち上げたこともその一環であろう。

 

そして二点目は、一直線に行かないこと。あらゆる予期せぬ迂回路を受け入れ、また、あえて弧を描くように、逸れながら進み、作品を作り、そのように生きていくということだった。

一般的に選び取られる作品制作のあり方は、作家のテーマや主張と、被写体へのアプローチ、その表現・展示方法を無駄なくストレートに繋ぐこと、語るべきことを語るという姿勢だろう。写真史との関係性においても、系譜として自身をできるだけリニアな立ち位置におくというものだ。

熊谷氏は直線的であることを、作家人生の中でどこかの時点から手放し、「そうではないやり方」を選ぶようになったらしい。それは自身の写真から、回り道をする方が向いていることを学んだためだ。作品作りにおいては多くの写真集から着想を得、時には大胆にソール・ライターなど他の作家の作風を実践してみせる。その参照先はその時々で変わる。

 

 

本作《瞳を閉じて見る世界》は、チェキフィルムから得られた像を3種類の方法で作品へと立ち上げている。スキャンし出力したものをパネルにしたり、フィルムカメラで複写したものを、ニカワを塗るなどの工程を経ている。説明を受けなければチェキとは全く想像できず、また普通の写真とも全く異なる。1枚1枚を個別に見ても掴みどころのない、独特の映像である。

着想の元になったのは、映画監督アンドレイ・タルコフスキーが撮ったポラロイドの世界観だという。取り組んでいるうちに、タルコフスキーが現したような詩情深い記憶の景観とは全く異なる作品となった。

 

タイトルに「瞳」という語を用いたのは、これは記憶ではなくあくまで「夢」だからとの理由だという。夢は自由である。自由なので、表現手法も自由であるとのことで、本展示の告知は『もう自分のやりたいように自由に作りました』との一文から始まっている。

 

確かに、「記憶」は自由ではない。そのイメージが指し示す対象や地点は、例え不確かであっても固定されている。その解釈もまた文脈に沿ったものになる。むしろ記憶は人を生涯にわたって縛る引力、時には呪いともなり得るだろう。生理現象としての「夢」も、脳に蓄積された膨大な情報を処理する工程の一つであり、「記憶」と密接である。体感的には、夢を見るときには個々人でほぼパターンが決まっていて、こちらもまるで自由ではない。

本作のイメージ群は、一般的な・生理的な「夢」に比べると、はるかに捕らえどころがなく、参照先となりそうな像もそこには見当たらない。普遍的なようで、身近な日常のようでもある。不確かさと確かさが揺らいでいる。

 

「瞳」という語に込められた「夢」という世界観は、個人的な生理などから離れた、もっと捕らえどころのない映像現象のことを指しているようだ。では、「夢」そのものについて少し考えてみよう。

 

「記憶」と異なり、「夢」は、見ようと思っても「見る」ことが出来ない。それはいつどこで「見る」ことになるのか、誰にも分からない。意識によって「見る」ことは出来ず、なおかつ、夢の中で意識的に「夢」を観察・観測することはほぼ不可能だ(慣れれば出来る可能性もあるか・・・?)。夢は、その完了形の結果についてしか、私たちは語ることはできない。「夢」とは「見えた」「見えてしまった」という現象なのである。更には、果たして昨晩は夢を見たのかどうか、何を見たのかすら、記憶すること、思い出すことも非常に困難である。

 

本作が扱う「夢」とは、本来は「見てしまった」後となる視座を、今ここに現出させようとする試みではないだろうか。それは言葉よりも速くやってきて、言葉より速く去ってしまった後の世界観である。熊谷作品は言葉が及ばない世界を、写真という技法で立ち現すことを試みる。自身の見た夢を再現するのではない。ヒトが日常的に見ている・歴史的にも見続けてきたはずの、しかし意識では関与することができない、言葉以前の視座を、立ち上げようとしているようだ。

その視界はおぼろげさと、強さを兼ね備えている。色や明るさの不鮮明な中で、この世界、日常の景観にある事物の形を、時にはっきりと捕らえ、光を掴んで離さない。かたや、像の形を引き換えに、とろけるような色を掴みなおす。形と色の中で、遠近などの序列の失効した世界が続いていく。言語を確立する以前のヒトは、もしかしてこうした世界を見ていたのかもしれない。

  

 

前回、私は《EACH LITTLE THING》の展示と写真集について不可思議な体験をした。一見、叙情的で言語的にも整った写真群のように見えて、ことごとく言葉がかわされてゆき、目の前にはっきりと見えているのに捕まえることが出来ないという体験であった。それを私は混乱した文章を打ちつけつつ「反・俳句」だと呼んだ。 

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本展示のトークはこのときのご縁があって、呼んでいただいたものである。その場では喋るのに必死だったが、改めてこうして本作について言語化しようとしてみると、やはり、まず言語で触れることは叶わない。熊谷作品は、言葉の通用しない世界について語るということではっきりと共通している。

本来、世界とはそういう姿、何者にもまつろわぬ姿をしているのだろう。生のままの「ライブ」な姿である。

 

そして、ここに書いたこともまた「ライブ感」によって大きく更新される可能性がある。次回、また次回と熊谷作品に接したときに、「夢」の解釈、作品の見え方はまた変容するだろう。逃げ口上のようで申し訳ないが、本稿には正解はない(原理的にありえない)ことを宣言しておこう。現在の熊谷聖司という作家が試みているのはそういうことーー作品によってその都度引き起こされる印象の変容や揺らぎの運動を、鑑賞者個々人それぞれに見せることであるように思えるからだ。 

 

 (・_・)完