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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真展】R2.3/15(日)_尾仲浩二「Faraway Boat」@入江泰吉記念奈良市写真美術館

【写真展】R2.3/15(日)_尾仲浩二「Faraway Boat」@入江泰吉記念奈良市写真美術館

新型コロナ感染の影響が収まらない中、多くの美術館が2/29から様子見での休館に踏み切ったが、3/13、更に休館の延長がアナウンスされた。そんな中でもこの奈良市美術館では平常通りの展示が行われていた。

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 【会期】2020.1/18(土)~4/5(日) 

 

白状すると、写真家「尾仲浩二」の名は常々知ってはいたが、作品をちゃんと観たのは初めてだった。写真についてさんざん書いてきながら、ザルすぎる所業。ほんとこの展示があってよかった。

 

本展示は、新型コロナウイルス禍でトークイベントこそ休止となったものの、展示自体には制限をかけることなく、4/5の会期終了日まで開館していた。この状況下で全国でも珍しいケースだったのではないだろうか。

加えて、本展示は写真撮影OK、かつ、展示作品全てをリストアップしたフルカラーのチラシが配布されるという、ありがたい企画だった。

 

展示構成は以下の通り(会場の展示順、表記はパンフより)

1.2001~2013  Short Trip Again

2.直方1983・Nogata1983

3.Faraway Boat (2019年刊行)

4.海町・Umimachi (2011年刊行)

5.また旅 MATATABI 2015~2019

6.Slow Boat  (2003年刊行)

・あの頃、新宿で(スライドショー) 

 

( ´ - ` ) 旅づくし。

 

初期作品から最新作まで一堂に会し、いずれも「旅」である。 

そう、尾仲浩二とは「旅」の作家。写真自体が旅であり、「旅先で写真を撮る」というより、写真が旅している。 

 

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『Short Trip Again』から開始する長い旅、コーナーごとに区切りはあるものの、展示全体を通じて大きな一つの旅のようにも感じる。終着点や目的のない、移動の中に身を委ねる、旅そのものの時間だ。

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展示は一直線に、1枚ずつ横に並んでいるため、左から右へと向かう1本の線が「旅」の時系列として体験される。

一見するとレトロな「昭和」の風景を愛でているようだが、これを一つながりの「旅」として体験してゆくと、単にそれだけとは言い難くなる。

思わず「昭和」と呼んだ、この隣り合う風景はどこの土地のものだろうか、色味から風土を連想してはみるが、どの都道府県なのかたちまちに得体が知れなくなる。北陸にいたのか、東北の方まで北上したのか、北海道に渡ったか、それとももっと南の県に引き返したのか・・・。実際、南は鹿児島の奄美大島、長崎から、関西の滋賀、和歌山、そして長野、山梨、富山、青森、北海道の小樽・・・など、無数の土地を移動して撮られたものだ。 

編集により、並びは目まぐるしく場所も時間もジャンプしているはずなのだが、見ていて違和感や忙しさは全く感じない。むしろ全体で一連の「旅」として、未知の路地となって繋がってゆく。どんどん曲がりくねった裏道のその奥へと迷い込んでいく快感がある。

 

迷子である。

自ら進んで迷子になることを選んでゆく写真行為には、「今ここ」から「その先」へと向かう運動が宿っている。足の向かう先に眼が惹かれてゆく。どのカットにも「終わり」がないのが特徴で、歩道・路地、車道、鉄道・線路・車窓、船といった具合に、「移動」を意味するものが必ずと言っていいほど写っている。

作者の眼は、旅先の珍肴や風光明媚を愛でるものではない(もちろん旅先での愉しみとして、撮影以外にそういう要素も多いにあろうが)。写真には、「旅」という巨大で形のない生き物が撮られている。フィルム独特の、温もりの灯る色味を宿していることも、体温を一層宿す要因となり、カラーの情報量の多さも含めて、本作は旅先の、あるいは「昭和」の「記録」だけには留まらないものとなっている。

  

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直方1983・Nogata1983』 は一気に時代を遡り、80年代初頭の日本の光景が濃厚に写っている。デビュー作『背高あわだち草』に結びついてゆく。撮影の舞台は生まれ故郷の福岡県直方(のおがた)だ。

街について少し調べてみたが、何ら特別なものはない。写っているのは公園や商店、駅、猫などだ。

 

そう、尾仲作品には、特別なものも、特別な土地も、出来事も、一切出てこない。昨今のコンセプチュアルな作品のように、例えば過去の大きな事件や、戦争など歴史上の出来事の記憶と重ね合わされたりは、しない。土地のドキュメンタリーでもない。あるいは逆にスナップとしての瞬間芸にも傾かない。淡々としつつ、常に漂い、動きを宿している。

 

余談だが、直方市のホームページの、地元出身者で輝いている人を紹介するコーナーに、尾仲浩二が取り上げられている。お洒落なフォトグラファーではなく、ガチンコの写真家を役所が取り上げているのは面白いところだ。

www.city.nogata.fukuoka.jp

  

 

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Faraway Boat』は、写真集としては2019年の発表だが、撮影時期は1983年~1999である。

展示では90年代の作品がほとんどで、沖縄、関西、関東、北海道と実に幅広く、列島全域に及ぶ。そしてここでも各都道府県の特徴は、路地の曲がり角や道の先へと霧消してゆく。旅に生きる作家の眼が、風景を、写真を、「旅」そのものに変えているのだ。

モノクロは色濃く焼き込まれている。会場のスライドショーでも写っている通り、尾仲は自主運営ギャラリー「CAMP」の運営に携わった関係から、森山大道中平卓馬深瀬昌久らと距離が近かった。モノクロの風合いは、そのことを――路上での写真行為に身を染めた写真家らの魂を実感させる。

県境や風土の識別のできなくなった日本各地の風景は、主観の内側からと外側とを行き来する。決して「1枚」では成り立たない。だが組写真のような、フォームも持たない。「移動」としての連続性によって成り立っている。

  

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『海町・Umimachi』は、90年代初頭の東北・三陸側の福島県岩手県宮城県が撮られている。写真集は2011年、東日本大震災のすぐ後に出されたという。こちらもモノクロだが、『Faraway Boat』が画面内の情報量多め、ギシッと「街」の詰まったカオスさと、そのつづら折を通り抜けてゆく「道」の存在が際立っていたのに対し、東北の土地柄がよく出ていて、雰囲気がかなり違う。

土地は平坦で、家や商店、飲食店の並びはゆったりとしている。他の作品と比べると、空と地面がとても広い。それでも土地勘のない私(※関西人です)には、他の都道府県とシャッフルされていても区別はつかないだろうが・・・。

 

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 最終コーナーの『また旅 MATATABI』は2015年~2019年に撮られた最新作だが、同じカラーということもあって、『Short Trip Again』から連なり、広がった旅路として提示される。

『Short ~』と大きく異なる点は、『また旅』では海外の写真が相当数加わっていることだ。青森や奈良、九州などの「昭和」的な風景に、イタリア、韓国、フランス、ポルトガルジョージアが加わっている。

さすがに多国籍に広がり、展示も横+縦展開へと面に広がると、読み方が一変するというか、今までの「旅」の「路地」ではなくなったので、ここでは手に負えなかった。

 

ただ作者が、国内でも国外でも、各地で人ならぬ随伴者を伴っていることがよく分かった。 目的地も、目的そのものもない「旅」を誘う、それぞれの現地のガイド――そして異世界へと誘う存在。それは路上に出没する動物たちである。

どの時期の作品にも、犬や猫が必ず登場する。それらは作者の分身、内面や境遇を反映した存在――孤独な風来坊として、人間側の管理社会には所属しない者の象徴と見ることも大いに可能だ。しかし私には、それらが日常・現実の「地元」から、つづら折りの「旅」の世界へと招き入れる、異世界へのガイドのように感じられた。作者の側にも、訪れた先の地元にもいない、異界の存在だ。

犬・猫に限らず、それは馬や鳥の姿ともなって現れる。このガイドたちとの遭遇によって、尾仲作品は単なる日本の昭和のドキュメンタリーとも、作者の心象光景や「旅情」とも大いに異なる、さまよいの「さすらい」に転じている。 

 

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唯一、『Slow Boatは詩情を全面に出した世界観だった。ひときわ大きなプリントで4枚だけの展開のため、なおさら詩篇のような余韻が心地よい。本当にこのコーナーだけ異質だった。

ちなみに同名の写真集では、1983年から1999年までの旅を88ページで綴っており、展示とかなりニュアンスが異なる。他の展示コーナーと同様に、今ではすっかり失われたであろう「昭和」の風景を、よくぞここまでと思うほど写している。

空を舞う蝶が、ここでは「旅」の異世界へ誘うガイドを務める。妖艶であり、これまた明確な行先のない空中に向かって、あてどなく飛翔する。

 

 

尾仲作品は、「さすらい」である。この一語に尽きる。

80年代から90年代にかけての「さすらい」、迷い込むことを終わらせない路地のような折り畳みの構造、その重ね合わせが、日本列島の全域に及んでいる。それは国家的な、国民全体の目的や目標が達成された後の、高度成長期を完了した80年代以降の日本に重なる雰囲気にも通じる。地方の各地は、昭和の町並みと風土を色濃く残しながらも、これ以上の変化や成長はなさそうな、時の袋小路に到達している。そこからは進まない。路地だけが込み入ってゆく。

実際にはこの後、ゼロ年代以降には、バブル崩壊から立ち直れない「失われた10年」がいつまでも続くことになる。いよいよ日本経済の行き詰まり、世界経済における地位の後退から、地方自治体、公的機関に、すなわち「地方」の末端すみずみまで市場原理が浸透してゆく。それに加え、イオンなどの大規模商業施設が全国の小売業を淘汰していった。同時に、少子高齢化の速度は止まらず、地方は均質化と縮小を続けている。

 

本作にあるような、迷路のような「路地」は今後、本当に稀少なものになってゆくだろう。

撮影時期を、時代と社会の兼ね合いで見ると、尾仲作品には、日ごと失われてゆく「日本」の原風景である「昭和」的なものの、最期の姿が発掘され、焼き付けられているとも言えるだろう。文化人類学、あるいは天然記念物の日本固有種を探し求める行脚になぞらえても面白い。

だが、私には「旅」の異世界へと誘う道・路地の構造、移動のモチーフの連続、そして動物ら「ガイド」のイメージが、これらを単なる昭和憧憬集ではない世界観に引き込んでいるように感じられたのだった。

 

その引き込みの誘いに乗り、意識を手放してふらふらと移動し続けること、それがここで「さすらい」と呼ぶ状態であろう。

 「さすらい」は、合理的な思考や目的意識、理論が湧き上がった途端、幻となって消えてしまう。浅い眠りの中で観る夢のような世界だ。

人は意図的に「さすらう」ことは可能だろうか。目的なく、ただ歩き、乗り、移動し続けてゆくことが出来るだろうか。終わりのない移動、それは低温火傷ランナーズハイのような状態なのだろうか。

とことん見知っているはずの母国の、特に何もない土地を、どこを目指すでもなく、歩き、乗り継いで、移ろいゆく。体を動かしているのは何だろうか。探求心か。いや。動いているのは、体が勝手に動くからか。それとも路上が、路地があるからだろうか。

 

それぞれのカットには、特別なものは何もない。ただただ、淡々と歩き続けている。旅行記でもない。何せ、旅先の名物や観光の話題が一切ないのだから。歩くこと、移動することの可能性と運動性が宿った、「昭和」の風景群。それは、日本列島自体が大きな「路地」であるかのような錯覚へと結びつく。

そう気づくと、現実の日常の光景は、幾重にも折り畳まれた、壮大なフィクション、チープで壮大な舞台へと転化されてゆくようでもある。繰り返される看板、店の名前、ポスターが発する文字情報が拍車を掛ける。ここでは、生活の現場としての奥行きではなく、むしろ生活の実感を離れた、小劇場が連続するようなフィクション性を帯びている。

焼野原から60年、70年かけて、昭和という時代を経て組み上げた、舞台仕掛け、一つの大きな「路地」と化した「日本」が暴かれているのかも知れない。それは、日本の地方都市の本質なのか、それとも、森山や中平らの文体から尾仲が受け継いだバトンによるものなのか――。

 

 

新型コロナ禍により、移動や人との接触を厳しく制限される時期において、「旅」そのものとしての写真世界を堪能できた。

 

 

( ´ - ` ) 完。