写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生・TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【WS】R2.5/19(火)Manabi-"remote" Bar 写真夜話(パイロット版)_店主:吉川直哉 @BLOOM GALLERY

R2.5/19(火)Manabi-"remote" Bar

 

人生2回目となるZoomで写真のレクチャー聴講。いまだに使い方があやうい私は変なところを触って何度も消しそうになりました。あぶねえ。マイクもカメラも付いてないんだよな。

 

今回はBLOOM GALLERY企画、ギャラリーオーナー窪山氏がホスト(ホステス)となって、写真家・吉川直哉氏による40分のミニレクチャーが催された。

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横にWord開いてメモ打ちやすいの図

 

以下、気付きや学びをmemo。イベントの記録と、私自身の感覚を混載。

 

 

「Manabi-Bar」、本来はギャラリー内で、その名の通りお酒も入れつつのワークショップという形で実施されてゆくシリーズ企画(今年度はワークショップ形式)だったところ、今般のコロナ対応により、まず初回は手探りでのオンライン開催となったとのこと。

 

40分はあっという間。

講義やトークを受け身で聴くというよりは、私には”自問自答タイム”だった。

   

それは

 

「あなたは今、どう生きるのですか」

 

という問いであった。

 

blogを推敲している今・5/22(金)現在では、京阪神の緊急事態宣言の解除を受けて、早くも街に活気が戻りつつあり、既にこれらの言葉は大袈裟かもしれない。だがトーク時には、私達は長い自粛期間の内側にいた。

 

世界中で多くの人が、新型コロナウイルスによって前代未聞の、世界的な生命・健康の危機に見舞われており、生活様式の変更に迫られている。

立ち会っている状況に、個々人は何が出来るのか。

我が事として現在の状況を考えること。この点は、前回体験したZoomワークショップで鈴木崇氏が言っていたことと共通するところがある。

  

www.hyperneko.com

 

冒頭から、吉川氏は自身について、哲学者や思想家、医療関係者、あるいは評論家など「ではなく」、表現者として」と、その立ち位置を改めて確認したうえで、「表現者として今、立ち会っているものに対して、何が出来るのか」と、思うところが語られた。

 

これまでの大規模災害は、人災にせよ天災にせよ、当事者と傍観者、「こちら」と「むこう」がはっきりと分かれていた。しかし今回の新型コロナウイルスについては、境目が全く見失われた。ワクチンが開発されていない現時点では、誰も決定的に感染を防げる術がなく、また日常生活やコミュニケーションを通じていつでも・どこかで感染しうる。経済、人の移動のグローバル化とも相まって、ミクロとマクロで国や都市、個人の境界が浸食されてゆく事態はまさに、「人類全体が当事者である」と語られた通りだ。

  

コロナ禍によるソーシャルディスタンスを期に、私たちがそれぞれのレベルで、それぞれの立ち位置において「当事者」であるという認識を、この機会に改めて得ることになる――いや、得たとしよう。

されば、ここからは「何のために写真をやっているのか」「何のために写真を撮るのか」を考えながら、腹を据えて写真に取り組んでいくことになるだろう。その態度と行為によって、作品制作の端緒となる動機や想いの「インプット」と、その結実たる成果物「アウトプット」との間をとり結ぶ中身の部分:「リサーチ」が繋がり、膨らみ、起点と終点がより強く太く結ばれてゆくことになる。

 

今回のレクチャーで強調されていた「リサーチ」の重要性については、前後を絡めてそのように理解した。

 

写真は「押せば写る」。それが「作品」へと昇華するためには、他者への説得力を持つための「リサーチ」が必要である――だがそこには簡単な結論はなく、またこのトークの場も、簡単に答えを示すものではなかった。何々すればよいとか、何々しなければならない、といった回答は、ない。先述の通り、吉川氏は作家として、今般の状況に向き合っているため、言葉による解決を求めたり示すのとは真逆の、言葉に縋らない歩みの姿勢を見た感がした。

 

それが一つの「問い」としてのバトンとなった。

 

私見

表現(者)、特に「写真(家)」としての態度と成果は、言葉や数字よりもずっと遅れて現れる。

例えば既に、「現代思想」2020年5月号の緊急特集「感染/パンデミック」(4/28発売)では、新型コロナ禍に対する今年1~4月の国内外の状況、各国の疫学的・政治的対応の事実関係の確認に加えて、過去のパンデミックとの比較や、哲学・思想からの読み解きなどが、スピード感をもって行われた。

 

表現活動の中で、言葉と数字は恐らく最も「速い」。そしてコストも少ない。最小限の手間で速射が可能だ。そのためTVやTwitterは情報と意見の表明・拡散がとにかく速くてハイテンションになれるのだが、その代償として酷いことが連日のように起きている。「答え」の乱発だ。

状況に対する応答の速度には優れるが、速度が中身をそぎ落としてゆく。ヒトの心身の内側や日々の暮らしの中に「状況」が落とし込まれるには、言葉だけでは、速すぎるがあまり、手に負えないのだ。3日前に自分が何を聞いたか、何を言ったか、覚えていないことの方が遥かに多く、そういう人の方が大多数だろう。

むしろその時々の情報と感情を切り抜き、整理したり、言葉は多用される。正体の分からない体調不良に向かって、効いているかどうか分からない風邪薬を投じ続けるように(それらは大体、抗ヒスタミン剤とカフェインが入っているので、決定的に「落ちる」ことはなく、何らかの効きが見込まれる)、対処法的に効き、落ちずに目を覚まし続けていられるような「答え」が乱発される。特にTVでは、専門分野での実績の有無や、科学的根拠の有無はあまり問題ではない、刺激的で尺に合った風邪薬的「答え」を発せられるかが重要となっている気がする。

 

写真がやってくるのは、恐らくもっと後だ。なぜなら写真は言語や数値ではなく、それらとは異質で、ゆえに「答え」ではない。もっと混然とした、波打つ鏡のようなものだ。

 

「今般の、この新型コロナ禍、”ソーシャルディスタンス”の時代を踏まえて、何を考えるか? 何を撮るのか?」

 

トークでは答えではなく、「問い」のバトンが手渡されたように感じる。

 

バトンの感触は、Zoomならではなのかもしれない。

Zoom講義の利点は、話し言葉が遮蔽物なく、直接こちら側へ、生の温度とベクトル持って入ってくることだ。話し手との距離感は、不特定多数向けの「講師」と「家庭教師」の間ぐらい(かなり後者寄り)になる。

また、通常の動画再生とも異なり、基本的には一期一会のライブとなるため、緊張感があり、集中力が高まる。

 

例えばYouTubeでは、同じ「ライブ」中継であっても聴き方はかなりマッタリする。YouTubeの配信者にとっては、話しかける相手は不特定多数であって「私」ではないし、向こうもこちらが見えていない。そのうえ、後に通常動画としてアップされ直されることが分かっている(=再現性が確保されている)ため、聴き手の受け止め感は乏しい。

だがZoomでは、語り手と聴き手の顔とログイン名がフラットに並んで画面に表示されており、聴き手を匿名のWebユーザーからある確かな「個人」へと引き戻す仕組みがある(同時に、語り手もまた個人として復権する)。それが程好い緊張感になる。そうしたインターフェイスの作用によって、言葉は聴講者全体というより、半ば個人に向けられているように入ってくる。

 

会議とハンコと飲み会のために出社していたような、旧態依然とした私達の社会が、感染への恐れか同調圧力かは分からないが、ともかく「自粛」生活2ヶ月ほどの間に在宅ワーク・遠隔コミュニケーションへと転換し、Zoomが人々が集まる場として標準モデルとされるようになったのは、実に稀に見る大きな変化だった。

イノベーションなどという意識高い勢力の好む魔法が、原始的な存在によっていともあっさりと着手されたのが皮肉で、愉快ですらあった。

 

だが、変わるものがあれば変わらないものもある。もしかするとアフターコロナがインフルエンザと同程度の扱いの社会に収まった際には、リアル交流・リアル出勤の良さが再強化され、Zoom的な潮流は非常事態のオルタナティヴへと後退するかもしれない。

 

そして都市空間。

多くの店舗が経済的ダメージから撤退、廃業し、広告を取り下げ、街並みは歯抜けのようになるかもしれない。あるいは中国で起きているようなリベンジ消費の波によって、反動から購買・遊興が伸びるかも知れない。そんな中で、都市に張り巡らされた監視のシステムは、より強度を増して稼働し続けているように感じる。インバウンドで膨らみきっていた有象無象の群衆が消え去り、ごくわずかの限られた人間が行き来する環境にあっては、分不相応なまでに天井に並ぶ監視カメラの黒い眼の数が、実に、都市の本性を見せた感がある。

 

ウイルスの勢力とは無関係にその瞳の奥は生きていて、こちらを一方的に見続けているのだ。

 

また浮かれた人混みに紛れて、日々を生きていければいいなと思う。県境、国境をまたぐ移動が困難なうちはそれも難しい。1年後か、2年後になるのか。

 

 

妙な締め括りになったが、レクを聴きながらそのようなことを思った。

 

 

( ´ - ` ) 完。