写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生・TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【写真展】R2.5/30(土)_山下豊「サクラカラー」@The Third Gallery Aya

【会期】2020.4/4(土)~6/6(土)

桜、花見の写真であるから、どうしても今年の春、そして昨年までの春を思い出すことになり、写真を通じて「今」の空白を見ることになったのだった。

 

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穏やかな色調で、桜のある光景が淡々と続く。日本と桜の写真といえば東松照明だが、本作はそれらよりずっとマイルドに、「桜に集まる私達」のゆるい繋がりのようなものを捉えている。

 

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昨年までの3月末から4月上旬にかけてのことを思い起こしていた。私達は毎年飽きもせず、花見に行き、花の下で酒盛りをし、桜を眺め、桜の写真を撮り、桜の写真がタイムラインに押し寄せてくるのを眺め、桜の写真に触発されて地元の桜並木を歩きに行く。そんな毎年を繰り返してきた。

 

今年の春は違っていた。大きく違っていて、桜の下には誰もいなかった。桜に集まることが出来なかった。桜を見に行くこと自体が非難を受ける恐れすらあった。私達はいつしかお互いを監視し合っていて、それは地元の人というより場所と時間を越えて遠隔で――TVとTwitterの話題を監視し、花見に行って賑々しくはしゃいでいる(とされる)人に対して、「感染リスクだ」「不謹慎だ」と非難を浴びせる心の準備が、いつの間にか・既に・出来上がっていた。見えない状況と見えない病原体に対する混乱が、安倍昭恵・首相夫人の「花見ではしゃぐ写真」に対する民の疑問や憤りを呼び、それは「桜を見る会」の疑惑の記憶の揺り戻しや、森友学園問題で自殺した元財務相職員の妻の手記の公開(週刊文春)などと相まって、「桜」や「花見」という記号を例年とはまた別のニュアンスへと転換した。

ともあれ、今年の「花見」は本当の非日常となった。感染症が開けた時間の空白は、文化・慣習の空白となったのだ。

 

4月頭の関西は幸運にも、東京や北海道に比べると感染者数の伸びが限定的で、2軒のライブハウスのクラスターは存在していたものの、経路不明の感染に怯えるまでには至らず、まだ民衆の間には「屋外で距離を開けていればいいよね」という、互いに許し合うムードの方が強かった。

大阪の桜の名所・毛馬桜ノ宮公園では、例年のようにシートを敷いて宴席が地面を埋め尽くす光景はなく、ほぼノーシートで、それだけでも十分に非日常、異常事態だったのだが、散歩・ジョギング、デートをする人達がそれなりの数で往来していた。混雑とまではいかないが、閑散ともしておらず、新型コロナ禍の序曲にふさわしい形での、したたかで形のない「花見」があった。

それが、2020年の春、桜であった。

 

 

本作は2016年頃、作者が住み慣れた大阪から、父親の故郷である高知へ居を移す頃に撮られたものだ。ロケーションはまさに大阪、京都あたり、いくつかは見覚えのある場所だった。

私が唐突に今年の4月のことを語り出したのは、まさに会場で写真を見た際に生じた反応をそのまま文章化したらこうなったということだ。花見の写真を見ることで、「昨年までは、こうだった」と、時間の空白、空隙を見ていたのである。

都道府県首長の掲げるウィズコロナなるものを標語として、2020年3月あたりを境目とした新しいフェーズを私達は生きているが、好き好んでそうしたわけではなく、そしてそれがいつまで続くのかよく分からない。「新しい生活様式」が曖昧に、無期限で繰延べされてゆくだろう予感もある。次回の「桜」もまた、その帯域に組み込まれるのだろうか。

 

写真では、その場に居る人達がどことなくほんのり浮かれているのが分かる。何をするでもなく、シートを敷いて座っていて、無防備な背を晒している。桜を背景に神妙な顔で、セルフィーを真面目に撮っている中国人観光客とおぼしき二人組は、象徴的だ。どの場、どのカットにも、桜がもたらす多幸感が存分に効いている。

 

だが、先述の通り、本作品に写された桜の樹、桜を取り巻く民衆、桜と共にある街の姿は、作者の当初の思惑やテーマとは全く別のものを観客に見せる結果となったと思う。それは遠近感を現すものとして機能する。観客それぞれが、今年・令和2年という空白の時間をそこに見い出し、「今まで」との遠近を辿ることになるだろう。

 

その要因の一つとして、本作は「美」の写真ではないことが挙げられる。

「桜」の美――ひいては「美しいニッポン」的なものを礼賛するものではなく、桜を取り巻く状況自体を撮っている。そこには花見を楽しむ民衆としての「私達」も含まれている。ゆえに、見る側にとっては我が事――自分も写真に写った登場人物らの一人としてカウントし得るのである。よって、私達は翻って写真から自分の記憶を照合し始めるのだろう。今回はそれが空隙を指すことになる。

 

かたや、墓地の傍らに咲く桜の写真は、とてもしっくりくる。「しっくり」とは、空白のない、連続していることを意味する。それは死後の時間軸に近く、現世の出来事、疫学・衛生を巡る社会情勢に左右されない光景である。たとえ私達が今後、新型コロナ流行の第2波・第3波でより厳しい自粛生活に閉ざされ、SNSとTVに煽情されて消耗し尽くしてしまった中でも、無人の春の片隅で桜は咲いているのだろう。そのようなことを想像した。

 

私達と共にある桜、私達とは無縁にある桜を巡る写真であった。

 

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( ´ - ` ) 完。