写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】イメージの洞窟 意識の源を探る @東京都写真美術館

【写真展】イメージの洞窟 意識の源を探る @東京都写真美術館

 洞窟の中で、人は自分の認識論と向き合うことになるだろう。

【会期】2019.10/1(火)~11/24(日)

 

洞窟と聞くと著名な西欧の哲学者・各界の学者陣営が「わたしですか?」と列を成しそうな展開ですが、まさにキュレーターのテキストもプラトンの「洞窟の比喩」やエリアーデに触れながらの展示コンセプト。さすがにフロイトが出てこないのが現代的だと思った。あいつ何でも女性とか女体とか言うからな。

 

さてイメージとは何なのかという話があって、非常に日常的なところから大雑把にいうと、我々が記憶の中に抱えている様々な像の混ざり合った集合や断片のこと、また、心理的な働きや作用を受けてそれらが変容したもののことだと思えばいい。よいと思います。しかしそれらは、日々の記憶や精神のハイやローから生まれてくるものだけなのか。いや、もっと広く、人々が時代や国を超えて共有している、もっと大きく深い普遍的な「イメージ」もあるのではないか。それらはどこから作られ、どのように私達の内に在しているのか。その生まれ出ずる場の根源であり象徴が「洞窟」である――こうしたことについて、写真と映像で探る展示という趣旨でした。まあ好き勝手に鑑賞しますけれども。

 

出展作家は6名。いずれも実力者、密度があってかなりじっくり浸れた。どっぷり漬かりましょう。映像の糠漬けですわ。ふうー。以下、印象に残ったものをピックアップしてメモ。

 

志賀理江子《人間の春・私は誰なのか》

2019.3-5月の展示《ヒューマン・スプリング》作品群より提示された1枚。洞窟の中に潜む人間たちがおり、彼らを入口から覗き込んでいる者がおり、その頭越しにフラッシュが焚かれている。画面内は目撃の視線による力で構成されていて、非常に強いのに、それを「見ている」主体は宙吊りになっている。人間は複数名登場するのにその眼は写っておらず、後ろ姿と影が洞窟内に反響するばかりだ。このシーンの目撃者が主体となりそうなものだが、写っているのは頭部のごく一部で、カメラはその状況を頭の少し上から見ている。そしてカメラの主観はフラッシュの当たる頭に打ち消され、洞窟の壁面に頭の巨大な影が広がる。このシーンの主体は大いに散乱する。 

目撃されている洞窟内の人物たちも、光と影で隠され、表情や正体は判別できない。顔面も「×」印か、何かが掛かっていて正体は明かされない。手前の頭部、そして影とともに、この人物たちは、散乱する「私」が出会う、内面に潜むもう一人の「自分」のように見える。出口のない問いと探訪が始まる。

 

志賀理江子なら本テーマに合う作品はたくさんあったろうし、多分メインの作品なのだろうと思っていたが、そこを入口すぐで1枚に留めたことが逆に意表を突かれた。

 

 

◆オサム・ジェームス・中川/《ガマ》《ガマ・闇》《闇》より

本企画の事実上の主役で、「洞窟」というテーマと語感を最も深く力強く体現した作品。部屋の壁面に写真作品《ガマ》《ガマ・闇》が並び、フロア中央には天井から暗く黒い和紙の作品《闇》が吊り下げられ、巨大な暗幕のように展開される。 

「ガマ」とは沖縄にある自然洞窟のことで、太平洋戦争中には天然の防空壕となり、基地となり、生活の場になり、集団自決の場ともなった。また、更に昔からは風葬の場、死者の弔いの場でもあった。現在は観光スポットであったり、歴史の学びのために修学旅行のコースにもなっている。

作品《ガマ》では、洞窟内部の凹凸、広がり、膨らみ、影や色の微細で多様な表情が、1枚1枚の写真に高密度で盛り込まれている。一般的に出回っている洞窟の写真は、観光地として美しくライトアップされているか、あるいは秘境の探検としてライトが闇を切り裂いているかで、あくまで合目的な切り口の一義的な写真である。しかし本作では、洞窟の内部が大きな生命体のように広がり、奥行きを持ち、表情はうねり、作家の存在をも飲み込んでいる。細部の描写が精密であるが故に、また、人の手があまり入っていないために、岩肌のうねりや浮き上がりは夥しく、次第に天地の区別も曖昧になる。だがこの光と闇を帯びた細密な内面は、フィクションではなく現実の場所なのだ。そう思うと、ガマはこちら側・現世と対になる世界としての姿を露わにする。

 

作品《ガマ》の表情の多彩さは、洞窟に刻まれてきた歴史の長さと多彩さの表れに他ならない。ディテールをしっかりと写し出された壁面や地面には様々な発見がある。《♯23》では岩肌に人名と思わしき白い文字が多数書かれている。「照」「徳」「森山英雄」などと刻まれた名は、ここに葬られた人たちの記録なのだろうか。あるいは、《#006》の人骨のような茶色く丸い物体、湾曲した物体。《#012》の、深海の生き物のように赤黒く這う植物の根。そして岩肌が見せる得体の知れない模様群の数々。闇の中は、物理的には現実の「こちら」の世界のはずだが、見れば見るほど、この世とは思えない。

そこには洞窟と人類とのこれまでの歴史が抱かれて眠っている。作家はそれを起こさないよう、眠りについたままの姿で映像化する。主役はあくまで洞窟である。洞窟自体が大きな生命体として、人の生と死を包んでいて、両者の確かな区別はない。風葬の場、防空壕の記憶だけでなく、太古の映像の場であったことも想起される。洞窟は永遠の狭間、言わば冥界として、今生きている者も弔われた者も混ざり合う場となる。

 

《ガマ・闇》では、洞窟内、闇の持つかたち、構造に更に迫るもので、洞窟が闇と相伴った空間であること自体を映像化する。まるで人体の中をMRIで可視化するように、その写真は、徹底的に洞窟の襞を捉える。描写は写真とも精密な絵ともつかない、今までに見たことのないビジョンで提示される。残念ながら、この質感は図録に掲載された写真とも全く異なり、再現は果たされない。「闇」を捉えた写真は、複写や印刷では再現が出来ないのだ。かなり照明を落とした会場の暗がりの中、より一層暗く佇む作品の内からにじり寄ってくる闇、暗部の暗さのコントラストに潜む存在感は、実際に暗い展示空間で体感する以外に語る術がない。

 

本作に特徴的な岩肌、岩の凹凸、陰影の描写は、通常の長時間露光などの撮影では成しえないものだ。作家自身が照らし出した複数の洞窟の姿を、デジタル技術で加工し、一枚の写真として提示している。制作の動機や詳細な手法などについては、インタビュー記事を参照されたい。

<★link>TOP 作家インタビュー

 http://www.topmuseum.jp/contents/new_info/index-3627.html

 

誰もいない不在の壁面・スクリーンを、闇と光を巧みに扱うことによって写真の主役へと立ち上がらせ、無人のうちに人々の営為や過去を語らせるという手法は、アメリカで使われなくなったドライブインシアターを撮った作品シリーズとも共通している。シアターが現代アメリカ社会への問題意識を孕んでいたのに対し、《ガマ》ではその意識の射程距離はかなり遠くて深い。

 

フロア中央に吊り下げられる巨大な闇のテントのごとき《闇》は、洞窟シリーズの集大成だ。洞窟の表情を和紙にインクジェットプリントで印刷したもので、高さは2m以上ある。鑑賞者は、作者が感じ、抽出した《ガマ》の闇の世界に入る。それはもう地形としての洞窟ではない。冥界にいつしか染み込んで、その一部となるのだろう。地上に生まれ落ちた人間たちが、再び彼岸へ戻るために潜る、大人の胎盤だ。

いつしか、《ガマ #001》の画面上部に写る洞窟の入口、青空と雲が、遠くのものに見えてくる。洞窟の外こそが確か「こちら側」の世界だったはずなのだが、作品を巡っている間に逆転していたらしく、光のある青空と雲の方が「あの世」で、洞窟の中が「こちら」に切り替わっていたようだ。鑑賞によって冥界の方に体が引き寄せられていたらしい。骸骨が転がっていようが、戦時中に凄惨をきわめていようが、その闇はどこか優しい。そうして一連の鑑賞を終え、再び生まれ直すような体験をした。不信心な私では、現地を観光客として幾ら探訪しても感じることのない世界観だろう。写真と展示の効果であった。

 

 

◆北野謙《未来の他者》

ジェームスと並んで、本企画の主力作品であることを伺わせる。点数が6点しかないのに、かなりたくさん観たような気になっていた。一枚一枚が縦1,950㎜ × 横1,250㎜もあるためだろうか。

真っ黒な背景の中に、赤ちゃんが赤や白の光体となって浮かんでいる。実に不思議な写真だ。本当に写真なのか。蛙やおたまじゃくしの標本のように、赤ちゃんは無の中に浮いていて、無重力のまま停止している。赤ちゃんには表面の描写がない。指先や髪の毛などの輪郭の細部はきちんと存在するが、写真には不可欠の表面が存在せず、体温だけが浮いているような作品なのだ。 

浮遊する赤ちゃんの正体は、フォトグラムの手法だ。赤ちゃんの姿を外側から撮影したのではなく、赤ちゃんを実際に印画紙に乗せて光を当てることで作られている。そのため、原寸大の赤ちゃんの像が得られることになる。光が直撃する周囲は真っ黒に感光し、赤ちゃんによって光が遮られた部分は像として残る仕組みだ。また、印画紙自体が熱温度によっても反応するためか、サーモグラフィーのような独特の陰影が生じている。

 

この非常に独創的な制作手法について、こちらも作家インタビューで分かりやすく語られているので参照されたい。

<★link>TOP 作家インタビュー

http://www.topmuseum.jp/contents/new_info/index-3628.html

 

同じ《未来の他者》シリーズでも、色や像の重なりが変わると印象も大きく変わる。《N1》から《N3》は漆黒の中に赤く発光する赤ちゃんが浮かび、押し付けられた手の指先、腹部、腿の膨らみが浮遊感に満ちている。この浮遊は「洞窟」に照らして、母胎で漂っている時のイメージなのだろうか、と想像してみたが、それは違う。母胎なら臍帯を通じて様々な栄養や情報が流れ込んでくるだろうから、真っ暗闇で静止しているはずがない。すると、イメージを託された映像というより、逆に私にはもっと科学的なもの、イメージから赤ちゃんの像が自立しているように見えた。

《P8》《P10》ではいっそう科学的に見えた。感光の具合が大きく変わり、背景が白ベースで赤のグラデーションを帯び、赤ちゃんの赤色の像と地続きになる。それは生後間もない赤ちゃんの動きや姿勢を観測し、熱で記録したものとして映った。手、手首、腹部、腿を押し付けて這おうとする動きの記録である。

 

 

◆フィオナ・タン《近い将来からのたより》

動画映像作品で、冒頭のカットが本展示のメイン写真として使われている。それは同展の展示、ジョン・ハーシェル《海辺の断崖にある洞窟、ドーリッシュ、デヴォン》のドローイングに描かれたカットに似た構造をとる。洞窟を背景に、その入り口の縁をフレームと化し、傘を差して海と空を背景に立つ女性を捉えた絵だ。まるで写真を元にしたようなドローイングは1816年、「カメラ・ルシーダ」という技法で得られた像から書き起こしたものだ。ニエプスによるダゲレオタイプの発表は1839年。それ以前から既に人類は写真的な視座を入手し、具体的に形にしようとしていたことが分かる。

フィオナ・タンの映像群はアムステルダム映画博物館のアーカイブから引用した古い映像の群から成る。ファウンドフッテージの技法だ。水にまつわる動画を繋ぎ合わせ、穏やかな凪のイメージは、ヒトが海へ繰り出し、捕鯨を行うなどするが、次第に海が荒れたり、町が洪水に没したり、その中をボートで視察している様子など、ヒトが水に呑まれてゆくような不穏さを湛えて終わってゆく。

個人的には、それらの映像の予言的な意味の解釈までには至らず、はっきりとし難い、何かモヤモヤしたものを抱えながらスクリーンを後にした。しかし、繋ぎ合わされた全く別の映像群(=本来は全く想定されていなかったカット&ペーストなので、意味を持たないはず)から、物語や詩を読み取ろうとする欲求、イメージの総体を掴もうとするこの精神の働きこそが、「イメージ」なるものを形成しているのか。それとも作家の選択と接続が「イメージ」を構築するのか。問いが残った。フィオナ・タンの作品にはいつも翻弄されている。

 

 

ゲルハルト・リヒター/《Museum Visit》など

写真だけから語るのは難しく、また同様に絵画だけから語るのも難しい作家。両方の平面イメージを横断し行き来する。13点の作品は写真に油彩やエナメル塗料を施したものだ。どれも小さな作品で、四辺は10㎝~20㎝程度。

展示品は3種類に分けられる。一つは、写真の一部に油彩の手が伸びてきているが、まだ写真が主となっているもの。《26.6.2016(1)》、《26.6.2016(2)》がそれにあたり、写真と油彩のコラボの様相だ。写真か絵画か、どちらがベースに出来そうだと思いつつ、しかし写真とも絵画ともはっきり分けられないため、どちらで観ようかのジャッジで止まっている自分がいることに気付く。写真の質感は全くの平面で、内部には3次元を引き留めている。対して油彩は色のまだらしか持たない(立体ではない)が、質感としては筆致の盛り上がりがはっきりと出ている。そのぶつかり合いが面白く、厄介な反応を来す。

二つ目は、写真のほぼ全面にエナメル塗料が覆っていて、塗料の隙間から写真を覗き込むもの。《Museum Visit》シリーズの5点が該当する。塗料の奥にはテート・モダンと来場者が写っているが、写真は抽象絵画のごとき「色」に呑まれていて、主題どころか、何が写っているかの確認も覚束ない。作品一枚を平面全体として、抽象絵画として筆致や濃淡を見ればいいのか、辛うじて見えるか見えないかの写真の中にあるものを探すのか。二つの美術史が交錯する中を攻めあぐねることになった。

三つめは、黒く暗い夜だろうか、光源だけが写った写真に油彩が乗ったもの。シダ植物の標本のような筆致、塗料の塗った面を押し付けて剥がしたような赤と白の散り散りの絵の具の付着。これもシンプルに一枚全体での抽象絵画とはならずに、闇の背景が不思議な奥行きをもたらす。写真自体に奥行きは無いにも関わらずだ。

これらの作品の中で、絵画と写真の関係性における遠近をうろついて回る体験は、まだ自分が両者が合わさった状態を一つのものとして認知できないことを意味していた。4次元多面体をすんなりと受け入れられず、立体のできそこないか平面のできそこないにしか見えずに苦慮しているのと似ている。絵画と写真の領域をまたいでそれを一つの世界だと認識できるのはどういう状態だろうか。想像するがイメージがつかない。まだ自分には遠いようだ。

 

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面白かった。洞窟でしたね。自分がどのような認識論から成り立っているかと出会った感があります。これもまた個人差があると思うので、世代によって捉え方は大きく変わるでしょう。身体をアップデートしたいなあ。4歳ぐらいからyoutubeで育ったらどんな「イメージ」を基盤に持つようになるのかなあ。わかりません。洞窟はいいですよね。けどリアル洞窟はカマドウマとかこうもりが苦手です。あいつら生理的にやばい。だいたいカマドウマは(略

 

( ´ - ` ) 完。