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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【映画】R2.3/13(金)「PRISON CIRCLE」(プリズン・サークル)@第七藝術劇場

【映画】R2.3/13(金)「PRISON CIRCLE」(プリズン・サークル)@第七藝術劇場

 

坂上香監督、日本の刑務所内に映画のカメラが入ったという前代未聞の作品。交渉に6年、撮影に2年を要した、稀有なドキュメンタリー作品だ。

 

以下、鑑賞メモ。

 

 


映画『プリズン・サークル』予告編

 

1.舞台―刑務所

舞台は「島根あさひ社会復帰促進センターという男子刑務所だ。名称だけなら刑務所とも思わないかも知れない。それもそのはず、官民協働(PFI方式=Private Finance Initiative、民間資金等活用方式)によって設置(2008年10月)・運営される、新しい形態の刑務所である。日本では「島根あさひ」を含めて4ヶ所がPFI方式を採っている。

他の刑務所についてはWebページすらなく、法務省のページからPDFで住所や電話番号といった最低限の情報だけが提示されるだけだが、このセンターは自前のホームページで情報公開を行っている。今時、施設の紹介ページぐらいあるのが普通だが、それすら無い。ただそれだけのことをとってみても、日本の刑務所・拘置所の中では非常に珍しい施設であることが分かる。 

www.shimaneasahi-rpc.go.jp

 

施設内の空間や設備、受刑者の服装が明るく、懲罰のための隔離施設というより、フラットな作業所、入所施設という印象がするのも、経営の根っこの部分が異なるためだろう。受刑者の懲罰色が薄く、より「人間扱い」されている感じがした。また、省力化も図られており、部屋の鍵の開閉や食事の運搬は自動化されている。ちなみにそんな民間色を帯びた施設でも、刑務所は刑務所。取材が認められるか否かは着任する所長次第だったようで、パンフレットの監督インタビューでは苦労が伺えた。

 

別件で、大阪刑務所の内部を取材した報道番組の映像をyoutubeで見つけたが、こちらはいわゆる、イメージ通りの「刑務所」で、まあ普通はこうだろうなと実感する。ただ、動画で確認すると思っていたよりも施設内はフラットで、近代的だ。ただ、入所者が頻繁に不規則な言動を発するようで、動画内ではしょっちゅう警報が鳴り、刑務官が駆け付けている。 


大阪刑務所 処遇困難者!

  

2.「TC」

さて映画の中身だが、136分、序章と最終章を合わせて全11章のパートから構成される。その大半は施設内の生活の様子で、4名の受刑者を追い、インタビューを織り交ぜていく。

本作で特に密着しているのが「TC」(Therapeutic Community、回復共同体)という教育プログラムだ。初耳だったが、アメリカから導入されたもので、全国の刑務所の中でも本施設でしか行われていない。

期間は半年~約2年、週に12時間ほどのプログラムで、希望者の中で特に認められた者だけが参加できる。が、その枠は約40名。本施設の最大収容人数が2,000名、全国の受刑者が約40,000名(統計データでは拘置所・刑務所合わせた収容者数が約51,700名)。受けられる対象が極端に限られている。

 

およそ1/1000。この割合が、本作を観ていて感じた素朴な疑問と行きつ戻りつする。

本作で密着する「TC」では、ひたすら自己分析からのプレゼンテーション、グループワーク、実施後の振り返り、その繰り返しを行う。つまり言語化の作業が徹底的に繰り返される。しかもそこで、考え、問い、語ることになるのは、参加者個々人の過去だ。封印していた辛い記憶、痛みや苦しみ、犯行時の記憶、経緯、動機、そして受刑後の意識、罪の意識について、向き合っていく作業が続く。

映画ではこの「向き合い」が淡々と付かず離れずの距離から映し出される。普通の思い出なら1,2時間も語ればそれで充分だろう。だがホワイトボードやプリントには度々、幼少期のことが書き出されている。果てしない道のりだ。

 

 

3.「TC」参加者たち

こんなへヴィ極まりないテーマについての言語化に、受刑者らが真剣に取り組み続けていることが、最後まで驚きだった。多くの人にとっても、大学生、就活生、あるいは職場の研修で、プレゼンとグループワークはお馴染みだとは思うが、こんなヘヴィな題材で言語化を強いられた経験は、作家でもない限り、まずないだろう。

モザイクが掛かっているので分からないが、受刑者らは若い。20~30代が主だろうか。だが若いとは言え、人格はもう固まってしまった後だ。ツノの形が固まった後のカブトムシのようなものだ。それを「TC」プログラムによって、過去の親子関係、周囲との関係、記憶を辿っては書き表し、発表し、言語化し、卵や幼虫だった頃へと疑似的に戻しながら、ゆがみや欠落の大元を紐解いてゆく。容易な作業ではない。傍から見ていて、終わりのなさを感じた。それは私自身が社会人になってから写真・映像系のスクールに通うようになって、作品制作とプレゼン、そして批評・指導から再検討、という、似たような作業のサイクルを繰り返しているので、よく分かる。凝り固まってからの世界観や感性の修正は極めて困難だ。

 

率直に、正直言って、精神的な底力、地頭の良さがなければ、身がもたないと思う。「TC」参加者は「受刑者」の中でも相当に選び抜かれた人達なのではないだろうか。それがあの割合でもあるのではないか。つまり、一般的な受刑者像とは、必ずしも一致しない可能性もあるかもしれない。むしろ引用したYouTubeの大阪刑務所の方がイメージに合う。

「TC」実施率の驚くべき低さには、もう1つの要因として専門職の人手、予算の問題の方が大きいだろう。プログラムの適切な進め方を会得し、困難な言語化を支援するには、特別なスキルが必要だろう。「島根あさひ」設置当初から「TC」が開始されていたとすれば、約10年もの間、この日本では広まることなく、年間40人しか受けられない状態が続いてきたことになる。その根底には、「刑」「罰」についての社会の考え方がそもそも、「TC」の取り組みとは真逆であるという仮説も想像できる。刑務所の制度、概念として、「TC」は受け容れ難いという風土である。

 

だがこの言語化の格闘のおかげで、彼ら「受刑者」が、「私たち」非受刑者とは根本的に異なる部分を有している/欠落していることも見えてきた。

彼らが幼少期に安定した親子関係、家庭、居場所、信頼関係、自他関係、等々を構築する機会を大いに奪われ、損なわれていることが、嫌というほど分かる。むしろ「TC」のプログラムが効果を発揮する対象として、そういった共通項を持つ受刑者を選出している可能性もあるだろう。ともかく、幼少期に受けた不遇、暴言・暴力、無視、裏切り、疎外・・・その頻度の日常的たること、半端でなく、終わりもない。「そない言うても、彼らかて、どこかの点で私らと共通項が・・・」と軽く考えていたが、甘かった。決定的に前提が、違う。彼らの中で封印されていた記憶を言葉で引き出すことに「TC」及び本作は多くの時間を割く。

 

なお、本作の大きな特徴として、記憶の述懐シーンでは、砂絵のアニメーションが用いられる。若見ありさ氏の手掛けるこの描画は、独特の柔らかさ、朦朧を帯びていて、観る側に追憶を疑似体験させる。TVの報道・ドキュメンタリー番組であれば、再現Vを制作したり、過去の写真を使っただろう。登場人物の顔が皆、モザイクで隠された本作では、次々に形が移ろいゆく砂絵の匿名性がとてもマッチしていた。

 

しかし彼らの心身のベースは普通の人間だ。超人でも怪物でもない。人間扱いされてこなかった「人間」が、ヒトの社会で生きることを強いられた時、何が起きるのか。その恐るべき、そして必然的な結果の一部を「受刑者」という形で見ているのかも知れない。エンドロールの最後のテロップで、暴力への反対を改めて表明している理由が分かった気がする。暴力は人間に、埋めようのない傷を与える。暴力の種類は幅広い。作中でも「暴力とは何だと思うか?」について発言を求めるシーンがあった。暴力により傷付けられ、奪われた人間は、何かを損なったままでその後を生き続けることになる。中には救われ、犯罪とは無縁に生きていく者もいる。一度の過ちで済む者もいる。だが・・・。

 

4.環境

結論を言えば、環境だ。

本作が最も確かに語っていたのは、人間にとっての環境の重要性である。 

 

「TC」で言語化を促すのは、専門の技術を持ったスタッフであるとともに、終わりのない語りを受け容れ、聴きに徹する、同じ参加者らである。「TC」が成立し、好循環しているのは、本人の言語化能力だけではない。傾聴の姿勢を取り、目の前の人間を「1人」の人間、対等な存在として受け止める参加者全員の力、つまり「環境」の力が最も大きい。それがあるから、参加者は言語化が可能になる。

映画内ではしばしば、参加者自らがホワイトボードの前に立ち、スタッフのようにレクチャーを行ったり、司会進行を行う場面がある。立場を変えること、発言と傾聴の「場」を作ることを、実践を通じて教育していることが分かる。スクール、講義形式と異なり、手間と時間がかかるが、効果は段違いに高いだろう。自主性、主体性に勝るものはない。

 

もちろんこの「TC」プログラムの更なる開発によって、例えば参加のステージを更に初級者向けに設定したり、敷居を低くするなどの工夫によって、もっと広く普及させることは可能だろう。予算と人が付けば。そういう形の「刑」と「罰」の在り方を認めれば。

どうしてもifの条件付きでの話になる。

日本には科学的な教育、育成の発想がない。奪う方向、「閉じ込めて反省させろ」「出てきたら再犯するから隔離しておけ」という感性が一般的なのではないか。アンケートを取ったわけではないので根拠はないが、日々、犯罪・逮捕・有罪判決の報に触れて見聞きする民の感想はそういうものだ。

 

後先は考えない。

後先を考えないことによって「世間」、この社会は回っているところがある。勿論、表向きは計画を立案したり、何か起きた際には反応し憂慮する。が、多くは断続的で、感情的な反応で終わる。重要なのは「周りの」「気持ち」だ。気持ちには基本的に「今」しかない。海外での生活経験がないので比較ができないが、この国では世間、社会が科学というよりも「気持ち」、時間軸の尺、特に前へと向かう長さを持たない感性によって回っていることは、「刑」と「罰」の在り方にも効いているところではないだろうか。

 

それは、加害者、そして被害者には「後先」が永続的に付きまとうことと、根本的に相反する。当事者と社会は断絶する。このギャップが「受刑者」のその後の生活を困難なものにしていることを感じた。ひいては、彼らが犯罪を犯すに至った「それまで」の孤立、断絶とも関連しているのかもしれない。

一般的な刑務所に期待される機能と目的は、刑期の間、問題を起こさず、監視と管理に満ちた生活を「勤め」上げることだけのように見える。誰が定義したのか分からないが、その辛い日々を送ることが罰であり、矯正であり、反省ということに、事実上、なっている。後先のない閉塞した生活は古典的な「地獄」の罰の寓話とも重なる。だが受刑者はあの世の死者ではない。この社会に今、生きている「人間」である。

 

人間扱いされてこなかった人たちを、1人の人間として認め合う場を維持できるかどうかが、その後の再犯率にも関わってくる。本作では「TC」の取り組みだけでなく、出所後の、元TC在籍者の交流会の様子も紹介される。環境が人の在り様を決めることがよく分かるシーンだった。娑婆の服を着て、くだけた姿勢と言葉で振る舞う彼らの姿に、「犯罪(者)」の気配は感じ取れない。

だが一方で、いつ自分達がまた過去と同じことを繰り返すかもという危険性を共有していることが伝わるシーンがあった。刑期を終えても社会復帰できるわけではなく、状況は苦しいためだ。それでも、「元TC」という繋がりがあれば、その苦しみを言語化し、共有し、自分を客観視できる。私は断酒会やAA、ダルクを思い浮かべた。今はblogやエッセイ漫画などで、依存症の本人、パートナーなどが自ら発信することが実に多くなったので、より当事者側の実情が分かるようになってきたことも関連している。人の在り様を決めるのは、環境だ。救われるかどうかは、環境が全てだ。「TC」がその構築に強力に資する取り組みだということは、本作を観れば一目瞭然だ。

   

5.罪と罰

環境の重要性が大いに分かったので、本作は全国の法務関係者が参考にし、使えると思えば積極的に取り入れれば良いと思う(そう思ってくれないと困るのだが)。そのためには専門的スキルのあるスタッフの育成と確保が必要になるのでまた別のハードルもあろうが、制度により解決できるだろう。解決できていないしその見通しもないが、理屈の上では解決が可能だろう。

 

私は映像を見ながら、もう一つのことを考えていた。

罪と罰のことだ。

 

先ほどから、この国の価値観――閉じ込めて監視と管理を徹底し、先行きを奪うことが「罰」の概念として何となく敷衍している、ということを言ってきたが、本作で受刑者に見たのは、それとは全く異質なものだった。

それは自身の犯罪について、行為の前後や、その時の気持ち、原点にある自身の生い立ち、申し訳ないという感情の有無、何を申し訳ないと思うか、なぜそう思うか・・・そうしたあらゆる事柄を言語化しようと模索し、繰り返す行為そのものに、あった。ある個人が、自分の生活を懸けて「向き合う」ことの中に、見えたものだった。

 

まだ確かな言葉として掴めるところにまでは至っていない。

プログラムの中には、グループで被害者役を設定し、自分の事件について被害者から問いを受けるシミュレーションもあった。そのやり取りを観ていて、こちらが緊張した。言語化できるのか。言葉で答えてもそれは答えになるのか。答えはあるのか。だが「言語化できません」では済まされない。「裁判はもう終わりましたけど?」では済まされない。無論、多くの犯罪者はそう言い切って、割り切ってみせるのだろう。しかしいつかは、いや犯罪を犯した瞬間から、「犯罪者」にはその言語化の責任が宿るのだ。被害者本人や遺族に対して、受け答えをしなければならないという責任が。

受刑者らは反省の念を述べる。その言葉について問われる。あくまでグループワークなので罵倒や激昂はない。だがシビアな想定問答が続く。言葉に出来ないことを言葉にすること、その作業に「罪を償う」ことの実体を見た思いがする。残りの人生、心身を、自分が犯した罪のために捧げるのだ。

 

すいませんでしたと謝る、心の底から謝る、言葉の出ない所まで謝る、仏壇に手を合わせる、毎年通う、など、「罰」からの「謝罪」のフォーマットは概ね決まっているように思われる。だがほとんどの場合、私たちはそれを報道やドラマなどで外側から観測することしかできない。加害者と被害者の内部でどのような往還があったのか、加害者自身がどのような「罰」を経て、「罪」を償ったのかは、実のところ何も知らない。本作が現場の密着によって切り込んだ最大のテーマは、「罪を償う」とは一体どういうことなのか、そのアンタッチャブルな領域に踏み込んでいることではないだろうか。

 

それは日日の暮らしにおける管理・規則・制限の厳しさから生じるものではない。長期服役、無期懲役の先行きのなさに絶望したり、死刑の執行に怯える囚人からは、絶対に見えてこない。本作及び「TC」が認める「償い」とは、先行きのある「営み」だからだ。それは従来の懲罰が根底から否定し、奪う対象だ。

 

では、ある個人の「償い」という営みが、「罪」を浄化、あるいは無化してゆくのは、何によって成されるのか。それが当人の個人的な納得を超えてゆくのは、どこからなのか。

 

これについては、私の言語化がまだ及ばないので、ここでは割愛する。「TC」での言語化に取り組み続ける受刑者の姿に、何かを見たのは確かだった。この問いは多くの文学、哲学にも通じていくことと期待している。

 

 

( ´ - ` ) 完。