nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】第20回写真「1_WALL」@ガーディアン・ガーデン

35歳を超えると出られない、悲しみと嘆きの壁・ワンウォールです。昨今の社会、実年齢と精神年齢の相関なんて上下どちらもあってないようなものなので、見直しされるといいなあと指をくわえています。いますょ。さて、最終審査を待つ作家6名が、鮮やかな文体を見せてくれている。観よう。

 

 

 

 

( ´ - ` ) 見ました。 

短観をしたためます。

 

もう完全に「場」で見せるものだけが残っている。「場」ごと作品とした見せるものの舞台である。ティルマンス的にせよ写真集的な語りにせよ、作家らは展示の割当スペースそれ自体を文法の基礎レイヤーにしている。

平面でありつつ、場を作品とすること。主催・審査員らは、動画映像とも、従来の写真作品(フレームに収めて直列で掲示したり、大きく引き伸ばした作品で観客を没入させたり)とも、現代アート的なもの(現代美術の歴史やプレゼンの応酬を踏まえた知的ゲーム)と異なる、「現在の写真にしかできない文体」を発掘しようとしている気がする。

それは何なのか?   それは可能なのか? 

写真のイメージは恐ろしく弱くて儚い。言葉や枠組みによってあまりに簡単にイメージは変質したり硬化してしまう。それらが持っていることばを別の物に変えてしまう。夢のように儚い。だが夢のように強い。そんな写真の世界を殺さずねじ曲げず、一枚一枚が内在する力を、この日常の場に現すこと。この日常の世界が肉眼で見ている以上に多次元で不可解な世界であったということを現わすこと、多次元の視座を呼び出してここに留めることが、求められているようであった。 

 

石川清以子《The Forgetting Curve》

日常にある輝きや先端、球体、伸びが写し取られている。個々の写真としては切り離されているが、それらは形、質感、動きのシークエンスで繋がり合い、壁面全体で一枚の現実景となって動き出す。

作者はステートメントで、忘れゆくさりげないものに重要性を感じ、写真でならそれらを記憶に留め置けると記している。

誰かの手足とともに、車が端々に写っている。社会におけるもうひとつの身体、拡張された私達の体/無機質な光を帯びた物体。

 

これらは物語の生起を促さない。しっかり・しっとりと撮られているのに、関連し合っているはずのこれらの関係性に該当する言葉が見当たらない。車と植物のカットには佐内正史を、並びのリズム感からはティルマンスを、カラーの少し暖色を射す感じにはエグルストンを仄かに想起する。だがそれらの組み合わせがもたらす印象は、単なる私的な日常を超えている。そして当てはまる言葉が見当たらない。

むしろ作者の「私」は昇華して、写真に写されたモノへと同化しているように感じられる。ほどけた「私」が日常界にある様々なモノへ緩やかに憑依する。これらの写真は、モノをしっかりと撮っているが、一人称からの視線を感じない。

人称不在、作者の私性は昇華し、空気となった作者の身体が、自身のうっすら憑依した被写体に向けてシャッターを切ったような、人称の浮遊感のある世界。「私」を手放した視座から切り取られた「私」の世界は、鮮やかでソリッドだ。 

 

◆野々山裕樹《Sleeping land》

作者は深夜、人工の光の下で都市を撮影している。これらの光景は、勤め人ゆえに発見できた、夜が描き出したオブジェだ。

一息ついて帰路を歩く頃には深夜。勤め人の多くが同じような境遇だろう。仕事の圧や責務から自由になれる場所、言わば都市の夜は、第二・第三の実家みたいなものだ。同時に夜の都市は、ずっと素通りし続けてきた場所でもある。帰りの時刻を切り詰め、歩みを速めれば、夜の都市は全て通過点と化し、実の姿を顧みられることもない。

 

豊かな造形がある。モノクロの作品である。曲がり階段や配管や木は、真昼に撮られたようにはっきりと姿を露わにしている。これは写真だから得られた世界だろう。人工の明かりは強いので、肉眼ではもっと明暗差の効いたシャープな景観だったのではないだろうか。それを、オブジェをコントラストに叩き落さず、丁寧に形として拾い上げている。

やはり曲がり階段の写真がいい。この優美でクラシカルなビジュアルが、写真史上の様々な古典作品との関連を語っているようだ。

 

 

◆王露(Lu Wang)《The glitched》

石川氏と似ていて、日常の断片を特集し、手前へと「面」が重なり、せり出すインスタレーションの形の展示だ。石川氏と王氏の両者は、パッと見では同じように見えるが、内容はまた大きく異なる。

本作は都市にある様々なモノ(街路樹やフェンス、ファサード、植木鉢など)の形態と、それらを取り巻く環境の、視覚上の収まりの良さとおかしさを突く。

遠近法が潰され、モノのすぐ隣に壁面のレイヤーが並び、モノ自体もまた壁面と似た色や材質で、同化する。それらは視界の中で、重なりあいながらも溶け合うことがない。平面のレイヤーの重なり合い、並び合いとして、カオスなはずが、うまく違和感なく収まっている。伊丹豪は風景をレイヤーの文体で取り扱っていた。それをもっと立体物寄りで撮った作品だと感じた。

「glitch」とは、誤作動や故障を意味するとステートメントで説明されている。都市景の中で見つけた、景観の誤作動。ゲーム界では、プログラム上の予期せぬバグ、特に画面上における表示トラブルを指すスラングである。平穏な日常景そのものが実は不穏なバグにまみれているのか、それともこのバグこそが写真表現に特有のものなのか。

写されている一枚一枚の写真は真っ当なスナップである。被写体となったモノと背景、隣接する壁面の関係性、そして隣り合う写真同士の関係性は、どこまでも等価だ。じっと見つめていると、つくづくこれらの都市景は論理的には滅茶苦茶で、絵画的には混沌だが、写真としてはとても収まりが良い。写真の本性として、ズレやノイズを汲み取ることに非常に長けていることが伝わってくる。 

 

◆紺田達也《if god》

『神の存在を知りたくて撮影を始めた。』と、作者は隠れキリシタン信仰のあった島で撮影を行っている。

他の作品群と一線を画して、静謐なドキュメンタリー作品、「写真」の王道のような作品。島の歴史と風土と暮らしを語るものであるが、作者の視点であり、また、島の人の記憶を通した光景でもあるという。

語れること、語りたいことは大量にあったであろう中で、10数枚に絞り込み、限られたスペースで物語を伝えるのは大変だったろうと察する。その物的限界を、島の人が遠くを見やる視座へと置換していて、想像に委ねる方へとバトンタッチしているのがとても上手い。過去を見やるか、地形を見やるか、この先の未来を見やるか。

構成力、物語る力は確かだと感じた。だが、神や隠れキリシタンのことに思い当たるかどうか。ここでは、揺さ振られる・中に入っていける感じがあまりなかった。撮り方自体がフラットでフェアであるためか。写真集、あるいは、作品のサイズや置き方、他のカットの扱い方によっては、鑑賞者が島の歴史や島民の想いに引き込まれる展開も大いにあると思う。ニコンサロンでぜひやってほしい、必ず伝わると思う…。

 

◆シャンテル・リョウ《人間_性》

SM、緊縛を撮りながら、人の性別、性の同一性などについて作者は考えてきたという。

『人間の性は人間性そのものだと思う。少数(マイノリティ)でも多数(マジョリティ)でも、どこが違うのかではなく、どこが同じかを見る風景になるといい。』

作品はいずれも女性の緊縛の写真である。作品だけで何かを読み取ることは難しかった。よく言えば客観的で、言い方を変えれば、こちらから映像の中に入っていける入口が見当たらなかった。意図は理解できる。SMや性について、アダルト動画のような、観客の嗜好に応えるための性的アピールではない、当人らの「生」の話として語ろうというものだ。

 

なぜか映像が遠い。不思議なことに、妙に「遠い」縄と肌と肉だ。「生」の感じがしない。ナン・ゴールディンの写真はどれも消費でもポルノでもないが、「生きている」ことの切実さとエロスと死の気配があった。それが正解と言うわけではないが、何かが欲しい気がする。

消費されまいとする写真家の態度が、緊縛、マイノリティの喜び、サガの在り様を出来るだけ科学的に撮ろうとし、意図的にこちら側の眼の参入を制止しているのだろうか。感情移入やざわめきの喚起が起きず、いつものような私の個人的な「誤読」が弾かれてしまって、そのため特に言えることがなかった。

 

◆平本成海《H30N》

危険な作品である。これはいいぞ。

少々長いが作家ステートメントを引用したい。

 「前頭葉合成研究の権威として知られるオロモウツ医科大学名誉教授のニコラ・ホラー(Nikola Holá)氏が17日、プラハの病院で死去していることがわかった。68歳だった。

 ホラー氏は、サイレントシナプスが受容体に丁ねん失化合する際の回転運動から着想を得て、特定のシナプスのみを効率よくβq化させる「ホラーシグナル」を開発。1989年には、グローブ型の信号伝達器具を用いて前頭葉の神経回路を制御する「ラムタライズ」を考案し、それまで開頭手術が主流だった前頭葉合成の分野を飛躍的に進歩させた。

 昨年12月には政府から女性初のヤルコフスキー勲章を受章したが、頭痛を理由に伝達式を欠席。容態が心配されていた。

 妹のネネ・ホラー(Nene Holá)氏はチェコを代表する画家。葬儀は親族のみで執り行われる。」

 

 

新聞やテレビの報道に用いられているような、事実を事実として伝える文体をしっかりと用いているが、そのセンテンス、単語の一つ一つの全ては、滅茶苦茶である。引用元を持たず、指示する事実を持たない。「虚」の情報である。フェイクニュースならぬイマジナリーニュース。

「ヤルコフスキー」「前頭葉」「シナプス」「オロモウツ」といった語は実在するが、それらが他の言葉と合わさることで、偽りの・虚数のような専門用語となる。しかし情報としての質量はなぜか十分に備えている。それ自体に情報力はないはずなのに。

 

作品は、イメージの断片がばらばらと集められている。一枚ずつを見ようが全体を見ようが、繋がりを見ようが、意味は全く分からない。会場の他の作家らもイメージの群を扱っているが、平本氏の作品とは構造が大きく異なる。比較して見ると、本作は「意味」を巡るメタのドキュメンタリーだということが分かってくる。これらの多数の写真?絵?は、まさにステートメントにあるような虚数的事実を構築しようとする、意味行為(動態)そのもの、「意味」の現在進行形を表わしたものなのだ。

 

作品?である写真? 絵? は奇怪なビジュアルだ。

縦長・白黒の大きな西欧人女性の絵があり、黒いドレスでティアラを付けて階段を下りている。セレモニーのようだがそれにしてはあまりに階段が狭い、家ぐらい狭い。その右肩には二枚の上下反転した女性の写真? 絵? が掲げられ、頭部に他の人の両手指が差し掛かり、脳を直接いじられているような・イメージをイメージが操作しているような不気味さがある。壁面高さ中央の左側には、ティアラの女性の顔のクローズアップ図がカラーになっており、頬の赤味、唇の歪みが不気味である。同じく右側は台紙の上にコラージュめいたイメージを散らし、女性の顔、月、腕時計、宇宙をイメージさせるもの、風景、顔の判然としない人、などがあり、その下には作業机がある。

 

これらのイメージや構成について、その意味・物語を解する力を私は持たない。言語基盤が作者とそもそも違いすぎるのか、作者もまた実は理解不能なのか、それとも作者は理解の前提となる「意味」の源、その生成プロセス自体を問うているのか、である。作業台が置かれ、切り出したイメージが壁に掛けられる手前で床に置かれていることから、作品全体として「作業中」=プロセスとしてのニュアンスが明確に打ち出されていると私は解した。

 

写真作品は通例、並び、構成によって、像が持つ声がことばのようなものとなって聴こえて(浮かび上がって)くるようになるのだが、本作はその声(=意味)が浮かび上がるプロセスを切り出して断面を見せているのではないかと察する。

女性の像はこの世にはいないし、過去にもいなかったはずである、しかしステートメントのテキストが「事実」として生成させた意味世界の中では、周知の事実のように、重要人物として(意味の上では)存在する。

物語ること、記述することによって半ば自動的に立ち上がる「意味」世界、その中で「存在」が手続き的に生まれることを、その動態を可視化しようとしたように思われ、私は非常に心を惹かれ、たまらなく良かった。 

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個人的には平本成海氏《H30N》が痺れた。脳が痺れるような快感、意味世界をえぐってくる力がたまらない。澤田華《Gesture of Rally #1705》《見えないボールの跳ねる音》が、何か分からないビジュアルを巡って「意味」の検証、推論を重ねてゆく、その動態そのものを表わしていたが、それに近いものを感じた(そしてその時も脳が痺れるような快感を感じた)。《H30N》では逆に、与えられたテキストの側から、その構造によって、例えそれが虚構であったとしても「意味」を生成する様子をビジュアルで示した。

ただこれが「写真」として写真史上にどう位置づけられるかという議論、そもそも「写真」という領域で評価すべきかどうかという議論も勿論あるだろう。また、ソーカル事件のように、最初の一発で手口を曝して、次はどうなのかという話もある。

そうした意味では、石川清以子氏《The Forgetting Curve》と王露氏《The glitched》の、非常にストレートな写真を用いつつ、写真と視覚、都市景の関係を議題にしている作品は、「写真」としての評価がしやすいように思う。

 

まあ面白ければ私は何でもいいです。本展示に出品された皆さんの個展を見たい。

( ´ - ` ) 完。